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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/03/31のブログ  2005/12/24の日記 大河原城 根古屋城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合27
所在地
埼玉県飯能市小瀬戸
歴史、人物、伝承

岡部氏一族の城跡か
 西側の麓には猪俣党岡部氏に関係する宝篋印塔なども所在しているとのことで、平家物語の一ノ谷で薩摩守平忠度を討取ったとされることで有名な岡部忠澄の岡部氏一族との関わりがありそうな気もしますが全く推測の域を出ません。またその規模の小ささなどから考えると戦国時代の小瀬戸地区の「村の城」のようにも思えます。「新編武蔵風土記稿」の小瀬戸村の個所には「岡部六弥太忠澄の後胤岡部小右衛門此所に土着せしが...」と記され岡部氏の屋敷跡についての記述があるものの、この城跡に関しては何も記されてはいません。
 また西隣の「名栗村史」(1960刊行、ただし名栗村は2005年1月に飯能市に編入合併)によると小瀬戸に岡部氏の城跡が所在する旨の記述がありますが、残念ながらその具体的な所在地や史料などは示されてはいません。
 なお、「飯能市史 通史編」によれば岡部氏の一族はその後足利尊氏に仕え、その後永享の乱に巻き込まれたのち扇谷上杉氏に仕えます。そして扇谷上杉氏の滅亡後には後北条氏重臣松田氏に仕え、さらに後北条氏滅亡後には徳川家に仕えて関ヶ原の合戦、大阪の陣などで戦功を挙げ1500石の旗本として幕末まで続いたとされています。

確認可能な遺構
主郭、堀切、腰郭?、竪堀?
地理的特徴

小規模な山城
 南側へと大きな湾曲を見せる名栗川(入間川)左岸に突き出した標高190メートルほどの細長い尾根筋の先端を郭とし、北側の尾根筋を堀切った極めて簡易な構造の山城跡。南東約2キロメートルには大河原城が所在します。本郭の形はアルファベットのLの字を裏返した形に近い形状で、東西20m、南北40mの範囲に所在し、数十名程度の人々が短期間隠れるには都合の良さそうな場所です。 なお、城跡付近には「殿山」と云う地名が残され、西麓には岡部氏の一族の墓所、南麓の飯第2小学校付近には屋敷跡との古地名が伝わっています。

文化財指定
なし
訪城年月日
2005/12/24、2007/03/31
訪城の記録 記念撮影

( 2005/12/24 )
凸 下山道を誤った
 大河原城から県道70号線を西に2kmほど進んだ飯能市立第2小学校の北側の裏山が目指す小瀬戸城。上り口は情報によると「西側の住宅地の方から」となっているので今度は素直に住宅地へと向うことに。途中にやや侘しい佇まいの好みの神社ないし堂宇が所在していたことから恒例の参拝。その後予定通り住宅地の東側の谷筋に山道が見えたので早速攻略開始。ところが、やはり予想していたように50mも進まないうちに踏み跡は消失して倒木と潅木の藪に直面。しかし、目指すべき稜線は目前で元々比高差自体も40m足らず。体重の関係でバキバキと倒木の枯れ木を踏み砕き、体にからみつく潅木の枯枝をへし折りつつやがて稜線に到達してルート開拓に無事成功。稜線上の道は異常なほどに踏み跡がしっかりしていてやや拍子抜けが。不思議なのはこの稜線の道に上がってくるべき道が殆ど無いことで、この北側に飯能グリーンカントリークラブというゴルフ場が所在しているにせよゴルフ場からやってくる人間がいるとも思えず、なぜこれだけ道がはっきりとしているのかまったく理解できないのでありました。
 さて稜線を右手(南)方向にほんの少し進むと直ぐに堀切に到達し、主郭側でおよそ2.5mの高さがあることを確認。もっとも人工的な遺構と確認できるのはこれだけで南北に伸びた細長い尾根の南端部分は岩場の上に細長い平地が広がりその西端に金比羅宮の祠が鎮座しているのみ。それでも南側は規模こそ小さいものの見事な岸壁が聳えていて攻寄せるものを頑として寄せ付けない風情を漂わせています。なお、岸壁の個所には危険防止のためのトラ・ロープが上下2段に張り巡らされていますが、比高50mほどの急斜面を下りていく道が途中までは見え隠れ。恐らくは小学校の体育館の裏手の崖の部分で消滅しているものと推定を。
 さて帰り道は稜線の道が余りに整然としているので念のためゴルフ場の方まで行ってみようと思いたったのが誤りの元。途中で引き返した際に降りるべき道を間違えて、何故か200mほど東側にずれて小学校の東側に出てしまいました。どうやら尾根が広がっているあたりで方向を誤った模様。地図でよく見てみると里道が記されているので全くの間違いと云うことではないものの、再び新しい下山ルートを開拓する羽目に。

( 2007/03/31 )
 東側からの登り口
 今回は「城逢人」管理人の史進殿と同行。待ち合わせ時間に幾分余裕があったので、予め麓からの登り口を再調査。やはり、東側からのルートが正解なのでありました。 比高差もおよそ40m前後で、明確な里道に加えて緩やかな斜面を5、6分ほど登っただけで忽ち稜線部分に到着してしまうという事実にやや衝撃を。 逆に梅沢氏の著書に記された西側からの直登ルートは、春先の稜線上から眺めても頗る常緑樹などの樹木の生育が著しく先が見通すことができません。いずれにせよこの度ようやくにして登口の説明を変更いたしました。
 一年ぶりに懐かしの堀切と再会し、主郭側の堀上土塁も辛うじて健在。 ふと以前何気なくゴルフ場方面に進み、戻るべき方向を誤った悪夢が頭を過ぎるのでありました。 なお、2006年の秋口に日高市付近に現れたクマは間違いなくこの山中にに生息しこの辺りを通過していたはず。 また春先のクマ騒動というのは余り耳にした記憶が無いものの、 無論出てきてもらっても非常に困るのであります。

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東側から見た小瀬戸城北側の堀切部分
それぞれ東西方向に竪堀が続いているようにも見えなくもないのですが..
( 2007/03/31 曇天 撮影 )
訪城アルバム
以下の画像は2005/12/24に訪れた時のものです
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麓の小祠
凸1 小瀬戸城遠景
 飯能市立第二小学校の北側の裏山が目指す小瀬戸城で、小学校の校庭との比高差はおよそ50m前後かと思われます。「飯能市史 資料編 地名・姓氏」によれば、「岡部屋敷」は「屋敷跡」との地名が残るこの小学校の辺りに所在していたと示唆しています。
 小学校の西側の住宅の所から登っていったはずなのですが、飯能グリーンカントリークラブのゴルフ場の南側に進む尾根筋の道を途中で引き返した際に、降りるべき道を間違えてどういうわけか200mほど東側にずれて小学校の東側に出てしまいました。
凸2 麓の小祠
 「3」の住宅地へと向かう途中、麓の鄙びた小祠が目に入りましたので祭神等由緒不明ではありますが、藪こぎ前の安全祈願のためとりあえず参拝をさせていただくことに。「飯能市史」(資料編5社寺教会)には収録されていないようでしたので講中あるいは個人の方が管理している信仰対象なのでしょうか。

こちらから登る必要のない場所
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凸3 西側からのルートは避けた方が
 この場所がとりあえず西側からの登山口とも言うべき山道ですが、50mも進まないうちに踏み跡は綺麗さっぱり消滅します。しかし、すでにここからは距離にして50m、比高差は20mもないので、藪を掻き分けて枯枝や倒木に注意しながら目の前の稜線目指して登っていくことは可能です。
 なお、この入口から尾根筋の道までの直線距離は僅か100mほどですので、それほど体力は消耗しませんが夏場はたぶん無理です。因みに梅沢氏の「中世北武蔵の城」によるルートはこの辺りを示しています。
 ⇒安全確実なルートは画像「8」を参照
凸4 主郭北側の堀切
 南側の主郭側から撮影した画像で、主郭部分を除くと唯一の見どころともいうべき遺構です。尾根筋を東西方向に掘り切っていますが、現状では右側の本郭側で高さ2.5m、左側で2mほどの規模であることが確認できます。
 現地で見ると結構しっかりと普請されている様子がわかるのですが、写真にするといかにも矮小感が出てしまいます。堀切の上部には掘りあげられた土があるということで、確かに盛り上がっているようにも見えましたがなかなか自然地形との区別がつきづらいものがあります。(写真手前の白っぽく写っている個所)

山頂付近の金比羅社の小祠
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凸5 主郭南西に所在する金比羅社の小祠
 この地点は標高にして約185mほどですが、北側の尾根続きのより標高の高いゴルフ場との境部分に位置する220m程のピーク付近がどうしても気になり、ひとしきり探索しものの見事に迷子に。もちろん表面観察上からはこれといった成果などがあろうはずもなく..
凸6 主郭南側の岩場
 神社の祠の南側はご覧のような岩肌が露出していて攻上る者を寄せ付けない風情が感じられました。実際には九折の山道が残されていますが、現在は通行できない模様です。南東の岸壁の少し下の方の九折の山道から撮影。

以下の画像は2007/03/31に訪れた時のものです
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分岐地点付近
凸7 腰郭のような地形
 主郭の南東部分に相当し、腰郭あるいは帯郭の役割も担っていたのかもしれず。こうして下から見上げる限りでは明らかに削平されているようにも見受けられ、僅かながら切岸のような普請の跡も無くはない..という微妙な地形でありました。
 
凸8 ⇒確実で安全なルートはこちら
 小学校の校庭の東側に沿った消防団の車庫脇の道幅2メートル足らずの路地を北側へと小学校のプールの方向に直進するとやがて校庭の北東部分に到達します。ここから左手に北側の裏山道を少し進み、さらにこの画像の個所を右に進みます。すると道は次第に緩やかな登りとなり、僅か5分足らずの所要時間で堀切の北側50m付近の尾根筋へと到達します。これで城跡の尾根筋上に妙に明確な踏み跡を残す里道の存在理由が判明いたしました。なお、この分岐を左手に進むとフェンス沿いの急坂を這い上がる破目になるはずです。
 

交通案内

・大河原城から県道70号線を西に2kmほど進んだ飯能市立第2小学校の北側の裏山で比高差50mほど。

いつもガイド の案内図です 地図 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 小瀬戸村の項に「屋敷跡 一段三畝、往昔岡部六弥太忠澄の後胤である岡部小右衛門が此所に居住したが、徳側家光の御代に江戸に屋敷を移した。すなわち今の岡部内期の先祖である..屋敷跡にはその家臣町田市右衛門というものを置いた。同郡赤澤村の名主弥五郎が岡部氏を名乗っている..」との記述があります。
 しかし、実に不思議なことにその裏山の比高差50m足らずの小瀬戸城跡については、「古城跡 堀跡残れり」などとの記述を全く見ることができません。このことは当時において全くその存在が忘れられていたのか、敢えて記すほどの必要性を認めなかったのか、あるいは麓の屋敷跡の存在を記すことで恐らく戦国時代までは半ば麓の居館と不可分一体となっていたと推定される根古屋方式の小規模な山城の痕跡をも当然の如く含んでいたのか、いずれにしても今となってはその真相を明らかにすることは難しいようです。

■武蔵志
 同村名のみの記述で具体的内容を伴いません。
(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「飯能の指定文化財」(1991年/飯能市教育委員会)
「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)・「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市)
「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市)・「名栗村史」(1960/名栗村刊行)

・2006/01/03 HPアップ
・2007/09/10 記述内容追加訂正

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