( 2006/01/23 )
凸某館とされますが
余り期待せずに訪れた名称不詳とされる飯能市の「某館」ですが、空堀と土塁が館跡の北側に延長にして200m前後も残されていることに何よりもまず率直な驚きを
。特に東よりの土塁はやや自然地形との区別が難しいところがあるものの、その高さにして3mほどはありそうな大きさはなかなか雄大な光景でした。
入間郡地域の「埼玉の中世城館跡」の調査が行われたのは1983年のことで、その時点からはもうすでに四半世紀の時が経過しようとしています。周辺に新しい道路も整備されて宅地開発もすすんでいる中において、こういう遺構との遭遇は正に至福の時と形容せざるを得ません。宅地の形態から推測して土地の所有者の方が複数いらっしゃる様子であるにも拘らず、この間殆どその遺構としての形態が変わらずに遺されていることに敬服。
館跡近くの南側水田には新しい立派な墓地が所在し、その墓碑によれば「武田信玄の家臣土屋昌恒の子孫が土着して代々名主を務め云々」と刻まれていました。それにしても風が異常に冷たく、畑に積もった雪を巻き上げて吹き付けてくるので、ボールペンを持つ手が凍えてしまいなかなか文字が書けないのでありました。しかし、そんなことを忘れさせてくれるだけの歴史の重みを体感させてくれる遺構です。
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北辺に残されている土塁の延長は、途中一部道路により分断されている個所があるものの東西200m近くに及び、その手前部分には空堀跡が平行して遺されています。
この写真は北側から見た土塁東側部分で自然地形と区別しにくいところもありますが、その高さは3m以上に及びます。
( 2006/01/23 撮影 晴れ、風強く極寒 )
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■1■南西からの遠望
黒く写っている個所が館跡の防風林でその手前に立派な土塁が残されていました。
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■2■「門跡?」
門跡と呼ばれている土塁の切れ目が北辺土塁の西端にありますが、画像にしたら全く訳の分からないものになってしまいました。
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■3■西端部分の土塁
このあたりの土塁の高さは空堀から1.5mほどですが、ご覧のように空堀自体がかなり堆積物により埋まっています。東寄りの状況から推定すると元来は3mほどの高さがあったのではないかと思われます。
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■4■北辺土塁の西端部分
土塁の西端は南側に湾曲していますが、西側の道路部分で断ち切られているようです。
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■5■北辺の空堀跡の西寄りの部分
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■6■北辺の空堀跡の東寄りの部分
この写真の手前に南北方向に道路が所在しているため、道路の幅員の分だけ土塁と空堀が一部消滅しています。
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■7■北辺の土塁の東側部分
生垣の両側が空堀部分と思われます。土塁の規模は地形の関係からか西寄りの部分に比べるとかなり大掛かりなものになっていました。この写真からでも分かるように東端部分は南側に湾曲しています。この写真を撮影しているときに、一陣の北風が畑の残雪を巻き上げ冷たい風を吹きつけてきました。
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■8■南東からの遠望
館跡の南側の水田の中を小畔川の源流のひとつとなる細い水路が東側に向って流れていました。
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・県道30号線下加治バイパス飯能靖和病院の東側200m
MapFan Web の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)、「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)
「飯能の指定文化財」(1991年/飯能市教育委員会)、「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市発行)、「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市発行)
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