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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/01/25の日記 根古屋城(旧名栗村) 小瀬戸城 大河原城(竜崖山城) 岡部氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便3 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合26
所在地
埼玉県飯能市原市場東沢1711付近
歴史と沿革

岡部氏関係の城郭のひとつか
 「新編武蔵風土記稿」の秩父郡南村の記述によれば、「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄が城跡なりと云 ...登ること十町ばかり 頂上平坦五六十坪 松杉及び雑木生茂れり 堀石垣等の形僅存せり 是より東の方谷を阻て 物見山と云える處あり 北の方へ下る事五六町ばかりの所に愛宕社の小祠あり 其下に四五百歩の平地あり是を中屋敷と云」と記されていることが唯一の手掛りとされているようです。
 然し、その後の私的調査で坂石町分に所在する「りゅうがい山」が本来は南村の飛び地であったことが判明しました。従ってこの「新編武蔵風土記稿」の記述は原市場に所在する「リウガイ山」を指すものではないことが明らかとなりました。--訂正追記(2007/02/11)--

 岡部氏は武蔵七党猪俣党の流れを汲み、「武蔵七党系図」によれば猪俣忠謙の子忠綱が岡部の地に来住し岡部六大夫と称したことに始まるようです。この地域は「飯能市史」によればそうした岡部氏の一族が支配していたとされ、おそらくは岡部氏を含む在地勢力が後北条氏の支配の下で武田・上杉氏らの侵攻に備えて構築した城郭のひとつであろうと推定されます。
 また、「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)によれぱ、北方の坂石地区に所在する「岡部屋敷」をリウガイ山であるとする伝承もあるようですので、その辺をまとめて整理すると一応下記のようになります。したがって、どちらかといえばこの原市場東沢の遺構を「風土記稿」に記されたリュウガイ城と比定する方が妥当であるように思われます。--訂正追記(2007/02/11)--

「風土記稿」の記述 リウガイ山 岡部屋敷 りゅうがい山
村の南 原市場だが南方 北東で坂石に所在 南村元組の南に所在
登ること十町 概ね合致 二、三町 概ね一致
頂上平坦五、六十坪 概ね合致 300坪以上 景観一致
松杉... 景観一致 景観一致 景観一致
物見山 不明 不明 存在(推定)
愛宕社 不明 不明 存在
四五百坪の中屋敷 地名あり 地名なし 存在

訂正追記のまとめ(2007/02/11)
 その後、上記の「新編武蔵風土記稿」の記述については南村の飛び地である元組を指していることが判明しました。したがって「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄が城跡なりと云 ...登ること十町ばかり 頂上平坦五六十坪 松杉及び雑木生茂れり 堀石垣等の形僅存せり」との記述は、まさに現在の「坂石町分」に所在する「りゅうがい山」を指しているものであり「物見山」「愛宕社」「中屋敷」の存在についても概ね合致することが判明しました。(出典「飯能市史」資料編XI地名・姓氏より)
確認できる遺構
土塁、腰郭、堀切、郭、小口?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■名栗川の支流に南北を挟まれた標高382メートルほどの山上に所在し、主郭を中心にその東西に堀切で区切られた2か所の郭、複数の腰郭などが配されています。
 地形的には東西に長いほぼ独立した山塊の形態をしていますが、全体として南北に所在する稜線よりも100メートルぐらい標高が低いので眺望は全く優れません。、秩父と飯能を結ぶ名栗川沿いの往還から1キロメートル以上も奥まった場所に構築していることから積極的な戦略的意図があったとは想定しがたいものを感じます。

文化財指定
訪城年月日
2006/01/25
訪城の記録

( 2006/01/25 )
アップダウンの連続攻撃に足元ふらふら
 同じ飯能市内(旧名栗村)の根古屋城と同様にこちらの方もあまり登口が明確ではありません。この日はおまけに先日の降雪で谷沿いの路面は日当たりが悪く未だ一部凍結の状態。この分ではおそらく北側斜面は凍結個所もあるやも知れずということで、当初予定していた北側の谷沿いからの直登を断念。やはり安全第一ということで、やや遠回りになることを承知で東側の尾根筋を西上することに。
 予想はしていたものの、5回あるいは6回ぐらいのアップダウンの繰り返しの後、歩き始めて約1時間ほどで東側の堀切付近にやっとこさ到着。こう書いているといかにも気楽に尾根筋ハイキングをしていたかのよう。しかし、実際には尾根筋の眺望が殆どないので何時になったら城跡らしき場所に到達するのかヤキモキのしっぱなし。リュウガイ城の往復の間に落ち葉の敷き詰められた急斜面で少なくとも都合5回以上はこけましたです。
 全体としては比較的緩やかな尾根筋のアップダウンですが、所により30度ほどの急斜面で掴まるものが何もない個所も数か所ほど。特に主郭の東側斜面は比高30mほどですが、痩せ尾根なのでジクザグに登るということもできず滑りやすくていささか閉口を。
 肝心の遺構の方はどうだったかというと、城跡からの眺望は植林と潅木の常緑樹のため殆どない状態であったことも影響して、主郭を始めとして複数の腰郭や堀切、土塁、竪堀と一通りは遺されているものの、現地解説板はおろか城跡であることを示す石碑の類もなく残念ながら強烈な印象を残したという程のものではありませんでした。実際のところ、往復2時間かけて訪城するだけの価値があるかどうかは人により意見の分かれるところかも知れません。

記念撮影

 城跡の一番東側の堀切部分で結果的にこの写真が最も遺構の状態をそれらしく伝えていることとなりました。30メートル以上も上方に所在している主郭へ進むにはこの堀切を乗り越えて30度ほどの急坂をハアハアいいながら登っていきます。山道そのものははっきりとしていますのでまず間違えることはありません。
 また、全体として南北に所在する稜線の方が100メートルぐらい標高が高く眺望が優れません。尾根筋で目に付いた空き缶などのゴミも3個だけということが示すように流行の低山ハイキングには向かないようです。

( 2006/01/25 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■やや遠い登口
 本来ならば1キロメートル以上西側に所在する妻沢運動場の先の谷から直登する予定でしたが、北側の谷あいにはまだ積雪が残り車道自体も一部凍結している個所も散見されました。そんな事情に加えて格好の駐車スペースとこのような尾根筋への分かりやすい道が見つかったので、急遽この山道からリュウガイ城へ向うこととしました。
 地元の皆さんが立てた標識には「中之坂を経て日影・赤沢」と記されていました。ちなみに「日影」は原市場、赤沢、中藤村をあわせた古い地名であるようです。
■2■巨大堀切発見か(^^;
 頭上に見えた尾根筋までは僅か3分も要さずに到着し、見事な切通しをしばし眺めていました。ここから右手(西)にすすむと「リュウガイ城」へ、左手(東)にすすむと「中屋敷」と呼ばれている平場に到達します。形状的には確かに尾根筋を堀切っているので、「堀切」には相違ありませんが、東西に張出す尾根の南北の渓谷沿いに広がる集落同士を結ぶ峠の切通しのようです。中屋敷の所在地に近いのでことによるとそれに関連したものかもしれませんが詳しいことは分かりません。
■3■思いのほかのアップダウンのある尾根筋
 東京電力の高圧線の鉄塔までは木製の階段が施されていますが、その先からはあまり人が入り込みそうもない山道となります。予想はしていたものの、それにしてもアップダウンの多い尾根筋です。30m登ったかと思うと20m下りといったパターンの繰り返し。いい加減に到着してほしいなどと呟きながら前方の地形を確認しつつ前進。
 この写真の個所は一見最初の東側の堀切かとも思ったのですが、ただの自然地形の鞍部らしく城跡の遺構まではまだ100mほどの距離を残していました。
■4■腰郭
 一番東側の堀切上部に所在する面積40平方メートルほどの腰郭。
 なお、途中の尾根筋で何度か大型哺乳類のものと思われる大量の糞を発見。このあたりは熊はいそうもないので多分イノシシではないかと。念のため資料やデジカメをザックに収納して、予め用意していた鉈を腰に吊るすことに。尾根筋の道自体は、高圧線の鉄塔やテレビの電波の中継施設などが3ヶ所ほど存在するために踏み跡もはっきりしていて、冬場ならば全く問題なく通行可能かと。
■5■腰郭
 「4」の場所を上部から撮影したもの。
画像クリックで拡大します
■6■腰郭 画像クリックで拡大
 「4」「5」の腰郭の10mほど上部に所在する面積にして40平方メートルほどの腰郭で、かなり急な上り坂。帰路この坂道の下りで見事に滑って体を支えたときに手首を傷めたかと思ったほど。(転び方が良かったので大事無し(^^))
■7■主郭東側の三の郭
 広さにして150平方メートルほどの平坦地で腰郭ともいえる程度の広さでした。なおこの郭の東側の尾根筋にはこのほかに2か所の腰郭と1か所の堀切が遺されています。
■8■腰郭
 主郭と三の郭の間の堀切の堀底道から続いて主郭の帯郭状に北側をまいた形状となっていますが、写真にすると訳の分からない光景となりました。
■9■主郭東側の堀切部分
 向って右側の三の郭部分には高さ1mほどの土塁も確認できます。現状での堀切の深さは2..5mから3mほど。
画像クリックで拡大します
■10■主郭 画像クリックで拡大
 山の神を祀ったものと思われる昭和30年代の半ばに建立された祠。文言には寄進者の氏名などが刻まれているだけで当然城跡との直接の関わりはなさそうです。幅10m×長さ35mほどの細長い主郭の南北の両面は切落とされているようで、直接登ってくることはかなり難しそうでした。
■11■主郭東側の土塁
 中央部分が凹んでいますが、小口なのか長年の通り道のために窪んだのか何ともいえないところです。歴史的な経緯は殆ど不明な模様ですが、これだけの遺構があるにも拘らず、訪れるひとがあまりいないというのは全くもって残念です。直接登ることができる道が存在せず、史跡など文化財としての指定もなく、もちろん道標や解説板などが存在しないことも訪城を疎遠なものにしているのかもしれません。
■12■主郭西側の堀切部分
 肉眼では堀切の形状・規模がはっきりと把握できますが、写真にするとご覧のような始末です。左側が二の郭で右側が主郭で堀切の深さは3m前後というところです。
画像クリックで拡大します
■13■二の郭北辺の土塁 画像クリックで拡大
 二の郭はかなり凹凸が激しく、また南側の一部が崩落しているとのことですが、常緑樹の潅木が蔓延っていて形状が掴めませんでした。そうした中でこの北辺の土塁だけが唯一の明確な遺構として目にすることができました。
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■14■三の郭から本郭 画像クリックで拡大
 手前の三の郭から本郭を写したもので、その間に深さ3mほどの腰郭に繋がる堀切が所在しています。それにしても撮影した画像は全て杉や檜の植林が写り込んでいて、改めてかつては林業が盛んな地域であったことを再認識します。
画像クリックで拡大します
■15■三の郭と本郭 画像クリックで拡大
 三の郭直下の腰郭部分から撮影。
 なお、このあと時間と体力があれば、同じ尾根筋の東側にある「中屋敷」へ行く予定も。しかし時刻もすでに午後3時近くになっていることと、両方の足首に余り力が入らなくなっている状態。したがって、このような場所で事故を起こしても洒落にならないのでまたの機会ということに。加齢と体重の影響かと思いますが、またしても両膝のばねとともに足首の筋肉の衰えを痛感した次第。
交通案内

・飯能市の原市場地区白髭神社前の信号を妻沢方向に入り、「1」の写真の個所から登るのが間違えのないルート。
・比高差約200m、尾根筋の往復所要時間は約2時間程度。
いつもガイド の案内図です 地図 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)、
「飯能の指定文化財」(1991年/飯能市教育委員会)、「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市発行)、「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 社寺教会」(1982年/飯能市発行)、「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)

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