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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/24の日記 中山氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合27
所在地
埼玉県飯能市大河原竜谷山の山頂
歴史と沿革

城跡は戦国時代の砦跡か
 現地の説明板などによると殿屋敷および山頂の大河原城ともに武藏七党丹党の大河原氏にかかわる遺構とされているようですが、詳細はほとんど不明で山上の城跡は戦国時代の比較的小規模な砦や物見台のような役割ではなかったのかと思いました。また、城跡の実際の築城時期は不明ですが多分15世紀後半の長尾景春の乱以降のことと思われ、最終的には後北条氏に帰属していたと推定される地元の大河原氏を始めとする小規模な在地領主らが実質的に領有していたものと思われます。
 また、竜谷山(竜崖山とも)という山名は一般に山城を指す「要害」から転化したもとの考えられます。

確認できる遺構
本郭、竪堀、堀切
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■竜谷山の山頂を本郭として南北西の尾根筋に堀切を置き東側の尾根には竪堀状の遺構が散在しますが、マンガン鉱の採掘跡ともされているようで必ずしも明確ではないようです。本郭部分の面積は300平方メートル程度の楕円形で40から50人も籠れば手狭となる広さです。また、北側の八耳堂からの登山口から5分ほど登ったところには大河原氏の館跡といわれる殿屋敷という1000平方メートルほどの平坦地も所在します。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「飯能の指定文化財」(1991年/飯能市教育委員会)
「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/24
訪城の記録

( 2005/12/24 )
殿屋敷
 八耳堂の奥にある軍茶利神社の更に奥から斜面に刻まれた山道を登り始めて、5分も行かないうちに「殿屋敷」と呼ばれる大河原氏の館跡と推定されている平場に到着。明らかに人工的に平坦地とされた地形であることが一目瞭然の光景が目の前に広がる。一部尾根筋の地形を利用した土塁のような地形が東側に見られるような印象。角度を変えて何枚かの写真を撮影し東側の微高地となっている部分なども確認。なお、広さは微高地の部分を含めても1000平方メートル前後なので、仮にこの場所が館跡であるとするならば平坦地を含むこの一体を館として利用していたのかも知れないとも思いました。

大河原城 
 さて、ここからは比高差40mほどのやや急な登りが続くものの、僅か数分程度で尾根筋に到着し、呼吸を整えるために枯葉の上にへたり込む。2、3分の小休止をとったあと右手の尾根筋を登攀。竪堀ともマンガン鉱の採掘跡ともいわれる多数の小規模な竪堀状の遺構の間を山道を確認しつつ次第に高度を上げる。先ほどの個所からは同様に比高差40m程度なので、数分後にはあっという間に平坦な枯れ草のある主郭部分に到達。小休止をとっても比高差120メートル弱の登りなので、通常は20分程度の時間があれば登頂可能であることを確認。もっとも、自分の場合には年齢と体力の関係で30分かけてゆっくり登頂。
 さて、主郭南側の堀切は勾配もきつく主郭側の高さが5メートル以上はありそうでなかなかの見ごたえ。十分に南側の尾根伝いからの侵攻を防ぐ構造に。また、主郭の北東側だけ伐採により視界が開けていて飯能市街が一望。もっとも主郭といっても20m×30mほどの広さ。南側の公団の造成地は建設中止以来そのまま放置されたままの様子なので、現在の所ではこの大河原城まで開発の波が押し寄せることはなさそうな模様。北側の堀切と西側の堀切は探し方が悪いのか最後まで確認できず。おまけにその探索の最中に2年間愛用していた3色ボールペンを紛失...

立ち話
 なお、帰りがけこのあたりの山道を個人的なボランティアで整備しているという地元の年配の方と出会い坂道の途中でしばし歓談。こういうことを始めてからすでに8年が経過しているが、途中で人に出会ったのは今回が初めてとのこと。道理で余り人が登るとは思えないような場所なのに山道の状態が良いはず。夏前には草刈や枝打ちもされているとか。また、南側の堀切の途中にトラ・ロープが設置されていたのはこの方のお蔭。また尾根筋の手前の滑りやすい直登個所にも同様の整備を行ったが、不心得な人間により持ち去られたとの由。ハイカーを代表して敬意・謝意・謝罪を表して別れる。また、歩いている途中で「どうも左足の靴の具合が...」と思い、よく見ると左足だけ登山用の靴下を履いていなかった...(^^;

記念撮影

 できるだけ堀切の斜面の角度が分かるように撮影したつもりです。右側の本郭よりの堀切の高さは5mから6m程ありますが岩を利用しているためにその角度は60度前後はあるようです。堀切の写真を撮影する機会が多くなってきましたが、やや逆光気味のほうが画像圧縮したときにあまり立体感・質感が損なわれないようです。画像クリックで拡大
 本郭南側の堀切部分を東側から撮影( 2005/12/24 撮影 晴れ )

訪城アルバム
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■1■登山口の目印 画像クリックで解説板へ
 この「八耳堂」の標識が登山口の目印です。奥の駐車場の利用に関しては参詣者と集会所の利用者に限定するというメッセージが出されていました。したがって、この標識の前の部分だけ道路が広く膨らんでいたのでやむを得ずに路駐。なお、この場所にはきれいな公衆トイレが設置されていましたが、床には氷が張り詰めていてガリガリに凍結していました。
■2■聖徳太子を祀る八耳堂
 お堂や神社などの宗教的施設があれば、必ずもれなくお参りはしているので確かに参詣者には違いないのですが...主たる目的は城館跡めぐりのため。しかし、あとでよくよく考えてみるとこの地域は夏場は川原でのバーベキューが盛んなところで、それを意識した駐車制限だったような気が...
■3■軍太利神社
 明治40年に軍太利神社を含む稲荷社、神明神社、愛宕神社など12社が合祀されて現在の軍太利神社となったそうですが、社伝によれば13世紀の始めの建仁年間に大河原四郎が勧請したとされ、周辺には殿屋敷をはじめとして、篝場、馬場、鎌倉坂などの古地名が残されているとのことです。なお、「新編武蔵風土記稿」によるとこの一風変わった神社名はかつては村名であったという伝承があるそうです。
 勿論こちらの方にもお参りを。現地に登山口の表示は無いようですが、城跡への登り道はこの神社の社殿の左奥から写真左手の斜面をのぼって行きます。
画像クリックで拡大します
■4■殿屋敷 画像クリックで拡大
 神社から5分ほど登ると山道の左側にこのような「殿屋敷」とよばれる平坦地に到着します。西側から撮影したもので、大河原氏の屋敷跡といわれているようですが鎌倉武士の館跡としてはやや手狭な感があります。この地点は標高167メートルで八耳堂との比高差はおよそ40m弱。「新編武蔵風土記稿」によれば舊家忠兵衛の個所に「...村中に殿屋敷といえる所あり 土人の伝えに往古大河原某の居住せし所なりと...」と伝承が記されています。
■5■
 写真左側の部分に一部尾根筋の地形を利用した土塁のような整形した地形が東側に見られるような印象があります。なお、広さは東側の微高地の部分を含めても1000平方メートル前後なので、平坦地を含むこの一体を館として利用していたのかも知れないとも思いました。
■6■物見台のような地形
 「4」の写真の奥の方の東側部分には小さな尾根の先端部分がやや標高が高くなっている個所があります。大河原地区や東側からの谷沿いの道を見通すには絶好の位置ではないかと考えたのですが。
 
■7■竜谷山の東側の肩
 標高206メートルの地点で指導標などの案内標識は特にありませんがここから方向を変えて右手方向の西側のやや勾配のある尾根筋を登っていきます。殿屋敷からここまでは比高差40mですが少し急な登り道が続きますので途中1回の小休止をとりました。また、掴まるような木の枝も少なく、積もった枯葉のため最も滑りやすい地点です。したがって下り道は特に注意が必要です。
■8■竪堀か採掘跡か
 このような一見竪堀のようにも見えるマンガン採掘跡が登山路のあちこちに散在しているため、仮に本物の竪堀があったとしてもなかなか見分けがつきませんでした。もっとも、本来竪堀であったものを後世に採掘したという可能性もあるのかもしれませんが。
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■9■本郭北側の遺構?
 採掘鉱のような、竪堀のような、郭の切落としのような、堀切のような高さ3mほどの不思議な地形でした。
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■10■竜谷山の山頂に設置されている「竜崖山の碑」 画像クリックで拡大
 城跡の石碑ではなく、この山が明治維新後に一橋家より提供されその後大河原地域の入会地として利用されていたことなどを記念したものでした。本郭は300平方メートル程度の平坦地で、山頂からの眺望は残念ながら樹木の関係でこの時点では北東側の一部を除いて余りありませんでした。
■11■本郭南側の堀切
 南側の堀切の底から撮影したものでこの南側の岩塊が露出している個所はなかなかの迫力があります。。
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■12■本郭南側の堀切 画像クリックで拡大
 記念撮影と同様の堀切ですが、山道は岩塊の個所を迂回するように敷設されていますが短い距離ながら急勾配なので慎重に昇り降りが必要です。なお、この堀切の南側には当時の住宅公団が計画した造成途中で中止となった広々と荒涼とした台地が広がっていました。したがって、今しばらくの間は開発の波に飲み込まれずにいられるようです。
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■13■北東方向の飯能市街  画像クリックで拡大
 本郭からは唯一眺望の良い方向です。
■14■
 麓の大河原地区から見上げた竜谷山の山頂方向ですが、麓から見上げると山容がいまひとつはっきりとしませんでした。
交通案内

・飯能市内より県道70号線を西に進み、入間川に架かる岩根橋を渡り大河原バス停の信号を右折して、入間川右岸沿いの市道を900メートル西へ進むと八耳堂の標識が左側に見える。
MapFan Web の案内図です  

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