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砂久保陣場
関連ページのリンク  200/01/22の日記  寺尾城    
所在地
埼玉県川越市砂久保見付65
歴史と沿革

■合戦の背景と経緯
 17世紀の後半に成立したと考えられている「北条記」などの記録によると以下の通りである。
1.天文 6年7月に北条氏綱は河越城を攻め上杉朝定は松山城に逃れ、以来河越城は北条方の支配する所となる。
2.天文10年9月氏綱の死去により、その混乱に乗じて翌月10月に上杉朝定が川越城の奪回を企てるが失敗する。
3.天文14年4月(推定)関東管領上杉憲政は古河公方足利晴氏に河越攻めの支援を依頼する。
4.天文14年9月(推定)駿河の今川義元が上杉憲政を支援するために後北条方の駿河長久保城を攻撃
5.天文14年10月(推定)足利晴氏上杉方の援軍として着陣。( 上杉方総勢8万とも )
6.天文15年4月20日駿河の今川と和睦した北条氏康が兵8000と共に河越城の救援に駆けつけ、両上杉の陣を攻撃し上杉方が敗走する。( 「河越夜戦」 )

■ 天文15年の河越夜戦の歴史的信憑性については、相互の兵力の格差も含めて様々な意見がある様です。後に関東管領を承継した上杉謙信が関東進入に際して関東の諸将の自軍への参陣を命じた。しかし謙信が永禄3年8月に出陣したのにもかかわらず、関東の諸将の参陣は翌年になり実現したということに見られるように、有利と思われるほうにつくという日和見の傾向が強かったと考えられます。
 したがって、彼等の多くにとっては関東管領上杉憲政の命令であろうとも割に合わない戦は避けて自己の勢力の温存を図るほうが先決だったのではないでしょうか。つまり両上杉の中心部隊が善戦すれば戦いに加わるでしょうし、その反対に苦戦すれば戦場を離れることが当然のこととされていたのかもしれません。
 なお、謙信の関東侵入は謙信の死去する天正6年(1578年)その後も毎年のように行われましたが、後北条氏は正面からの対決を避け勝敗を決するような合戦は行われませんでした。
 武藏の中小の在地領主たちは、この二大勢力の狭間で一族の命運を賭けて相当に悩んだものと思われます。

■「川越市史」は天文6年の合戦を含めて幾度かの合戦が行われ、その最終の戦いが天文15年の合戦であったのではないかとしています。
 いずれにせよ、この合戦の結果扇谷上杉氏は朝定の討死により滅亡し、山内上家も武蔵での影響力を喪失し、古河公方足利晴氏も大きくその威信を失うに至りました。こうして滝山城主大石定久、天神山城主藤田康邦などの有力な在地領主が北条方につき、後北条氏は関東に覇を唱える大きなステップとなり、やがて関東管領上杉憲政は天文21年に越後の長尾景虎を頼って亡命することとなります。
 そして、上杉謙信の死後に起こった御館の乱の後継者争いに巻き込まれ天正7年(1579年)に死去しますが、憲政が支持し敗死した謙信の養子である上杉景虎は皮肉にも北条氏康の子でありました。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■入間川左岸の平坦な武蔵野台地に位置している。長期の在陣ということで、付城のような空堀、土塁程度の防備は施されたものと考えられる。北西1.5kmに諏訪氏の居城とされる寺尾城があるがこの合戦とのかかわりは不明である。

参考資料、古文書、
記録

「川越の神社建築」(2004年/川越市教育委員会編集発行)
「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「川越市史 中世編」(1985年/川越市編集発行)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988年/埼玉県編集発行)
「埼玉県史 資料編中世4記録2」(1986年/埼玉県編集発行)
「みよしほたる文庫2 人と緑の文化誌」(犬井 正 著 1993年/三芳町教育委員会発行)   

文化財指定
1958年3月6日川越市史跡指定
訪城年月日
2005/01/22
訪城の記録

( 2005/01/22 )
河越夜戦の舞台
 史上に有名な天文15年(1546年)の川越夜戦が行われた時に、上杉方が河越城包囲の陣を置いていたと伝えられる場所です。陣場跡とされているのは、稲荷神社の境内に川越市が設置した説明版があるだけの所です。
 道路を挟んで反対側にはダスキンの関係の営業所があり、周辺の住宅もだいぶ増えたようです。四十年以上前には雑木林と畑しかない場所に、鎮守の森に囲まれてぽつんと稲荷神社があったように記憶しているのですが、なにぶんかなり以前のことなので。あくまでもこの一帯に上杉方が陣を置いていただろうということで、明確にこの場所に本陣があったということでもないのでしょう。

中世の武蔵野の風景
 現在では具体的な遺構を目にすることはできませんし、五百年前には畑はおろか一面の茅などが茂る草原と僅かにコナラ・クヌギ・アカマツなどの疎林が点在するような風景ではなかったのかと思われます。ちなみに雑木林というのは中世からの入会地や近世の新田開拓により薪炭林として、有機肥料の原料、民家の建設資材を調達するなどのために人手を介して管理されたていたものが多く、いわゆる原生林というのは少ないのではないのでしょうか。
 「みよしほたる文庫2 人と緑の文化誌」によると古代・中世の武蔵野台地は、鉄道や道路工事の際に地形の断面に古い大木の痕跡が認められないことから草もまばらな大地平であったという推論もあるようです。そこまではどうか分かりませんが、川越市の設置した説明版のように何れにしても荒涼たる無人の野原が広がっていたものと思われます。
 しかしこの場所にたどり着くまでに、もともと道路幅員が狭いところに加えてあちこちが工事中で右往左往してしまいました。自転車で来るべきだったのかも(^^;

Best Shot?
 寡兵が数倍以上の大軍に勝利した事例として、このほかには有名な「桶狭間の合戦」や「厳島の合戦」があります。
 記録というものは勝利者の都合に合わせて記述されていく傾向がありますので、当時の「資料」や「北条記」の内容をそのまま受け入れるのには種々の疑問が示されているようです。しかし、合戦の真相は別として結果的に後北条氏はこれを契機に関東での優位を揺るぎの無いものにしたことは確かです。
 説明版は逆光で見づらいこともありますが、大分風雨にさらされて分かりにくくなっていました。
 ( 2005/01/22 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線新河岸駅より南西に徒歩12分ぐらい。砂久保稲荷神社の境内に説明版が建てられている。
MapFan Web の案内図です  


( 2005/01/22 撮影 )

■裏側から見た稲荷神社の本殿覆屋(右)と拝殿(左)。砂久保村は正保二年(1645年)に新田開拓され、当時の村の鎮守として祀られた様です。
 つまり合戦の後、百年近く経過して新しい村がつくられたようです。
 「新編武蔵風土記稿」の砂久保村の条の記述によれば、「當村古くは廣原にて、天文年中河越城攻の時、寄手上杉憲政が陣取し處なり、その後正保の頃より開墾して」とあります。
■正面から見た砂久保稲荷神社拝殿。祭神は倉稲魂命なので本来は農耕神、稲荷信仰は元禄期以降に民間信仰として流行した。境内にあった石碑の碑文によれば1949年のキテイ台風により社殿は相当の損害を受け倒壊したそうです。以来氏子の方々の篤志により最終的に280万円の浄財が集り1963年に再建されたとのことです。
本殿自体は覆屋の中に収められ、天保14年(1843年)の棟札が残されており、一間社流造板葺となっているそうです。
■たぶん銀杏だと思いますけど、冬の青空に向かってどこまでも枝を伸ばしている様に見えました。
 稲荷神社境内にある銀杏の大木。
■説明版の立て札だけの画像では全体の様子が分からないので周囲も撮影しておきました。
以前は立て札のあった辺りに高さ80cmほどの土の塊があったそうですが土塁の跡かどうかは分かりません。
■稲荷神社の前は道幅の狭さの割には通行量も多くなかなか撮影ができませんでした。興ざめとなるようですが、ガードレールの設置は致し方の無い所です。
 鳥居の形式は明神鳥居。
■すでにどこも住宅が建てられており、広々とした原野のような光景はすでにありません。
 最もそれらしい雰囲気が出るような位置から撮影してみたのですが、ただの畑と住宅地の写真となってしまった(^^;
( 南東の河岸街道の辺りから撮影 )
 
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