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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯1 印象5 総合26
所在地
埼玉県飯能市坂石町分
歴史、人物、伝承

「新編武蔵風土記稿」に記された「南村のりゅうがい山」か
 「新編武蔵風土記稿」の秩父郡南村の記述によれば、「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄が城跡なりと云 ...登ること十町ばかり 頂上平坦五六十坪 松杉及び雑木生茂れり 堀石垣等の形僅存せり..」と記されています。
 資料をざっと調べた限りでは現在は坂石町分に所在する「りゅうがい山」が、本来は南村の飛び地である元組に所在していたことが分かりました。従ってこの「新編武蔵風土記稿」の記述は原市場に所在する「リウガイ山」を指すものではないという可能性が多分にあるものと考えられます。
 また、「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)によれぱ、北方の坂石地区に所在する「岡部屋敷」をリウガイ山であるとする伝承もあるようですので、その辺をまとめて整理すると一応下記の表のようになります。

「風土記稿」の記述 リウガイ山 岡部屋敷 りゅうがい山
村の南 南方だが原市場 北東で坂石に所在 南村元組の南に所在
登ること十町 概ね合致 二、三町 概ね一致
頂上平坦五、六十坪 概ね合致 300坪以上 景観一致
松杉雑木茂れり 景観一致 景観一致 景観一致
東に物見山 不明 不明 該当地形存在
愛宕社 不明 位置関係が矛盾 存在
四、五百坪の中屋敷 方角違いの地名あり 地名あり 存在

 このことから上記の「新編武蔵風土記稿」の記述については南村飛び地の元組を指している可能性が高く、「村の南」という記述以外は「登ること十町」に始まる「物見山」「愛宕社」「中屋敷」などの存在についても概ね合致しているように思われます。(出典「飯能市史資料編XI地名・姓氏」「埼玉県全図」(地租改正の原図を元に明治18年に作成したもの)などより) なお、この「りゅうがい山」は「埼玉の中世城館跡」の調査対象とはされていません。

飯能市内の「りゅうがい山」は4ヶ所ほど存在
 なお、飯能市内にはややこしい事に「要害」から転訛したと考えられる地名が4ヶ所存在しているため、ここで簡単に整理するとおよそ次のようになるものと考えられます。
①大河原城(竜崖山とも、大河原地区に所在)
②リウガイ城(所在地は原市場)
③根古屋城(竜がい山とも、所在地は下名栗)
④りゅうがい山(吾野駅南東に所在し現在は坂石町分)

関係する歴史上の人物
 「新編武蔵風土記稿」の記述に基づき麓の岡部氏との関係を憶測することができる程度でありその詳細については一切不明です。
 岡部氏は武蔵七党猪俣党の流れを汲み、「武蔵七党系図」によれば猪俣忠謙の子忠綱が岡部の地に来住し岡部六大夫と称したことに始まるようです。この地域は「飯能市史」によればそうした岡部氏の一族が支配していたとされ、おそらくは岡部氏を含む在地勢力が後北条氏の支配の下で武田・上杉氏らの侵攻に備えて構築した城郭のひとつであろうと推定されます。なお、天正18年の松山城の攻防の軍勢の配置を示したとされる「天正庚寅松山合戦図」において、古郡・柏崎・今泉方面の城方(後北条方)として岡部越中守忠直という名が見えますが飯能地域の岡部氏との関係は不明です。

確認可能な遺構
土橋?、堀切?、竪堀?、腰郭?
地理的特徴

秩父往還を睥睨する要害
 標高354m、比高差170mの独立峰で、南側には伊豆ヶ岳から大高山へと向かう長大で峻険な山陵が屏風のように延々と続いています。
 なお現在は杉の植林のため眺望が遮られているものの、本来は眼下に国道299号線を睥睨できるという絶好の立地条件。また麓近くに岡部屋敷、中屋敷などの岡部氏関係の遺構も所在していまので、このことから戦国期には岡部氏関係の詰城のような役割を果たしていたとも推定されます。

文化財指定
訪城年月日
2007/01/22、01/27、03/31
訪城の記録 記念撮影

( 2007/01/22 )
謎の城郭遺構との対面
 始めに駐車場所の確保のため坂石小学校跡地付近の「岡部屋敷」へ。 西武線のガード手前の平坦地を「中屋敷」とも呼ぶらしく、旧原市場村の「中屋敷」との関係もあるので最初から頭が混乱状態に突入。 近道をするために「岡部屋敷」側から登ることも考えたもののルートが不明確なことに加えて踏跡が見当たらず。 最終的には「登るよりも下るほうが楽だろう」と考えて大高山のハイキングルートの途中からアプローチすることに。
 法光寺の谷沿いの墓地脇の道を進むと、すぐ左手の尾根筋に取り付く指道標が所在。 ここからは大高山(493m)、天覚山(445m)へのハイキングルートであるため山道としては十分整備され比較的良好なルート。 ルートの途中では急に出現する謎めいたダイナミックなⅤ字状の深い谷、意外なほど平坦な峠部分など飽きさせない興味深い地形が各所に散見。 然しその何れも中世城館跡の遺構とは直接の関連はない模様。
 途中、明らかに自然崩落と思われる竪堀状地形1ヶ所と 唯一「堀切」あるいは「竪堀」類似地形と推定できる地形が1ヶ所。 山側には堀切との比高差3メートルほどの巨岩があり、その上部からは堀切部分を睥睨するという位置関係。 山頂自体は余り広くはなく現在は杉の植林のため視界が遮られているものの、本来は坂石町分の吾野周辺の集落を見通すことができるという本来的には眺望良好な地理的条件であることを確認。
 標高354mの山頂から東側へとのびる平坦な尾根筋がとても気になったので、この際比高差60mと推定される急斜面の上り下りを敢行。 このとき摑まるものがなく、まず1度スライディングして上空を見上げるという結果に。 残念ながら東側の尾根筋上では平場、堀切などの一切の人工地形の存在は確認できず。 唯一の成果といえば、降りるのも登るのも小さな岩場などが障害となり極めて大変な労力を伴うものであることを体感したことなのでありました。 その結果として東側については「堀切」「腰郭」「竪堀」などの普請が全く不要であることも判明したという次第。
 さて漸く再び山頂へと這い上がり、「りゅうがい山」の北尾根中腹に所在するはずの「岡部屋敷」を目指すことに。 方位磁石と現地の地形を十分に確かめて比高差100メートルほどの下降を開始。 獣道さえ見当たらない杉の植林された斜面を下降中に本日2度目の転倒。 途中から杉の植林のため視界が利かないものの、上方からの地形判断により些か方向がずれていることが判明。 途中から西側へ50mほどトラバースして細い尾根上に僅かな人間の者と思いたい踏跡を発見。 然し朝方までの雨のためたっぷりと湿った杉の木の根のため、ふたたび落ち葉の斜面にて自分の意思とは関係なく3度目のスライディングを敢行。
 こうなるとこれ以上のリスクは回避せねばならないので、デジカメは背中のザックに収納し両手を完全にフリーに。 かつ、危険作業用の特殊手袋を装着しあらかじめ転倒の準備だけは怠りなく整えた結果大きな怪我などは一切なし。 然し無数の擦り傷を負っていたことが後に判明したのでありました。

( 2007/01/27 )
追跡調査 
 途中前回に訪れた判断の難しい「堀切」「竪堀」状地形の所在する「りゅうがい山」に立ち寄り、これでもかとばかりにその都度ASAなどの細かい設定を行いつつデジカメ撮影。 今回は何とかピンボケと露出不足の解消には成功。 然しやはり叢生する樹木と地形上の問題から決定的な構図を得られず仕舞いなのでありました。 三脚も持参したものの、ASAの設定で1/30程度のシャッター速度が得られるので結局は未使用のままにて。
 この山頂西側の「堀切」「竪堀」などの一連の遺構についての判断は実に難しいところです。 然し、「遺構」らしき地形の存在と合わせて
①秩父と飯能市街を結ぶ高麗川沿いの往還を眼下に見下ろせる地理的条件
②尾根続きの麓に近い中腹に所在する「岡部屋敷」との関係
③「りゅうがい山」という地名の存在すること
などの諸点を総合すると、ある程度「中世城館」との関連を想定することも可能であるように思われます。勿論具体的な時代背景、歴史上の人物とのつながりについては岡部氏などとの関連が憶測されるほかには、伝承も含めて殆んど手がかりがありません。

( 2007/03/31 )
確認調査
 今年の1月27日以来3度目(正確にはデジカメの故障時も含めると4度目)の訪城。 やはりハイキングコースの尾根筋沿に所在するV字状の谷は謎の多い地形にて。 この「りゅうがい山」は根古屋城と比べ土質・植生の違いのためかかなり樹木の生育が宜しいようで城館跡の探訪にはギリギリでありました。

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吾野の坂石町分の「りゅうがい山」
( 2007/01/27 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 大高山北尾根から眺めた「りゅうがい山
 この山が城館跡の可能性があるかもしれないと思い立ったのは、実を申せば何を隠そう昭文社発行の「」山と高原地図22奥武蔵・秩父」というハイキングのための地図なのであります。
 勿論「城跡」などとの親切な表記はありませんが、城跡好きにとっては「りゅうがい山」との名称だけでアドレナリンが一気に放出され心躍るのであります。
                 
( 2007/01/27 撮影 )
凸2 分かりにくい地下道 ( 2007/01/27 撮影 )
 およそのルート、所在地などは前回概ね確認済みで、唯一不明なのは「りゆうがい山」への登山口のみ。  吾野の駅前の売店にて儀礼上105円の「ボンタンアメ」(これが昼食代わりで非常食はこのほかにカロリーメイトが5箱も)を購入しとりあえず大高山への道を伺うことに。すると大高山への道は西武線の下の幅の狭い地下道を抜けていくとのこと。これでは前回まったく気がつかなかったはずにて。

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凸3 分岐 ( 2007/01/27 撮影 )
 今回は購入したばかりのデジカメのテストも兼ねている為、時間の割には全く先に進まず大高山のハイキングルートの入口に着いたのは既に12時40分。続いて「りゅうがい山」への分岐表示(少し先には小さな行き止まりの表示あり)に到着した時には既に午後1時頃。
 この先にも巨岩や深いⅤ字谷ありと防御には事欠かない地形が所在。 こうした自然?地形のなどを撮影していたので、漸く「りゅうがい山」の山頂に到着したのは何と午後1時20分過ぎという始末にて。
 画像クリックで堀切まがいの自然地形へ
凸4 巨岩
 「土橋」部分からの高さは3mほどですが、谷底の方からは10mくらいの高さを測る存在感のある巨岩。
 この岩の上で四、五人が弓・鉄砲を構えていると大きな被害を被ることになるかと思われます。
                 
( 2007/01/22 撮影 )


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凸5 土橋と堀切 ( 2007/01/27 撮影 )
 堀切状の個所は幅1メートル未満、長さ2mほどの細い土橋状の地形を形成し、南北方向には些か自然地形との区分が難しい竪堀状の地形を伴う地形となっています。 特に北側(画像の左側)は高さ10メートルほどの絶壁と自然地形のⅤ字谷につながっているため、そのトラバースは危険極まりなくほぼ不可能と断定。
凸6 巨岩の上から眺めた土橋・堀切
 西側にあたる右側からの狭い一本道の様子は丸見えなので一人ずつ確実に戦力を削ぐことが可能であると思われました。この岩の東側には細長い削平地(郭か)が所在し交代で寄せ手を一方的に攻撃することができます。
               
     ( 2007/01/22 撮影 )

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凸7 堀切に続く南側の竪堀状の地形
 幅約2間、深さ1m弱、長さ20m以上ほどの規模を有しています。         
( 2007/01/27 撮影 )
凸8 南側の竪堀状の地形 
( 2007/01/27 撮影 )
 南側の竪堀を5mほど下って撮影したもの。


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凸9 東側のもうひとつの竪堀状地形
 自然地形との区別が付きにくいのですが「7」「8」の竪堀状の地形に平行する形で削平地の東側に所在しています。                  (2007/03/31 撮影)
凸10 北側の腰郭状地形
 この日同行いただいた史進殿のご指摘により、改めて山頂から見下ろすと北側の尾根筋に腰郭状の半円形の地形が。 この際なので山頂から腰郭らしき地形を目指してそのまま降下。実際下りてみると確かに緩斜面の平坦地を形成。岡部屋敷の詰の城と想定すれば腰郭説も有力かと。然し材木の搬出に伴う地形とも。
                     (2007/03/31 撮影)

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凸11 登るのも下るのも厄介な北側斜面
 北側の中腹に所在する「岡部屋敷」へと下る急斜面で、この日は3度目の転倒を。 
(2007/01/22 撮影)
凸12 「りゅうがい山」と「岡部屋敷」
 奥の三角形のピークが「りゅうがい山」で、右手前のこんもりした小山が「岡部屋敷」の所在地です。
                     (2007/03/31 撮影)


交通案内

・西武線吾野駅より徒歩45分
・標高354m/比高差約170mで道自体は悪くはありませんが、できれば軽登山程度の装備が必要です。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 秩父郡南村の項に、「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄が城跡なりと云 ...登ること十町ばかり 頂上平坦五六十坪 松杉及び雑木生茂れり 堀石垣等の形僅存せり 是より東の方谷を阻て 物見山と云える處あり 北の方へ下る事五六町ばかりの所に愛宕社の小祠あり 其下に四五百歩の平地あり是を中屋敷と云」と記されています。
■武蔵志
 周辺地域を含めて欠落しているため具体的な記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」
「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市)
「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市) 

・2007/05/03 HPアップ

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