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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/17の日記 腰越城  
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ3 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合19
所在地
埼玉県秩父郡東秩父村安戸93付近
歴史と沿革

腰越城主山田伊賀守直定の居館か
 「新編武蔵風土記稿」などによれば「山田屋鋪蹟 ...また宿の北、山田稲荷の北辺に山田伊賀守屋鋪蹟あり、一段歩ばかりの地にて、今は白田(畑)となりぬ...」と記され、山田伊賀守の居館であるという伝承が遺されています。
 さて、この山田伊賀守は上田氏の重臣であり腰越城主と推定される山田伊賀守直定であるとされ、直定は上田氏と太田氏の松山城(埼玉県比企郡吉見町)の領有を巡る争いの過程で、永禄5年(1562)7月26日赤浜原(埼玉県大里郡寄居町赤浜)の合戦において、太田資正の家臣道祖土図書助に弓で射掛けられ討死したという記録が残されています。(「太田資正感状」『道租土文書』より)。また、村内に所在する上田氏と山田伊賀守直安の菩提寺である日蓮宗浄蓮寺の過去帳においても「存久永壬戌七」とあり、その討死の事実が確認されているとのことです。
 なお、「寛政重修諸家譜」「新編武蔵風土記稿」などによると、家督を継いだとされる弟(直定の子とも)の直安は徳川家の関東入府の時300石取りの旗本として仕官し大番を務め、江戸市ケ谷の念仏坂に居住したとされています。

確認できる遺構
不明
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「新編武蔵風土記稿」によれば、現在の山田稲荷社跡の標柱の立てられた北側の斜面辺りが館跡とされていますが、現地を見た限りではかなり区画形質が変更されているようです。東隣の比企郡小川町に所在する腰越城は直線距離で南東に900m、また西側の安戸城もほぼ同様の距離に所在しています。
 また「新編武蔵風土記稿」の安戸村の記述によれば、安戸宿は16世中葉には比企郡と秩父郡を結ぶ秩父往還沿いの宿として市が立つなどの賑わいを見せていたとされますので、当時としては交通の要衝であると共に商業の栄えた地域の拠点でもあったようです。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「文化財調査報告書第30集 深見城跡 」(神奈川県大和市文化財調査報告書 1988)のHP
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/17、12/29
訪城の記録

( 2005/12/17 )
凡その場所はこの辺りかと
 そもそも所在地が不確かで、かつては確認されていたという土塁や堀跡などの遺構も今はどうやら不明な模様。板碑の破片と思しき物体が祀られているところと、「新編武蔵風土記稿」に記されているように、休耕中の畑の中にポツンと立てられている北山田稲荷社跡の標柱の辺りがそうだったのかなどということにして、余り時間もないので20分ほどで探索終了。このあと参詣者用の駐車場の隅をお借りしていたので、帰りがけに西側の上品寺に立寄ってお参りをして撤退。
 ( 2005/12/28 )
おそらくこの辺りのような
 後日、念のために東秩父村の担当の方に伺ったところでは、発掘調査などが行われていないので明確なことはいえないが民家の南側の畑のあたりというような様子でした。(下の写真の場所かと)

記念撮影

 「新編武蔵風土記稿」の記述から推測すると写真の左側の山林の手前あたりと云うことになるのですが、実際にはこの畑のあたりのようです。また、「埼玉の館城跡」(1968年埼玉県教育委員会編集発行)によると、その広さは121坪程度の長方形で土塁と空堀の一部が残存していたとされていますが、現在では耕地整理などによりそうした遺構等については全く判然としません。

( 2005/12/17 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■
 山田氏の家臣の後裔に当たると伝えられる平野家が現在も同地に居住されているとのことで、この「山田稲荷社跡」の標柱も平野家により設置管理されている模様でした。
■2■
 少し南側に下がったあたりの木陰に三枚の板碑の破片が丁寧に祀られていましたが、破片も小さく判読するような能力にも欠けるので種類や年代は不明です。
画像クリックで拡大します
■3■( 2005/12/29 撮影)
 山田氏の五輪塔4体と宝篋印塔1体。
 後ろ側には板碑が破片も含めて7体が置かれていました。文化財としての標柱や説明などがあると嬉しいのですが、人口4千人の小規模な村ですので予算不足・人手不足等のためなかなか手が回らないのかもしれません。この墓石は県営団地の北側に所在する墓地の西端にあります。
画像クリックで拡大します
■4■( 2005/12/29 撮影)
 東秩父村の文化財担当の方のお話では、山田氏館跡はこの写真の左側の畑の辺りと云うことのようです。一番上の写真の場所を西側の道路部分から撮影したものです。
交通案内

・線安戸宿旧道沿いの東秩父郵便局から北側に100mほど進んだ上品寺の反対側、右手前方民家の南側の畑付近 
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の案内図です  

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