( 2006/03/08 )
凸訪城ルート沿いなので
遺構など全く存在しないことは承知のうえですが、それにしても現在は郵便局や小学校の校庭、住宅街となっていて全くどうにも想像が働きません。そうした中でも強いていえば北側を流れている元来は自然のものと思われる細い用水路はおそらく堀跡である可能性があるかもしれません。又小鹿野町役場前の表通りの不自然なカーブがやや気になるという程度というところでした。
この後はあちこちで集めたパンフレットや季節柄観光用のノボリバタに導かれて、旧両神村内の四阿山東側の中腹に所在する福寿草の自生地の見学へ。今年は全体として植物の開花時期が半月ほどは遅れているようで、福寿草とあわせてロウバイがこの時期に満開となっていました。
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現状はこの写真の通り小鹿野小学校、小鹿野幼稚園などの宅地と水田が旧市街の東側に広がっているだけで中世初期の館跡の痕跡を見出すことはできませんでした。
( 2006/03/08 撮影 晴れ )
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■1■菊水寺(旧吉田町-現秩父市)
赤平川沿いにある秩父札所33番です。30番以降は秩父市内から外れた地域に所在しています。宿泊先からの小鹿野へむかう道筋に所在していたために早朝の参詣となりました。
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■2■推定御陣屋跡周辺
現在はこのように住宅などが建てこんだ市街地となっていてそうした痕跡さえも確認することはできませんでした。後北条氏の家臣として上州経営に活躍した吉田氏は後北条氏滅亡後は上杉氏に仕えましたが、主家の減封帰などのためその後は帰農して名主を務めたということです。
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■3■平成の大合併の記念
昨年の2005年10月に両神村は小鹿野町と合併して村としての名称は既に消滅しているはずですが、予算などの事情でなかなか手が回らないためか何と新小鹿野町役場前のバス停の表示は以前のままでした。
そういえば「福寿草まつり」のノボリバタも「両神村」の「村」の文字を塗りつぶしてありましたが、光線の加減次第でむしろ却って「村」の文字が目立っていたようにも思いました。名称が残されるほうはよいのですが、やはり消滅する側にとっては寂さが募るものではないでしょうか。
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■4■宮沢賢治の歌碑
どのような関連・経緯があるのかは分かりませんが、小鹿野町役場前には「山狭の町の土蔵のうすうす夕もやに暮れ...」と刻まれた宮沢賢治の歌碑が所在していました。中世城館に関しては何もないので、とりあえず目に付いたものを支障のない範囲で次々と撮影していたという次第なのでありました。
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・小鹿野氏館跡は県道209号線沿いの小鹿野小学校あたりで、御陣屋はその西方200mほどの地点のようです。
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
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