( 2006/03/07 )
凸甲源一刀流
時刻はすでに午後5時少し前で、日は大分傾いてあたりも薄暗くはなってきました。しかし、地図などによればと゜うやら宿泊先に向かう途中の道路沿いに所在するらしいとの情報。さきほど訪れた塩沢城の斜面の上り下りのためガクガクとなって、全く力の入らない両膝を叱咤激励して少しだけ立寄っていくことに。
とはいうものの大体の場所しか分からず、具体的な遺構が存在するわけでもないようです。結果的には館跡東端の神社のあたりと、西側に所在する現在は屋敷門として使用されている埼玉県指定の文化財である甲源一刀流の道場の建物を表から見学しただけのことでした。地理的には北側を流れる赤平川と南側を流れる小森川が合流する地点の台地上に所在し、そうした自然地形を生かした配慮が働いていることが推察されますが、現地ではそれ以上のことはよく分かりませんでした。しかし後でよく調べてみると、どうやらこの道場の所在地が館跡の中心のようでした。
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遠くから眺めたときにはやや変わった形の長屋門だと思ったのですが、道場だとはすぐには気付きませんでした。そういえば塩沢城の麓に近い塩沢宇賀神社にも甲源一刀流の扁額が奉納されていたことを思い出しました。
( 2006/03/07 撮影 曇り )
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■1■大山祗大神を祀る社
館跡などとの関係は不明ですが、概ね館跡の鬼門に当たる位置に所在し、社殿の裏側は赤平川の断崖に繋がっています。大山祗神(おおやまづみかみ)は山と海をに君臨する山神の総元締め的な存在で、武門の神としても信仰され、大三島の大山祗神社は瀬戸内の水軍の尊崇を集めていたことでも有名です。
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■2■河岸段丘上の台地
館跡との具体的な関係は不明ですが、館跡の東端部分大山祗大神の社の西側に残されている地形で比高にして約5mほどの高さがありました。
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■3■南側の正面からみた道場 画像クリックで現地解説板へ
中里介山の小説「大菩薩峠」で有名になった甲源一刀流逸見氏練武道場の「耀武館」。10坪(2.5間×4間)の稽古場と2.5坪の控室ということですが、現在左側の方は農機具などが収納されていました。 |
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・小森川と赤平川の合流点の西側で、甲源一刀流の道場と資料館が目印
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
旧両神村(現小鹿野町)のHP
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