■合戦の背景と経緯 17世紀の後半に成立したと考えられている「北条記」などの記録によると以下の通りである。 1.天文 6年7月に北条氏綱は河越城を攻め上杉朝定は松山城に逃れ、以来河越城は北条方の支配する所となる。 2.天文10年9月氏綱の死去により、その混乱に乗じて翌月10月に上杉朝定が川越城の奪回を企てるが失敗する。 3.天文14年4月(推定)関東管領上杉憲政は古河公方足利晴氏に河越攻めの支援を依頼する。 4.天文14年9月(推定)駿河の今川義元が上杉憲政を支援するために後北条方の駿河長久保城を攻撃 5.天文14年10月(推定)足利晴氏上杉方の援軍として着陣。( 上杉方総勢8万とも ) 6.天文15年4月20日駿河の今川と和睦した北条氏康が兵8000と共に河越城の救援に駆けつけ、両上杉の陣を攻撃し上杉方が敗走する。( 「河越夜戦」 )
■ 天文15年の河越夜戦の歴史的信憑性については、相互の兵力の格差も含めて様々な意見がある様です。後に関東管領を承継した上杉謙信が関東進入に際して関東の諸将の自軍への参陣を命じた。しかし謙信が永禄3年8月に出陣したのにもかかわらず、関東の諸将の参陣は翌年になり実現したということに見られるように、有利と思われるほうにつくという日和見の傾向が強かったと考えられます。 したがって、彼等の多くにとっては関東管領上杉憲政の命令であろうとも割に合わない戦は避けて自己の勢力の温存を図るほうが先決だったのではないでしょうか。つまり両上杉の中心部隊が善戦すれば戦いに加わるでしょうし、その反対に苦戦すれば戦場を離れることが当然のこととされていたのかもしれません。 なお、謙信の関東侵入は謙信の死去する天正6年(1578年)その後も毎年のように行われましたが、後北条氏は正面からの対決を避け勝敗を決するような合戦は行われませんでした。 武藏の中小の在地領主たちは、この二大勢力の狭間で一族の命運を賭けて相当に悩んだものと思われます。
■「川越市史」は天文6年の合戦を含めて幾度かの合戦が行われ、その最終の戦いが天文15年の合戦であったのではないかとしています。 いずれにせよ、この合戦の結果扇谷上杉氏は朝定の討死により滅亡し、山内上家も武蔵での影響力を喪失し、古河公方足利晴氏も大きくその威信を失うに至りました。こうして滝山城主大石定久、天神山城主藤田康邦などの有力な在地領主が北条方につき、後北条氏は関東に覇を唱える大きなステップとなり、やがて関東管領上杉憲政は天文21年に越後の長尾景虎を頼って亡命することとなります。 そして、上杉謙信の死後に起こった御館の乱の後継者争いに巻き込まれ天正7年(1579年)に死去しますが、憲政が支持し敗死した謙信の養子である上杉景虎は皮肉にも北条氏康の子でありました。 |