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■1■登山口の目印 画像クリックで解説板へ
この「八耳堂」の標識が登山口の目印です。奥の駐車場の利用に関しては参詣者と集会所の利用者に限定するというメッセージが出されていました。したがって、この標識の前の部分だけ道路が広く膨らんでいたのでやむを得ずに路駐。なお、この場所にはきれいな公衆トイレが設置されていましたが、床には氷が張り詰めていてガリガリに凍結していました。
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■2■聖徳太子を祀る八耳堂
お堂や神社などの宗教的施設があれば、必ずもれなくお参りはしているので確かに参詣者には違いないのですが...主たる目的は城館跡めぐりのため。しかし、あとでよくよく考えてみるとこの地域は夏場は川原でのバーベキューが盛んなところで、それを意識した駐車制限だったような気が...
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■3■軍太利神社
明治40年に軍太利神社を含む稲荷社、神明神社、愛宕神社など12社が合祀されて現在の軍太利神社となったそうですが、社伝によれば13世紀の始めの建仁年間に大河原四郎が勧請したとされ、周辺には殿屋敷をはじめとして、篝場、馬場、鎌倉坂などの古地名が残されているとのことです。なお、「新編武蔵風土記稿」によるとこの一風変わった神社名はかつては村名であったという伝承があるそうです。
勿論こちらの方にもお参りを。現地に登山口の表示は無いようですが、城跡への登り道はこの神社の社殿の左奥から写真左手の斜面をのぼって行きます。
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■4■殿屋敷 画像クリックで拡大
神社から5分ほど登ると山道の左側にこのような「殿屋敷」とよばれる平坦地に到着します。西側から撮影したもので、大河原氏の屋敷跡といわれているようですが鎌倉武士の館跡としてはやや手狭な感があります。この地点は標高167メートルで八耳堂との比高差はおよそ40m弱。「新編武蔵風土記稿」によれば舊家忠兵衛の個所に「...村中に殿屋敷といえる所あり 土人の伝えに往古大河原某の居住せし所なりと...」と伝承が記されています。
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■5■
写真左側の部分に一部尾根筋の地形を利用した土塁のような整形した地形が東側に見られるような印象があります。なお、広さは東側の微高地の部分を含めても1000平方メートル前後なので、平坦地を含むこの一体を館として利用していたのかも知れないとも思いました。
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■6■物見台のような地形
「4」の写真の奥の方の東側部分には小さな尾根の先端部分がやや標高が高くなっている個所があります。大河原地区や東側からの谷沿いの道を見通すには絶好の位置ではないかと考えたのですが。
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■7■竜谷山の東側の肩
標高206メートルの地点で指導標などの案内標識は特にありませんがここから方向を変えて右手方向の西側のやや勾配のある尾根筋を登っていきます。殿屋敷からここまでは比高差40mですが少し急な登り道が続きますので途中1回の小休止をとりました。また、掴まるような木の枝も少なく、積もった枯葉のため最も滑りやすい地点です。したがって下り道は特に注意が必要です。
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■8■竪堀か採掘跡か
このような一見竪堀のようにも見えるマンガン採掘跡が登山路のあちこちに散在しているため、仮に本物の竪堀があったとしてもなかなか見分けがつきませんでした。もっとも、本来竪堀であったものを後世に採掘したという可能性もあるのかもしれませんが。
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■9■本郭北側の遺構?
採掘鉱のような、竪堀のような、郭の切落としのような、堀切のような高さ3mほどの不思議な地形でした。
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■10■竜谷山の山頂に設置されている「竜崖山の碑」 画像クリックで拡大
城跡の石碑ではなく、この山が明治維新後に一橋家より提供されその後大河原地域の入会地として利用されていたことなどを記念したものでした。本郭は300平方メートル程度の平坦地で、山頂からの眺望は残念ながら樹木の関係でこの時点では北東側の一部を除いて余りありませんでした。
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■11■本郭南側の堀切
南側の堀切の底から撮影したものでこの南側の岩塊が露出している個所はなかなかの迫力があります。。
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■12■本郭南側の堀切 画像クリックで拡大
記念撮影と同様の堀切ですが、山道は岩塊の個所を迂回するように敷設されていますが短い距離ながら急勾配なので慎重に昇り降りが必要です。なお、この堀切の南側には当時の住宅公団が計画した造成途中で中止となった広々と荒涼とした台地が広がっていました。したがって、今しばらくの間は開発の波に飲み込まれずにいられるようです。
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■13■北東方向の飯能市街 画像クリックで拡大
本郭からは唯一眺望の良い方向です。
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■14■
麓の大河原地区から見上げた竜谷山の山頂方向ですが、麓から見上げると山容がいまひとつはっきりとしませんでした。
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