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1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/05/14のブログ 新倉館 猪俣城 新堀屋敷
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合23
所在地
 埼玉県児玉郡美里町南十条字南曲輪506−2
歴史、人物、伝承

桜沢氏に関連した遺構か
 大字名の南十条という地名は南から数えて丁度10町目に該当することから付けられた古代条里制の名残りと考えられています。しかし、1974年からの県営圃場整備事業の実施に伴いかつての景観は失われているとのことです。(「美里町史 通史編」より)こうしたことから比較的早くから開けていた地域であることが考えられますが、本来大里郡桜沢地区を本拠地としていたはずの桜沢氏の一族が、何時頃からこの南十条の地に居館を構えるようになったのかについては、はっきりとしたことが分かりません。
 なお、桜沢氏は武蔵七党猪俣氏の一族とされ、藤田五郎政行の曾孫氏兼の子宗氏が大里郡桜沢村に居を構え桜沢四郎左衛門と称して桜沢氏の祖となったとされています。

確認可能な遺構
 無し ただし、北側と東側に堀跡の名残と思われる用水路が所在
地理的特徴

水田の中の微高地
 小山川右岸の自然堤防上の微高地に所在し、周囲は古代条里制時代からの水田地帯が広がる平坦地です。なお、館跡推定地の東側に隣接する宅地部分の区画に条里制の名残とも推定される1町四方(約109メートル四方)の地形が南北方向に連続した形で3区画ほど残されています。

文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年5月14日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/05/14 )
 あると言えばある、ないと言えば無いような
 堀跡、土塁跡などの遺構が遺されているかも知れないという情報もあり、僅かばかりの可能性を求めて該当地域をぐるりと一周半。確かに東側および北側の水路部分は堀跡の名残のような印象が濃厚に感じられます。
また小山川の堰堤近くの水路には大きな錦鯉が棲息。一瞥した限りではなかなか趣のある佇まいを見せておりましたが、よくよく夏草に覆われた水路を観察するとがっちりとコンクリートの擁壁に囲まれた構造物なのでありました。
 また土塁跡については宅地化の進行により造園工事との判別が難しく、強いて言えば西のはずれに所在する稲荷神社周辺に人工的な盛り土を確認できる程度なのでありました。なお、城館跡名と同一姓のお宅も付近に何軒かお住まいのようでした。

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趣の感じられる堀跡の名残と思われる北辺西側の用水路
( 2007/05/14 撮影 )
訪城アルバム
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凸1小山川右岸の竹林
 治水事業が完了する以前の洪水被害、および小山川(身馴川)の堤防築造を含む大規模な河川改修が行われていると考えられます。このため些か地表の凹凸が気がかりではありますが、遺構とは直接の関係がなさそうです。また、この画像の右方向に余り古さを感じさせない比較的大きな溝跡が所在していましたが、おそらくは宅地の排水等にともなうものかも知れません。
凸2稲荷神社付近の微高地
 西側に所在している稲荷神社の付近はある程度歴史を感じさせる高さ1メートル前後の人工的な盛り土が確認できましたが、果たして何時の時代のものであるのかについては分りかねました。
 なお、この稲荷社であるかどうかは不明ですが「武蔵志」の児玉郡八幡山領十条村の項に「上州赤城大神を遥拝することを目的として建立された」との記述を見ることができます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古記録・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 児玉郡十条村の項に「榛沢郡小前田村の民兵五郎が永禄年間の北条安房守氏邦より与えられた文書に十条村の地名が見えることからそれ以前に集落が存在したことが確認できる」との一文が記されています。しかし、この桜沢氏館に関する記述はありません。
■武蔵志
 明治末年から大正期にかけて日本中の多くの神社の合祀が強制されましたので、画像「2」の稲荷神社であるかどうかは不明ですが、多少なりとも関連する事項として「稲荷 北向..」との文言が記され確かに社殿に対すると北側を向くように配置されていました。
■武蔵国郡村誌
 宝暦年間に十条村から分村された南十条村の項に「南曲輪 村の北方にあり 東西1町36間南北1町35間」との記述がなされ、「埼玉の中世城館跡」の新倉館の解説の中において桜沢氏館に相当する記述であるとの指摘がなされています。
凸参考・引用資料 (太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「寄居町史 通史編」(寄居町教育委員会/1986編集発行)
「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)

・2007/12/29 HPアップ
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