( 2006/03/08 )
凸薬師堂と両神神社
国民宿舎両神荘の辺りが館跡の模様。宅地造成などにより大きく地形が変化しているものと思われますが、東側を北流している小森川との比高差はざっと20mほどはあるようです。勿論遺構らしきものは確認できませんが、小森川の大きく蛇行した南側の段丘の地形は中世の城館跡には相応しい地形であるように思えました。さて、この両神荘は20年以上前に宿泊したことがありますが、公園の遊具施設の土管のトンネルだけが記憶に残っているものの、施設自体も相当大規模に改修されたようで景観が一変していました。この後北条氏邦が移築したと伝わる近くの県道沿いの法養寺薬師堂と隣の両神神社も参拝。
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薄が生い茂る草深い地であることから名づけられたとされる薄村に所在する国民宿舎両神荘の東側の小森川沿いには、現在では比高差20mほどの河岸段丘が確認されるだけで館跡としての痕跡を見出すことは難しいようです。
( 2006/03/08 撮影 晴れ )
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■1■国民宿舎両神荘
薄館の所在していたあたりは国民宿舎両神荘があります。もう20年以上以前の夏だったと思いますが、家内の親類一同で訪れたことがありました。現在は鉄筋コンクリートの大規模な施設として改修されていますが、そのときはまだ木造2階建ての建物だったような朧げな記憶があります。周辺も殆ど未整備の状態で小森川の崖っぷちにポツンと所在していたという印象で、子どもたちは下のの小森川で水遊びをしていたように記憶しています。
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■2■薬師堂
薄館の西側の県道沿いには、弘法大師草創との伝承のある薬師堂が所在します。この薬師堂は日本三體薬師ともいわれており、このため薄村は薬師堂村とも呼称されていたようです。この薬師堂には北条氏邦を始めとした諏訪部氏、井上氏、猪俣氏など家臣団の面々が、天正13年(1585)から14年にかけて奉納した木造十二神将立像(1960/09/05両神村指定有形文化財)が納められています。 |
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■3■両神神社 画像クリックで現地解説板へ
薬師堂の直ぐ北側に隣接している両神神社の社殿。現地の解説板などによると、元来は丹党薄氏の氏神であり丹生明神と呼ばれたということですが、大正年間の神社合祀政策の推進により近隣の社とともに両神神社として改称されました。「増補秩父風土記」の薄村の項には「丹生明神、薄氏勧請」と記されています。「新編武蔵風土記稿」では、薄村法養寺の項に丹生社と記されているものがこれにあたるのかもしれません。 |
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・国民宿舎両神荘付近
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
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