凸「新編武蔵風土記稿」に記された「南村のりゅうがい山」か
「新編武蔵風土記稿」の秩父郡南村の記述によれば、「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄が城跡なりと云 ...登ること十町ばかり 頂上平坦五六十坪 松杉及び雑木生茂れり 堀石垣等の形僅存せり..」と記されています。
資料をざっと調べた限りでは現在は坂石町分に所在する「りゅうがい山」が、本来は南村の飛び地である元組に所在していたことが分かりました。従ってこの「新編武蔵風土記稿」の記述は原市場に所在する「リウガイ山」を指すものではないという可能性が多分にあるものと考えられます。
また、「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)によれぱ、北方の坂石地区に所在する「岡部屋敷」をリウガイ山であるとする伝承もあるようですので、その辺をまとめて整理すると一応下記の表のようになります。
「風土記稿」の記述 |
リウガイ山 |
岡部屋敷 |
りゅうがい山 |
村の南 |
南方だが原市場 |
北東で坂石に所在 |
南村元組の南に所在 |
登ること十町 |
概ね合致 |
二、三町 |
概ね一致 |
頂上平坦五、六十坪 |
概ね合致 |
300坪以上 |
景観一致 |
松杉雑木茂れり |
景観一致 |
景観一致 |
景観一致 |
東に物見山 |
不明 |
不明 |
該当地形存在 |
愛宕社 |
不明 |
位置関係が矛盾 |
存在 |
四、五百坪の中屋敷 |
方角違いの地名あり |
地名あり |
存在 |
このことから上記の「新編武蔵風土記稿」の記述については南村飛び地の元組を指している可能性が高く、「村の南」という記述以外は「登ること十町」に始まる「物見山」「愛宕社」「中屋敷」などの存在についても概ね合致しているように思われます。(出典「飯能市史資料編XI地名・姓氏」「埼玉県全図」(地租改正の原図を元に明治18年に作成したもの)などより) なお、この「りゅうがい山」は「埼玉の中世城館跡」の調査対象とはされていません。
凸飯能市内の「りゅうがい山」は4ヶ所ほど存在
なお、飯能市内にはややこしい事に「要害」から転訛したと考えられる地名が4ヶ所存在しているため、ここで簡単に整理するとおよそ次のようになるものと考えられます。
①大河原城(竜崖山とも、大河原地区に所在)
②リウガイ城(所在地は原市場)
③根古屋城(竜がい山とも、所在地は下名栗)
④りゅうがい山(吾野駅南東に所在し現在は坂石町分)
凸関係する歴史上の人物
「新編武蔵風土記稿」の記述に基づき麓の岡部氏との関係を憶測することができる程度でありその詳細については一切不明です。
岡部氏は武蔵七党猪俣党の流れを汲み、「武蔵七党系図」によれば猪俣忠謙の子忠綱が岡部の地に来住し岡部六大夫と称したことに始まるようです。この地域は「飯能市史」によればそうした岡部氏の一族が支配していたとされ、おそらくは岡部氏を含む在地勢力が後北条氏の支配の下で武田・上杉氏らの侵攻に備えて構築した城郭のひとつであろうと推定されます。なお、天正18年の松山城の攻防の軍勢の配置を示したとされる「天正庚寅松山合戦図」において、古郡・柏崎・今泉方面の城方(後北条方)として岡部越中守忠直という名が見えますが飯能地域の岡部氏との関係は不明です。
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