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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/17の日記 山田館 安戸城 腰越城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合24
所在地
埼玉県秩父郡東秩父村
歴史と沿革

上田氏との繋がりの深い館跡
 鎌倉時代の大河原氏館跡と推定されている日蓮宗浄蓮寺は、その寺伝によれば鎌倉時代の末期である14世紀初期の正和年中にこの地を拠点としていた大河原神治太郎光興が日蓮上人の高弟の一人である日朗を招聘して開基したとされています。、この大河原氏は武藏七党丹党の中村氏の一族とされこの大河原郷を本貫地としていましたが本宗家に従い播磨国三方西へ移住しました。元亨3年(1323)秩父神社への備前長船景光の短刀の奉納(埼玉県立博物館所蔵)、正中2年(1325)の大河原蔵蓮・時基の秩父神社への太刀奉納(皇室御物)、嘉暦4年(1329)の大河原時基の播磨国広峰神社への太刀奉納(埼玉県立博物館所蔵)などの事蹟がが奉納した太刀の銘文に刻まれていることから知られています。
 また、この一帯を武州松山城主上田朝直(〜1582年、または1590年とも)が支配していた天正年間に、病に冒された朝直が祈願したところたちどころに平癒し上田氏の一族が悉く浄蓮寺の檀那となったという伝承もあります。しかし「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」によると、すでに天文年間頃から上田氏の厚い帰依を受けてその菩提寺となっていた模様です。、この浄蓮寺には上田朝直の天文19年(1550)の寄進状などを始めとして上杉朝興の公事赦免状、北条氏康の禁制に関する制札など5点の古文書が残されており、その内容はこの地域が当時上田氏の支配下にあったことを明確に示しています。

上田氏について
 上田氏は元来は相模・武藏を中心に勢力のあった扇谷上杉氏の重臣でしたが、天文15(1545)年4月の河越砂久保の合戦で扇谷上杉朝定が討死をとげ扇谷上杉氏は事実上滅亡したため、以後は後北条氏に従い朝直(案独斎宗調)、長則、憲定(長則の弟)の3代にわたり武州松山城の城主を務めますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵入により後北条氏と共に滅亡したとされています。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■槻川が大きく北側に蛇行する右岸の緩やかな傾斜地に所在し、この場所は以前より槻川の両岸に広がるかつては大河原村と呼ばれていた御堂村の集落の中心部であったようです。境内の歴史のある堂宇の基壇は近世のものかもしれませんが、慶長19年に寺領として20石を拝領していただけのことはあります。
 なお、南側の裏山から南方へ1.5kmほど尾根筋を辿ると標高およそ400mの物見山と呼ばれる山があり、更にその南方には奥武藏の800メートル級の山岳地帯へと続いています。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「東秩父の文化財」(1982/東秩父村)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/17
訪城の記録

( 2005/12/17 )
落ち着いた佇まいの上田氏の菩提寺
 浄蓮寺の境内が館跡とされていますが、北辺は槻川により、また東辺は大きく蛇行を繰り返す槻川とその支流により守られ、さらに南には山を背負うという地形です。北に向かって緩い傾斜がかかる地形のためこの季節は夕暮れ時暗くなるのが早く、訪れたのが午後2時30分頃という時間にも拘らず境内は薄暗くなっていました。そうした地形とあわせてはるかに後世のものと思われる高く積まれた石垣の存在や「新編武蔵風土記稿」の御堂村の浄蓮寺の様子が描かれた挿絵から<、少なくとも近世の末期には存在していたと思われる堂宇の基壇などがその古い伝統と格式の高さを伝えています。
 また境内には杉や檜などの樹齢500年から600年と推定される巨木も多く、そうした幾本もの古木の存在とあわせてその堂宇の規模や境内の広大さはこの寺院が長い歴史と伝統を有することを物語っていました。
 なお、この境内の南側にある山寄りの墓地の一角には、武州松山城主(城代とも)とされる上田朝直(安独斎)とその一族のものとされる苔むした宝篋印塔群がひっそりと佇んでいました。

記念撮影

 この境内の地形的には北東の角落しとなった個所に存在する山門と石畳そして両側の石垣はいずれも新しいもののようですが。それにしてもこの趣のある石畳の石が必要以上にやたらと凸凹していているので、あまり視力のよくない自分にとってはひたすら歩きにくい存在でした。

( 2005/12/17 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 日蓮宗浄蓮寺の文化財の解説板。なお、一番左側に記されている中世古文書名の「上田朝興」は恐らく「扇谷上杉朝興」(1488-1537)の誤りのようです。
■2■
 「新編武蔵風土記稿」の挿絵どおりに配置されている珍しい建築様式の鐘楼を含む浄蓮寺の堂宇。浄蓮寺の寺伝によれば、鎌倉時代の末期である14世紀初期の正和年中にこの地を拠点としていた大河原神治太郎光興が開基したとされています。
■3■
 この社の存在する石積みの基壇は19世紀の始めに編纂された「新編武蔵風土記稿」の御堂村の浄蓮寺の項の挿絵にも描かれています。右側の大きな社殿が瘡守明王という額が掲げられており、恐らく疱瘡あるいは怪我などの快癒・罹病除け祈願の堂宇。左側は八坂神社を祀った祠
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■4■
 上田朝直など扇谷上杉家重臣上田氏一族の墓所は浄蓮寺境内南側の山の斜面に所在しています。画像クリックで拡大します。(中央が上田朝直、右側が第2代松山城主の上田長則、左側は実名不詳の上田氏一門の武将の墓とされています)
交通案内

・県道11号線から陣川橋を渡った南側、村立東小学校西側 MapFan Web の案内図です  

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