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関連ページへのリンク  2006/10/13のブログ 諏訪山館 丸山城 江ヶ崎城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合23
所在地
埼玉県南埼玉郡白岡町大字太田新井字土橋山
歴史と沿革

岩槻太田氏などとの関連?
 「太田」の地名は寛永5年以降の近世初期のものであり、岩付太田氏或いは太田道灌との関連を明らかにする証左は確認されていないようです。 また、当地から出土したものとされる永徳3年(1838)、永享7年(1435)の銘が刻まれた板碑が付近の民家の墓地などに現存しているとのことです。 なお、「新編武蔵風土記稿」によれば岩付太田氏、太田道灌に関する伝承を記しているとともに、太田道灌草創との伝承を残す天神社も存在していましたが、同社は現在宿原の個人宅に遷座されています。 岩付太田氏の支配地域にあったことや旧太田荘であったことから「太田氏との」関連が伝承されたものと解されているようです。
 鎌倉街道中道に近い要衝に位置していることから、戦国時代の岩付太田氏と渋江氏の所領争いや忍の成田氏、菖蒲の佐々木氏などとの抗争に関連する一時的な陣城の可能性などもあるかもしれません。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

20年前までは確実に...
 「埼玉の中世城館」の記述によれば1986年の調査時点において、最大幅で8m、深さ1.2メートル、延長92メートルの直線状の空堀跡が実測されていますが、後にすべて埋め立てられて現在では当時の面影は全く残されてはいません。 「同書」に収録されてるいる部分的な発掘調査の記述によれば、空堀跡は箱薬研堀の形状で深さ3.1m、堀底幅2mという比較的大規模なものであった模様で、郭内は南東側であると推定されています。 慈恩寺台地の西端の微高地に所在し対岸1.5km付近には江ヶ崎城があり、また西側約500mの地点を日光御成街道(旧鎌倉街道)が北上しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/10/13
訪城の記録 記念撮影

( 2006/10/13 )
駐車場..にて候
 まずは目印となる太田神社へと赴くことに。 しかし、遺構の所在していたのはこの場所ではなく遥か北側の住宅地の間の平地林部分にて候由。 このため太田神社の空き地に駐車させてもらい、周辺の地形をじっくりと観察しながら農道を突き進んで目標の平地林へ。 しかしどうも遠くから見る限り、平地林の樹木が少ないような印象に思えました。
 現地に到達すると、やはり事前の予想通り延長100m弱の堀跡は立木付き、一部砂利敷きの駐車場に変わり果て堀跡遺構は完全に消滅しているという印象...などと書いていると、いとも簡単に「堀跡の跡」の所在地を確認したように思われるかも知れませんが、実はその間30分余りも該当地を求めて夕闇迫る畑と平地林の中を彷徨していたのが実情なのでありました。
 また、太田神社の周囲にも何やら地面の盛り上がりが確認できるものの仔細以誠不明にて候。始めはただの草叢か茶の木に雑草が巻きついたものと思ったのですが、意外にしっかりと固まった状態なのでやや判断に迷いました。

どう見ても砂利敷きの駐車場..
残念ながら近年埋め立てられた堀跡推定地
なお、 郭内は右側と推定されています。
( 2006/10/13 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで「謎の土塁状地形」へ
■1■太田神社 画像クリックで神社東の「謎の土塁状地形」へ
 古くからの神社名ではなく大正5年の神社合祀により宿北、宿原の鷲宮神社を合祀して造立されたものとのこと。 また「太田」の名称の謂れも明確ではないようです。なお、この神社の東側に高さ約80センチ、幅約2m、長さ20m以上の規模を有する「謎の土塁状の地形」が所在していますが、城館遺構との関連性についてはかなりの疑問が感じられます。
画像クリックで拡大します
■2■太田陣屋の遠景 画像クリックで拡大
 実のところこの写真を撮影していた時点では、「太田陣屋の堀跡の跡」(完全に消滅しているのでややこしい表現にて)の所在地を特定できては居りません。 手持ちの資料や方位磁石などで恐らくあの辺りと睨んだ三枚の内の一枚なのであります。 なお、他の二枚は無関係な平地林を撮影...(汗)
交通案内

・県道65号線鹿室交差点の東約500mの地点。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 埼玉郡太田荒井村の項には「陣屋蹟 村の南にあり、今陸田となりたれど、猶構堀の跡存せり、昔岩槻太田氏の持ちにて、道灌此所に住せしことありしなど云傳うなれど、覚束なきことと思わる」と記され、@村の南に所在していることA畑の中に空堀跡が存在しB岩槻太田氏の所領であったC太田道灌の伝承があるとのことなどを明示しています。
 この陣屋蹟の記述が「埼玉の中世城館」に収録されている「太田陣屋」であり、かつ20年ほど前までは平地林の中に所在していた堀跡遺構を含むものを指し示していることは概ね間違いがなさそうです。またこの記述からは幕末当時においては、現在の平地林の中だけではなく畑の中にも堀跡状の遺構が遺されていた可能性を示しているようにも読み取ることができます。
■武蔵志
 原史料上で南埼玉郡地域は欠落しています。
日勝村誌(大正14年刊行)
 これによると太田の地名については「この地は昔は上新井村と呼ばれた。太田新井と称されたのは何時のことか明らかではないが、寛永5年(1628)の検地帳には上新井と記され、正保(1644-1648)の郷帳には太田新井と記されているので現在の地名となったのは寛永5年以降であることは明らかである。しかし、その由来は不明である。」と記されています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「白岡町史 通史編(1989/白岡町)」・「白岡町の文化財 第5集 地名考」(1980/白岡町教育委員会)
「白岡町史資料 地誌」(1982/白岡町教育委員会)・「ふるさと白岡」(1984/白岡町教育委員会)
「日勝村史(大正14年刊行)」(1991/白岡町教育委員会) 

・2006/12/08 HPアップ

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