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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/01/23の日記 泉ヶ城 飯能市某館 中山氏館 北秋津城 滝の城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合23
所在地
埼玉県飯能市青木堀ノ内256
歴史と沿革

大石氏一族の館跡か...
 「飯能市史 資料編 地名・姓氏」の旧青木村堀ノ内の説明では、土地の古老の語った伝承や下記の状況から「小豪族の住居だった可能性は強い」としているだけで具体的に大石氏などとの関わりを示唆してはいません。大石氏との関係が取り沙汰されるのは、まず北隣の中居に所在する曹洞宗宝蔵寺に大石重仲の位牌が存在していることです。 大石重仲(1409-1455)は一説には二宮城主大石憲重の子とされ、通称は源吾で、受領名は駿河守を称したとされています。「飯能郷土史」や「新編武蔵風土記稿」によれば、宝蔵寺は加治貞継が応永3年(1396)に開基しその後上杉氏家老大石信重の子重仲がこの地を領した?ことから中興したとされています。
 大石家は関東管領山内家の重臣で武藏国守護代を務めた家柄であるとされ、重仲は享徳の大乱の初期に武藏国分倍河原で鎌倉公方足利成氏に敗れて重症を負い死亡したとされています。なお大石氏に関連するものとしては、このほかに市内白子の長念寺には天文12年(1543)に発給された滝山城主大石定久の判物が遺され、また「新編武蔵風土記稿」によれば白子白髭神社棟札に「永禄7年(1564)大石孫二郎殿百姓衆」と記されていることなどが知られています。
 これらの事柄から「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)などでは「大石館」と推定しているようですが、元来は青木氏、加治氏、中山氏などと関わりの深い地域なのでそうした関連も否定できないように思われます。

確認できる遺構
堀跡?土塁??
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■高麗丘陵南端の舌状台地南側に所在し旧青木村の小名「堀ノ内」と呼ばれている地域であり、20年ほど以前に編纂された「飯能市史 資料編 地名・姓氏」によれば、「八高線の線路にまたがって東西約30間、南北15間ほどの細い溝が巡っていた(中略)大きな堀構えのなかに小さい堀ノ内があるような形状で(以下略)」と記されています。また、下記の写真の地形(階段状の北側という表現を使用しています)も館跡の一部を構成するもの推定している模様です。
 なお、泉ヶ城とは直線距離で僅か100m前後しか離れておらず、館跡南側のバス通りを挟んでほぼ向い合せの位置関係となっていますが、現状では館跡と推定される場所の大半は宅地化されJR八高線がや県道30号線などが南西部から北東部にかけて縦断しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/01/23
訪城の記録

( 2006/01/23 )
初対面の人懐こいネコが
 北辺の民家の宅地内に残されている不自然な連続した盛り土のような個所が丘陵の自然地形を改変したものか、あるいは土塁などの一部であったのかなんともいえない地形が2か所ほど遺されていました。また、そのほかには水堀跡と思われるような湾曲した道路が東西にそれぞれ1か所ずつ見られることと南西部分の遺されている南北方向に流れている細い水路が現存しているという程度で、それ以上のものは表面上からは見出すことはできませんでした。
 どちらかといえば、館跡と推定されているあたりの道路で出合った人懐こいネコとコミュニケーションしていた時間の方が印象的だったような...

記念撮影

 館跡と推定されている地域の北辺の道路沿いにはこのような地形が遺されていました。この小さな丘陵地帯に道路を開削する際の残土を積み上げたものか、若しくはあるいは自然地形を利用した土塁跡なのか...約1m、幅約5m、長さ約60mほどの規模でしたが。
 なお、この南側(右下方向)の青木地区第2集会所の向側にも同様の地形を見ることができます。(アルバム「1」参照)

( 2006/01/23 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■土塁跡のような...
 道路左側の地形は青木地区第2集会所向側に見られる地形で、一見土塁跡のようにも見えますが、道路の設置に伴う残土を積み上げたようにも見えなくもない不思議な盛り土が高さ1m前後、幅約3m、長さ50mほどにわたって続いていました。
 この地形は上の「記念撮影」の地形のものから約40mほど南側に位置し、ほぼ平行した位置関係にありました。
■2■堀跡?
 その形状から堀跡の一部ようにも見えなくもないS字にカーブしている西側の道路。
■3■堀跡のような水路
 JR八高線南側の三角地となっているバス通り沿いの個所には、かつての堀跡と思われるような細い水路が現在も南側に向って流れていました。
■4■堀跡?
 これも全く自信がありませんが、東側の一応堀跡のように見えなくもない道路。
交通案内

・西武バスの青木バス停北西側の住宅地周辺、泉ヶ城の北側約100mの地点。
MapFan Web の案内図です  

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)、「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「飯能の指定文化財」(1991年/飯能市教育委員会)、「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市発行)、「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 社寺教会」(1982年/飯能市発行)、「戦国人名事典」(2005/吉川弘文館) 

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