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アクセス深謝。 素人のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示禰関゛います。  
 1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/03/31のブログ 2006/01/25の日記 大河原城(竜谷山城) 小瀬戸城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象4 総合27
所在地
埼玉県飯能市下名栗
歴史、人物、伝承

加治氏一族、間藤氏などの諸説が
  「新編武蔵風土記稿」の上名栗村の条によれば、名栗地域は加治領に属し、古くは武光庄名栗郷といわれていたとされ、「名栗村史」によれば元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に多摩川原で討死を遂げた丹党の加治氏一族である加治源田左衛門が在地領主として支配していたことを示唆しています。また「同史」によれば、地元では間藤藤吉が居城したとの言い伝えもあるとのことですが詳細不明とされています。
 なお「名栗村史」では、元亀3年(1570)越後の上杉謙信が名栗谷を遡り妻坂峠を越えて秩父経由で沼田または越後方面へに撤退する際に、後北条氏方が守りを固めたとされる城として根古屋城の名が記されている古文書(北条氏邦の朝見伊賀守に対して与えた書状)を引用してこの根古屋城との関わりを示唆しています。しかし、この「根古屋城」について「新編武蔵風土記稿」が下日野沢村の項で旧家である阿左美氏の由来について述べている通り、その立地条件や城郭の規模からしても現横瀬町に所在する根古屋城(机ノ城)であると考える方が、一時的に秩父盆地に留まることとなったとされる上杉勢を監視牽制する役割としてはより相応しいものと思われます。

確認可能な遺構
主郭、腰郭、堀切
地理的特徴

物見砦規模の山城
 東京と埼玉の都県界の尾根から北東に派生した名栗川沿いの比高差約130mほどの尾根筋の先端に位置し、地元では「お経山」(江戸時代のものとされる経塚が所在)「竜がい山」とも呼ばれていた模様です。北側の名栗川沿いの麓には根古屋と呼ばれる平坦地が広がることからいわゆる根古屋形式の城跡と考えることも可能ですが、山城としての規模は物見と呼ぶ名相応しい極めて小規模なもので、構造上も主郭の両側に堀切状の地形を配した比較的単純な形態であることが窺われます。

文化財指定
訪城年月日
2006/01/25、2007/03/31
訪城の記録 記念撮影

( 2006/01/25 )
 傾斜角約40度近い斜面の直登
 現地に到着して地図を頼りにそれらしい地形を物色。たぷん諏訪神社の西側に張出している尾根筋が目標の根小屋城のように感じました。しかし、登る道筋が全く分かりません (^^ゞ 車通行が可能な林道からひとつ東側の谷沿いを迂回する方法もありそうですがそれは余りにも遠回りとなるようです。さりとて目の前の檜と思われる植林帯をいくら見渡しても山道が刻まれてはいません。そのようなことを何時まで思案していても始まらないことから、道路脇のコンクリートの擁壁の間の通路から畑の端を抜けて植林帯の麓へたどりつき間伐材が残る植林帯を直登を開始しました。
 傾斜にして40度ぐらいはありそうな斜面なので、必然的にジグザクにルートをとりながら次第に高度を上げていきます。これで全く関係のない尾根筋だったら、一体どうしようなどとの雑念が去来します。最近だいぶ足首の筋肉が弱ってきたらしくようでかなり足元が不安定になりました。このコースは道自体は存在しないものの、潅木の類が生えていないので先の見通しは極めて良好ではありますので目標を外すことだけは無さそうに思えました。しかし反面では斜面を滑り落ちると檜の幹にぶち当たって止まる以外になさそうな急斜面なのでありました。
 そうこうしている内に、やっとのことで北側へと伸び.る小さな稜線上に到達して一段落。とはいえこの時点ですでに息も絶え絶え、足元はフラフラに。それでも、東側に伸びている見通しの良さそうな稜線は最早目の前となりました。酸欠気味でなかば意識朦朧の状態でしたが、ともかくもヨロヨロと前進を開始。すると東側の尾根筋に到着し城跡の遺構はもう目前となりました。また、このあとは漸く狭い尾根筋に普請された数少ない腰郭、堀切、主郭などの遺構を確認することに成功。
 帰路は北側の尾根伝いに10軒ほどのログハウス風の民家が建ち並ぶ集落を目指して一気に降下。道は途中から消滅しているものの視界と行動を阻害する潅木の類も存在せず約10分少々で無事下山を完了。多分この道を逆に登るのがベストらしいと気づいてもあとの祭り。かくして「城跡めぐり」というよりも「低山無名峰探訪記」の趣なのでありました。

( 2007/03/31 )
 尾根筋までは正しいルートで
 所在地、登口については一年以上前に学習済み。 しかし、稜線に出てからのルートの記憶が曖昧に..情けない案内となり、ご同行いただいた史進どのにご迷惑をかけることに。 稜線からは、そのまま主郭と北東側のピークの間の斜面を直登するのが正解なのであります。 主郭の大穴も相変わらず健在。 なお、改めて主郭の山頂から見下ろすと腰郭の形状がより明確に。
 この時点で時刻は午前11時を少し回ったところ。 幾分早いものの、キリがよいのでこの場にて昼食を摂ることに。 曇天で弱い冬型の天候のためか、谷から吹き上げる風がやや冷たく。 さて当初の予想を遥かに超えて未だ時間に大分余裕が。 史進どのと暫し相談の上、この後は中世城郭としては未公認の「りゅうがい山」方面へと林道経由で大移動。 というよりもこの資料しか手持ちがなく、無理やりお付合いいただいたような按配。 初めて通行する林道も一部落石が目立つ程度で問題なく通過。 地図読みに長けているナビゲータが同乗しているというのは実にありがたいことなのでございました。

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根古屋城の遠景(旧名栗村)
( 2006/01/25 撮影 )
訪城アルバム
2006/01/25 撮影分
山麓の小祠
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凸1 麓の小祠
 登口が不明のためとりあえず北側植林帯の境界まで前進。愛宕社あるいは山の神を祀ったと思われる小さな祠が所在。無事に城跡に辿り着くべくお参りしてから間伐材がそのまま放置されている植林の斜面を登って行くことに。
 この地域は江戸時代から1960年代までは良質な檜・杉材を算出する林業の村として大いに発展しましたが、その後の木材の輸入自由化により現在に至るまで長い木材不況の時代に入り、やがて平成17年1月に名栗村は飯能市と合併することとなりその116年の歴史の幕が閉じられました。
凸2 予想外の急斜面
 直登個所の比高差は僅か80mほど。しかし斜面の角度はだんだんとその度合いを増し、このあたりはどう見ても40度ぐらいの傾斜角度に。このため足場の確保が思うに任せず、一時は真剣に撤退を検討。 それでも見通しの良さそうな稜線が頭上に見えていることもあり、慎重に足場を確保しつつジグザグのルートで登攀を続行。すると西側から比較的緩やかな尾根筋に間伐時のものと思われる古い踏み跡が見つかり、帰路のルートを確保に成功。 
 このルートをそのまま下山したのでは己の能力から推定して何度転ぶか予想できず、とても無事に済むとも思えなかったので先ずはともあれ一安心。

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2の郭と思いたい尾根筋
凸3 ここまで登れば
 地図上では麓からの直線距離で城跡までは直線にして約200m、比高差は最大でも130m程度。事前の予測では概ね20分も辛抱して登れば城跡付近に到着するはずと皮算用。
 ところが実際には余りの急斜面に足場の確保できず、途中であきらめて戻ろうかと考えたぐらいの本当に辛抱の二十数分間となりました。
凸4 二の郭と思いたい削平地形
 やっとの思いで、主郭からみて東側にあたる二の郭に相当するような見通しの良い細長い尾根筋に到着。
 実際のところ特にこれといった遺構が存在しているわけでもなく、他の方のHPには余り登場しない城跡。所在地も明確ではなく、これだけ登るのに骨が折れるのでは...と妙に納得を。

腰郭
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凸5 腰郭
 予め調べておかないと現地では気づかなかったかもしれない斜面の一部のようにも見える主郭北側の腰郭。一見ただの斜面にしか見えないのですが、現地で肉眼でよく観察すると腰郭として普請されていることが窺えます。
凸6 腰郭から主郭へと続く個所
 見方によっては堀切などが普請されていたようにも見えるます。「4」の二の郭のような見通しの良い平坦な尾根筋から「5」の腰郭を経由して主郭へ向うとかなり楽に登れますので、恐らくはこれが主郭への正規ルートではなかったのかかと思われたのであります。
 

主郭の大穴
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凸7 主郭の凹地
 深さ1メートルほどの楕円形の窪地。伐根跡とも狼煙台跡ともいわれている主郭北東のこの大穴(2m×4m)を目にして、この場所が間違いなく根古屋城であることを確認し改めて嬉しさが倍増するのでありました。
凸8 主郭
 思いのほか平坦に普請されていますが、大きさは幅8m弱、長さ40mほどの細い尾根筋が主郭を形成しているのみで土塁などを築造するような余裕が殆んどありません。 しかし東西南の三方向の斜面の角度から見る限り、土塁などが無くともある程度の防御は可能だったのかもしれません。

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凸9主郭南西の鞍部
 尾根筋の反対側は更に傾斜がきつく樹木に掴まらないと上り下りができず、また人工的な堀切は存在しないものの自然の鞍部が大規模な堀切としてその代役を果たしていた模様です。
 なお、この撮影した場所も足元がかなり傾斜しているため、実は杉の大木に寄りかかって撮影していたのでありました。
凸10 主郭
 「4」の尾根筋からそのまま主郭へ直行することもできますが、その勾配と約10mほどの比高差は結構登りがいがありました。
 また資料によれば、この辺りに「堀切」があるはずなのですが、経年変化によりかなり埋もれている様子で判然とはしませんでした。

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凸11 正面の擁壁脇から登るのが正解
 諏訪神社の北西200m、根古屋城の北側の県道53号線沿いにログハウス風の住宅が10軒ほど所在しています。県道から坂道を少し登るとこのように正面にやや急な尾根筋が見えます。
 今回の経験から、この個所から「4」の主郭東側の尾根筋に出るのが比較的安全かつ最短ルートであることが分かりましたが勿論まさに後の祭り。
凸12 諏訪神社社殿
 獅子舞で有名な諏訪神社が根古屋城の東方300mに所在しています。城の守護神として勧請されたとも考えられるようで、「新編武蔵風土記稿」では上名栗村の旧家として岡部氏、小出氏(信濃守何某の後裔、現町田家)、新館氏(現町田家)の三家を記しています。
 この神社の南東側の裏山も、ほぼ同様の山城に相応しい地形であるため実に紛らわしいのであります。

2007/03/31 撮影
根古屋城遠景
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凸13 根古屋城遠景
 ログハウス風の清潔感のある公衆トイレ近くから撮影したもの。
 
凸14 北東の尾根筋
 自然地形と断定するには余りに勿体無いという印象が濃厚なのでありました。

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主郭小口および堀切付近
凸15 北東の尾根筋
 主郭北東の尾根筋で、元々自然の地形のようにも見えますが、堀切や削平地などの人工地形が含まれているようにも見えてしまうのであります。
凸16 主郭へのルート
 定点観測しているわけではありませんが、「6」と全く同様の主郭への登り口。人工的に削平された形跡が明瞭に残されている個所です。

近世の石碑類
主郭直下の腰郭
凸17 主郭窪地付近の石碑
 城跡とは直接関係のない近世の宗教的な石碑は一年前とおおむね同様の状態で残されておりました。
凸18 腰郭
 このように主郭から見下ろすことにより、あらためて腰郭としての役割および形状などをより明確に観察することができたのであります。

交通案内

・下名栗の諏訪神社西方300mに所在する尾根筋先端部分。
・比高差130m、急勾配で道はほぼ無し。上り25分、下り10分程度
いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 上名栗村の条によれば、名栗の地は加治領に属し古くは武光庄名栗郷といわれていたとされ、加治源田左衛門の所領と伝わる旨が記され、また、畠山重忠、新田義宗が隠れ住んだとの伝承も記されています。しかしこの根古屋城に関する記述を見ることはできません。
■武蔵志
 名栗地域に関する記述は欠落している模様です。
■秩父志
 遥か西方の「有馬山の山腹に居跡が所在し、加治源左衛門が名栗の地を領した」との記述がみられますが、この下名栗に所在する根古屋城とは直線にして7km以上も離れていることからその関連は薄いものと考えられます。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)
「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「名栗村史」(1960/名栗村)
「名栗の民俗(上)」(2005/名栗村)
「秩父志」および「増補秩父風土記」(「埼玉叢書」−国書刊行会より出版された復刻本より)

・2006/02/01 HPアップ
・2007/09/22 再訪に伴い改訂
・2019年3月2日 chrome対応のためタグ等を修正しました。 

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