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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/11/05の日記 騎西城 種垂城
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合32
所在地
埼玉県加須市花崎
歴史と沿革

永禄3年の上杉謙信の関東攻略により落城?
 地元では古くから「城山」と呼ばれていたとのことで、その歴史的な経緯と1980年と1981年に実施された北側部分の発掘調査については「花崎遺跡」(1982/加須市遺跡調査会)と「加須市史資料編1」(1984/加須市)に詳細に記されています。この発掘調査によれば堀跡7本、井戸跡2基、畝堀と障子堀も検出され、堀跡からはカワラケ、鉢、陶磁器、板碑、古銭、弾丸など16世紀のものが多く出土したとのことです。
 「新編武蔵風土記稿」の花崎村の個所には「古城蹟 小高き地にて、東北の方泥深き沼をもって要害となしたるさまなり、されど城蹟とのみ伝え、何人の住せしことを知らず」と沼沢・湿地帯が天然の要害となっていたことが伝えられ、南側の城山公園の北側には現在も小規模な湿地帯を見ることができます。
 一方、岩槻太田氏の家臣の子孫で大間村(現鴻巣市田間宮)の名主福島東雄(1734-1803)が記した「武藏志」によると、「花崎古城 要害 東北沼にて泥深く城地箕を伏せたるが如し 高く沼に成出たるなり 西北地下に低し 城主不知 近年沼田より竹筏を掘出 生存して青色なり 又鉄砲玉出る されば天文の後廃城ならん」と記されています。
 またこうした近世に編纂された地誌以外では「鷲宮社領郷主萱氏系圖」の記述が知られています。これによれば「永禄3年(1560年)8月上杉氏の先陣木戸宮内少輔が率いる千余の軍勢の攻撃により鷲宮の粟原城の次に攻め落とされたが、このとき細萱民部少輔光仲は七十余人を率いて小田原城(後北条氏の本城)に篭城していた」としています。しかし通説とされている上杉謙信の小田原攻め(永禄4年1561年)と時期が符合しないことや、謙信と号した時期(元亀元年1570年)の違いなど不明な部分が多く信頼に足る文献とはいい難いようで、後北条氏との関係が推定されるものの花崎城の具代的な歴史的経緯や歴代の城主などについてはいまだに明らかにはされていない模様です。

確認できる遺構
郭、空堀、水堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■発掘調査による線路の北側部分と現存する城山公園の部分だけでもその広さは南北方向に約200m、東西方向に約150mは存在し、推定されている遺構範囲を含めると南側の鷲宮神社を含むとされていることから、少なく見てもおよそ300m四方以上の範囲が城域と考えられているようです。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「花崎遺跡」(1982/加須市遺跡調査会)
「加須市史資料編1」(1984/加須市)
「加須市史通史編」(1981/加須市)
「加須市の文化財」(1992/加須市)
「かぞの歴史散歩」(1991/加須市)
「調査報告集第3集 加須市の地名」(1979/加須市)
「調査報告集第1集 加須市の青石塔婆(板碑)」(1978/加須市)
「戦国期東国の大名と国衆」(黒田基樹 著 2001/岩田書院刊)   

文化財指定
1981年8月11日 加須市指定史跡
訪城年月日
2005/11/05、11/14
訪城の記録

( 2005/11/05 )
人なつこい鴨が一羽
 南側の城山公園の中をあちこちうろうろとめぐり、素人目にも少なくとも大小あわせて3か所程度の郭が残されていることが確認できました。公園の大きさは南北に60メートルから80m、東西方向は約150mほどの台形に近い長方形です。現在は空堀となっている南側の堀の深さは2mから2.5mほどで堀幅は約6メートルほどかと。区画された公園の中とはいえ比較的良く保存されていますが東側については残念ながら埋め立てられているようです。
 肝心の障子堀や畝堀などが検出された東武伊勢崎線の線路の北側の方はたぶん何もないだろうと勝手に決め付けて線路越しに一瞥しただけでとりあえず観察終了。というのも本来は翌週の月曜日に出向く予定でしたので、この期に及んでいまだに資料を下調べしていないという事情もありましたが。加須方面はどの道あと2回ほどは訪れる予定なので。
 さて、現在も浅い水堀となっている場所では1羽の鴨らしき水鳥が餌を探して泳ぎ回っていました。最初はだんだん自分のいる場所から遠ざかって行ったのですが、何故か途中で方向転換して目の前までやってきたので、デジカメとはいえどもついそうした余り意味のないような水鳥の生態写真を20枚以上も撮影してしまいました。そういえば小川町の高谷砦の時も途中の道路わきの水路でアヒルの写真を撮影したことを思い出しました。

( 2005/11/14 )
夕暮れの城跡公園
 加須市内に所在している他の中世城館探訪の帰路の途中に所在していることもあり、先日の探訪の折見落としていた個所を中心にフラフラと立寄りました。前回思っていた通り、残念ながら線路の北側の城趾公園には地表から分かるようなものは一切何も存在していません。たぶんこの辺りに堀跡と障子堀の遺構が埋まっているはずだなどと独り言をつぶやきながら、スーパーの駐車場に車を停めて辺りを20分ほど徘徊しました。
 夕暮れ時人気の無い何の変哲も無い公園やスーパーの駐車場の写真を撮影しているという、傍目にはどう見ても怪しげな初老の男と成り果てていました。

記念撮影

 城山公園の西側には東西15m、南北30mほどの小郭が所在し、郭の四方は現在も水堀となっていて堀の深さは水深部分を含めて現状ではたぶん2.5m程度かと思います。水深はこの南側の部分は浅く、北側がやや深くなっているように思えました。
 この小郭は東側の公園の中央部分に所在する南北約30m、東西約90mという比較的大規模な郭との関係から見ると線路の北側で発掘されたものと同様に西側への馬出のような役割をしていたように思えたのですが。 

( 2005/11/05 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■
 城山公園南側の入口はどこから見ても完全な公園で、一組の親子連れが中央の郭上に建設された東屋でお弁当を広げていました。平日なのに、はてなと思いましたがよくよく考えれば今日は埼玉県民の日で小中学校はお休みの日でした。
■2■
 しかしよく見ると「花崎遺跡」と書かれた加須市の指定文化財の標柱が立てられています。縄文時代の遺物や平安時代の住居跡なども確認されているためこうした呼称となっていますが、城山公園の中は空堀、水堀、郭跡などが部分的ですが大変良く遺されています。
■3■
 南側の空堀の上に架けられた橋の上から西側方向を撮影したもので、写真右側の南北約30m、東西約90mの規模を有する郭はそのほぼ全体が遺されています。 しかし、左側の郭部分は北側の公園内の個所が残されているだけで南側は住宅地となっています。
 堀幅は歩測によると上面で約6mほどかと思われました。
画像クリックで拡大します
■4■
上の写真と同じ場所から東側の空堀を撮影したものです。この堀跡は現在は空堀となっていますが周辺が湿地帯であるという立地条件から考えて以前は水堀であったように思われました。
■5■
 中央部の郭の北側には今も水堀が遺されていますが、水質が驚くほどきれいなので湧水なのかもしれません。(東側部分)
画像クリックで拡大します
■6■
 同様の水堀の西側部分で、水深は恐らく40センチから60センチほどでしょうか。
■7■
 北側から撮影したもので、手前が北側の水堀でその奥が中央部分の郭。
■8■
 中央の郭の東側部分で、この辺りでは水堀の水深はかなり浅くなって北側に残されている湿地帯に続いていました。
画像クリックで拡大します
■9■
 南側の堀跡をその東端部分から撮影したもので、奥の方に見える橋が「3」「4」の写真の木橋です。
■10■
 西側の小郭の北側部分。水堀の水深は北側部分の方が深いためこのような柵が設置されているようです。なお、この小郭の南側部分が上記の「記念撮影」の写真です。
■11■
 水堀を撮影していると一羽の鴨が餌を探して泳ぎまわっていました。始めはだんだん遠ざかっていたのですが、何を思ったのか急に方向転換してわざわざ目の前までやってきて餌を啄ばむ仕草を繰り返していました。
■12■
 鴨にも自己顕示欲があるのでしょうか。別段愛想を振りまいているような表情はしていませんでしたが、自分の目の前で盛んに水面に顔を突っ込んで餌を探しているようでした。よく見ていると上手にバックもしていました。
■13■
 城山公園の東口のフェンスの外側には立派な解説板が設置されています。埼玉県内の中世城館の発掘では最も早く畝堀などの存在が確認された調査であったようです。解説文では「戦国時代には居館を構え」と記されていますが、明らかにその規模からみても立派な防御機能を有する城郭です。
 花崎城址は明治34年(1901年)に東武伊勢崎線の敷設工事により南北に分断されたそうです。
■14■
 線路の北側の城跡公園とスーパーの駐車場付近では1980年から1981年にかけての発掘調査により、畝堀、障子堀、出枡、馬出、堀跡などが確認された場所のようですが、現在地表上からではそれらの存在を確認することはできません。こちらの公園内にはそうした発掘された遺構についての解説板などは設置されていない模様です。
 
2005年11月14日撮影
■15■
 城跡公園の西側のスーパーの駐車場のこの辺りで畝堀や障子堀、馬出などの遺構が集中して確認されたのではないかと思います。せめて地表の所に何かマーキングだけでもあると嬉しいのですが、殺風景な区画された駐車スペースがあるだけです。ちなみに写真を撮影している辺りでちょうど出枡形の土塁が確認されたのではないかと思いますが。
 
2005年11月14日撮影
交通案内

・東武伊勢崎線花崎駅下車徒歩5分 MapFan Web の案内図です  

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