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1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/03/26のブログ 秩父氏館 根古屋城(旧名栗村) 阿佐見氏館(皆野町)
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象4 総合31
所在地
埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬字根古屋
歴史、人物、伝承

秩父平氏に始まり関東管領上杉憲政、北条氏邦などの著名人が登場
 「新編武蔵風土記稿」(「武州文書」)などによれば、元亀3年(1570)に阿左美氏は北条氏邦の家臣として伊賀守慶延は上杉氏に対する備えとして横瀬の根古屋城の守りを固め主君の氏邦から加増の沙汰を受け、関東管領上杉謙信が名栗谷を遡り妻坂峠を越えて秩父経由で沼田または越後方面へに撤退した際に、後北条氏方が守りを固めたとされる城として根古屋城の名が記されています。しかし、黒田基樹氏の近年における論稿である「謙信の関東侵攻」(末尾の「参考資料」参照)によれば、この知行宛行状の時期が後北条氏との越相同盟が破棄された直後であり、かつそれ以前におけるこの方面での上杉方の軍事行動が確認できないことなどから史料としての疑問が払拭されていないものと考えられます。
 また、これについても史料としての信憑性については同様に疑問視されている向きもありますが、「鉢形北条家臣分限録」では先手衆として浅見右馬助が105貫文を知行されていることが記されています。なお、「秩父志」の記述によれば別名を「机ノ城」とも。

凸歴史上の著名人との関連
秩父平氏一族説
⇒鎌倉御家人として著名な畠山重忠の父である重能(重忠本人を含むと示唆しているような場合も)までの秩父平氏の直系が居住したとの伝承があります。(「増補秩父風土記」の記述等を参照)
■上杉憲政在城説
⇒上杉憲政が関東管領職についた時点において鎌倉の地はすでに後北条氏の支配下となっており、かつ当時の憲政の支配地は上野、北武蔵の一部であったものと考えられています。憲政の名が登場する理由としては天文年間の河越城をめぐる攻防の敗北に伴う上野への退却路と管領職を継承した上杉謙信の進軍ルートとの混乱による誤伝などの要素が考えられます。(「増補秩父風土記」の記述を参照)
北条氏邦在城説
⇒山間の狭隘な山城であるという地理的条件などから、その事実関係 については多分に疑わしいという印象も拭い去れません。(末尾「秩父郡誌」の記述を参照)

確認可能な遺構
西郭(御殿跡)、山頂の郭、小口4、腰郭、土塁、構堀1、竪堀6
地理的特徴

3か所から構成される郭群
 標高623mの三角山(大机山)から派生した尾根筋の最北端の稜線状に所在し、北側を飯能から秩父へと抜ける往還が通過し、この往還を抑える役割を担っていたことは確かなようです。しかし現状の最高地点とされる山頂の郭の標高でも373.8mに過ぎないため周辺の山岳と比べて標高の低さは否めず、かつ山城としての比高差不足という欠点を抱えています。さらに、北、東、南の眺望は著しく限定され、その視界は北西から南西方向の秩父盆地方面に限られています。
 こうした地理的な事情から南南西約800mに所在する「古御嶽城」などとの一定の関連を考慮したいところです。「古御嶽城」へは焼山方面から派生した同じ三角山(別名を大机山とも、標高623m)と尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側から巻き道通じ相互の連絡(詰の城の可能性も含めて)を取ることができたのかも知れないとも考えられるのですがこのことに関してはある程度のリスクが予想されることから現地での検証は行っておらず憶測の域を出ないものです。
 居館跡と推定される西郭(御殿跡)、山頂の郭群、東郭の3か所が城郭遺構として残存していまが、残念なことに大手に相当するとされる山頂の郭南側部分は戦後の石灰岩の採掘により稜線そのものが喪失しています。なお国土地理院がサイト上で公開している昭和23年当時に米軍が撮影した航空写真を見た限りでは、南側の斜面は樹木が繁茂した状況で現存しています。しかしその解像度自体にやや難点があるためなのかそれ以上の地形上の立体的な特徴などを判別することは困難でした。

文化財指定
1973年1月31日  横瀬町指定史跡
訪城年月日
2007/03/26
訪城の記録 記念撮影

( 2007/03/26 )
 2時間半の在城
 縄張図から想定される現地のイメージがどことなく掴みづらいことなどもあり、今まで訪城を見送っていた経緯が。事前に横瀬町の資料館にて予め登口を確認しておいたことが大いに役立ち、迷うことなく建設会社の資材置き場近くに所在する棟続き形式の住宅脇から墓地の間を抜けて城跡へ。城跡遺構が大きく分けて3ヶ所に分散しているため予め相当時間を要することを想定。またデジカメ用のメモも予め3ヶ所分作成し珍しく用意周到。
 
 始めに「西郭(御殿跡)」から探索開始。稲荷神社の上段に所在する方形の腰郭から東側へと続く一部出枡を伴う長大な構堀と土塁はなかなかの見ごたえが。遺構の状態としては結果的にはこの部分が最も城跡としての印象が濃厚なのであります。上段の郭との比高差は平均で8m前後を有し、かつ切落としを伴う地形のため直接這い上がることは至難の技かと。ただし南側の根古屋地区との比高差は下段の腰郭部分では20mから30mを測る程度。合わせて斜面全体の勾配が緩く前面の土塁部分まで容易に到達できることから、郭部分の大規模な比高差を考慮しても総体的に山城としての防御機能が不足気味であることは否めないという印象が拭えません。加えて西武池袋線が城跡の直下をトンネルにより貫通し鉄道ファンには格好の撮影ポイントも所在。このため時折のどかなウグイスの鳴声とともに、城跡には不似合いな電車の警笛と走行音が間近に響きわたるのであります。

 「西の郭」から「山頂の郭」へは資料によれば比高差にして70mほど。然し実際に歩いてみるとそれほどの比高差があるという印象は感じられず。途中ややもすれば見落としがちな小規模な2か所の堀切を確認しつつ、段築状の3段の腰郭や自然石を利用した小口状地形を確認。ことによると石材の採掘のため南側(右側)が大きく削り取られ、てっきり稜線近くまで掘削されているものと思っていたこともあり、テラス状に安全地帯が確保されていることに一安心。上記画像の正面に見える尾根筋が南側に所在する「三角山」の尾根と繋がっていることから山道が「古御嶽城」方面へも続いていることを想像。山頂北側の小口郭とさらに北西側に所在する大規模な郭を竪堀により防御された土橋で繋ぐ構造が明確に見て取れるものの、土塁などの存在は現状からは殆んど確認できず主に切岸、腰郭、竪堀により防御されていた模様と理解。またこの大規模な郭には間伐された杉材や枝打ちされた杉の枝が一面に所在し、足元が不安定な当方としては幾度となく転倒しかけるはめに。

 「東の郭」方面へはそのまま比高にして差50mほど尾根筋を下ると忽ち東端の腰郭部分に到達。途中尾根筋東側の直下を国道299号線が通過していることを目視し比高差と谷筋の傾斜を目前にして、この北東側から這い上がることにはかなりの障害を伴うことを確認。こうした地形のため車の走行音が断続的に谷間から響くことに。山城の事例で電車の走行音や車の走行音に縁のある事例も珍しいような。東の郭には水の手に相応しい沢筋があり、現在も直ぐ近くに町営水道施設の取水場も所在。些か尾根筋との区分が困難な「東郭」と直下に所在する円弧上の規模の大きな腰郭を確認してそのまま谷筋沿いにを下山。

 植林された杉や竹林のために全体の配置が分かりづらいものがありますが、現状では標高374mの山頂から北西に派生した2本の尾根筋上に遺構が散在するという縄張り。しかし、山頂部分でも比高差が100m程度であることに加えて北西方向に開いた谷筋周辺の傾斜も緩慢という印象は避けられず。総じて「山頂の郭」周辺以外の防御の不十分さを感じるものの、秩父への往還を監視する役割としては格好の立地条件であることを確認。しかしもしも仮に関東管領である上杉謙信がその帰陣に際して現実に名栗川を遡及し妻坂峠越えで生川沿いのルートを下ってきたものとしたらば、相手は万余の大軍に対して城側はせいぜい数百人が籠れる規模でしかないという現実に照らしますと、まさに自落寸前の戦々恐々の様子が目に浮かんできたのであります。

根古屋城 小口部分 クリックで拡大します
大手口 西郭南西に所在する土橋状地形(奥)と構堀(手前)
( 2007/03/26 撮影 )
訪城アルバム
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稲荷神社の眷属
凸1 古御嶽城と武甲山
 根古屋城の登り口付近から眺めた古御嶽城方面ですが、手前の樹木の陰になっているためその姿を直接は見通すことはできませんでした。 奥の特徴のある山は秩父の名峰と謳われた武甲山(標高1304m)ですが、石灰岩の採掘により年々徐々にその姿を変えているようです。
凸2 稲荷神社眷属の狐
 西郭近くに所在する稲荷神社。折しも光線の加減で小祠の鮮やかな朱塗りが反射し何とも迫力に満ちた表情をされておりました。 足元に些かの不安があるため、取敢えずは事故などの無いように何時もより念入りに祈願せざるを得ない雰囲気が真昼間から漂っておりました。

根古屋城 西郭(御殿跡)土塁と南西の腰郭 画像クリックで拡大します
根古屋城 西郭(御殿跡)の構堀と土塁 画像クリックで拡大します
凸3 西郭(御殿跡)土塁と南西の腰郭
 2段に分かれた西郭の北側部分の土塁の高さは自然の地形の高低差を利用しているため最大10mを超える個所も現存。 腰郭の規模は幅15m、長さ60mほどの細長い平坦な形状。 なお、腰郭の南西の方角に当たる根古屋集落寄りの部分には、北西の先端に所在する稲荷神社脇に小さな竪堀状の地形が確認できるほかは土塁などの防御の痕跡は現状からは殆んど確認できません。
凸4 西郭(御殿跡)の構堀と土塁
 この細長い腰郭を進んでいくと突然両脇を土塁に囲まれたこの構堀の地形に出くわします。右側の南西方向の土塁の内側の高さは1mから2mほどで総延長は90mほどの規模。 この中央部分に小口に続く小規模な折歪の地形が確認できますが、竹林部分が多いため季節にかかわら見通しがいまひとつなのが些か残念なところです。
さらに50mほど南東側の構堀と土塁
小口への土橋上から見た構堀と土塁
南東側先端部の構堀と土塁

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凸5 南東の小口から続く西郭への通路部分
 右側の段差のある個所は画像「8」の西郭の上段部分に相当し、理屈の上では下段の郭への通路に対して横矢50m以上の距離に亘って横矢をかけることが可能な配置となっています。然し何分にも下段の郭との段差が少なく最大でもその比高差は2mほどで、現状では殆んどその区別がつきにくい部分も存在しています。
凸6 西郭上段部分
 南西側の構堀に沿って最大幅25m、長さ約90mを有する規模があり、南東に方向に向かってやや上り勾配となっている感じもしますが南西部の大規模な構堀や土塁の上方から小口部分も含めて2段構えの防御線を構成しています。


画像クリックで解説板の拡大画像へ
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凸7 現地解説板
 縄張図付きの分かりやすい解説板が西郭の北西端に設置されています。解説板の谷を挟んだ後側の山が「東郭」方面に相当するはずなのですが。
現地解説板の詳細な縄張図
凸8 西郭(御殿跡)小口
 郭内部より撮影したもので右手の土塁部分には地元の方の墓所が所在しています。

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凸9 西郭(御殿跡)小口
 小口への進入路側から撮影したもので、喰い違い小口のようにも見えなくもありませんが、実際には直各方向に曲折した土塁の角の部分に形成されている格好となっています。
凸10 西郭(御殿跡)北西の小口付近の竪堀
 予想外に大きな規模でしかもこのような勾配を形成しているため、足元の踏ん張りが利かず、結果的に比高差10mほどの急斜面をズルズルと落ちてゆくのでありました。 根古屋城の現存する竪堀遺構としてはその幅や深さの点においては最大規模のものといえます。


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凸11 西郭と南西側の切岸
 右側の比高差にして10mほど下方に画像の「3」腰郭が所在しています。なお、この辺りから土塁状の高まりが少しずつ顕著となり画像「13」の小口左側の土塁部分へと続いています。
凸12 文化財標柱
 西郭の上段部分を南西方向に緩やかな勾配を登り始めるとこの標柱が所在。尾根筋に沿って残りの比高差にして60mほどを登りきれば「山頂の郭」部分に到達します。

根古屋城 山頂の郭 堀切 画像クリックで南西方向の画像へ
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凸13 堀切
 西郭(御殿跡)から山頂の郭へむかう最初の堀切部分ですが一瞥しただけでは必ずしも堀切のようには見えないのであります。

堀切
 上記の堀切から比高差にして10mほど上部に所在する2番目の堀切跡。こちらもの方も見かけでもかなり埋まっていることもあり、予めある程度注意していないと見過ごす可能性もあるような。
凸14 失われた山頂の南側
 石灰岩の採掘により完全に消失した山頂の郭の所在する尾根筋の南側部分。やたらと見晴しは良いのですがあまり近づくと40mほど真下の採掘跡に転落しますので、大雨などの後は特に注意が必要かと思われます。
 なお、画像の奥に見える尾根筋と右手の遥か奥となる「古御嶽城」の所在する通称「三角山」の尾根筋は繋がっているはずなので、往時においては尾根筋の間道があっても良さそうなのですが、この状態では

スミレ (日当たりのよい崖っぷちの可憐な姿)

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凸15 山頂への細い尾根筋
 画像左側が本来の尾根筋部分で右側が石灰岩の採掘により欠損している部分。なお、右手の踏み跡を進むと「22」の画像の個所に到達します。
凸16 小口のようにも見える巨石
 この右側にあたる南側斜面はすぐ近くまで石灰岩の採掘により尾根筋の半分ほどが消滅しているため、どこまでが城郭遺構として判断すべきなのか悩むところです。

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凸17 下から2段目の腰郭
 山頂の郭を防御する腰郭の一部のように見えるのですが。
凸18 同3段目の腰郭
 同じような幅の狭い腰郭状の平坦地。

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凸19 山頂部
 標高373.8mの城跡の最高地点の地形で、南側の切り落とされた地形が城郭遺構なのか石灰岩の採掘に伴うものなのか判断に迷います。

山頂の郭 本郭
 山頂部分との区別がつきにくく、現状ではほぼ一体となっているようにも見えてしまいますが良く見てみると幅10m、長さ40mほどの緩やかに北東側に傾斜する削平地となっています。
凸20 本郭と2の郭の間の土橋
 両側の2本の竪堀と自然石、手前の小口郭などにより防御された土橋部分

山頂の郭小口部分 竪堀(南西側)
 必ずしも現状の縦堀りは歳月の経過により埋もれていることもあるようですが、元々それほどの規模のものではないようで幅は上部で2間以上の規模はあるものの深さは尾根筋付近では僅かな窪みとして遺されているといった按配です。

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凸21 山頂の郭 2の郭
 幅約20mから25mで、長さは尾根筋上に沿って約90mほどの規模を持ち、南東部の1の郭への小口以外には斜面の切岸が確認できます。
北東側の腰郭の画像へ
 奥行き4m、長さ40m前後の細長い腰郭で2の郭の下段約2.5mの位置に所在いていますが、元来から北東方向から東側方面については斜面の勾配が十分にあることから、この腰郭以外には小口部分の竪堀と郭の切岸しか確認できません。
凸22 山頂の郭 2の郭南西部の腰郭の上段部分
 「32」の腰郭の上段部分腰郭を2の郭から俯瞰したもので比高差にして10mほど下段に所在し、奥行5m、長さ20mほどの規模を有しています。

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凸23 山頂の郭 2の郭の西側竪堀
 左右に細長い腰郭が一か所ずつ配されて谷筋からの寄せ手に対する配慮が感じられますが、現状では大分埋まっている様子が窺えます。。
凸24 山頂の郭 2の郭南西部の腰郭の下段部分
 上段の腰郭のさらに5mほど下段に所在し、この個所のみ2段の腰郭が普請されて緩やかともいえる谷筋西側の斜面部分を堅実に防御する構造となっています。

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凸25 東郭 腰郭
 東郭と水の手を挟んだ東側に所在する細長い腰郭で幅約10m、長さ約60mで、この先に竪堀状の地形を確認することができます。東郭とともに水の手を確保するとともに山頂の郭の2の郭へと続く尾根筋を防御する位置に所在しています。
凸26 東郭 水の手
 現在水の手とされるこの谷の西側には横瀬町の町営水道の取水施設が所在していることからも、以前から水源が豊富な地形であったことが想定されます。なお、画像右側の切り落とされた印象のある斜面は東郭のもの。

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凸27 水の手から見上げた東郭
 根古屋城の水の手そのものは、このほかに西郭の源頭部を含めて恐らく複数個所は存在していたものと考えられます。 然しこの東郭が水の手を確保するためのものなのか、西郭との連携でその間の谷筋を防御するためのものなのか、郭自体の平坦地部分の広さも500平方メートル足らずの規模なのでその性格が掴みづらいところです。
 水の手の谷部分との比高差は5mから8mほどの規模であるため当時は別として、現状の地形からは決して登ることを躊躇させるような勾配ではありません。
凸28 東郭直下の腰郭
 東郭のこの方面では唯一の防御施設ですが、三日月の形をした腰郭の下方は非常に緩やかな斜面へと続いています。東郭との比高差は約4m、下方の緩斜面との比高差も4mほどの規模があります。下草が刈られていた模様で非常にその形状が分かりやすく実にありがたいことです。
東の郭上部の画像にリンク
 東郭から南東の尾根筋に伝いに直接進めば、途中から幾分傾斜があるものの山頂の郭へと向かうことも可能なようです。

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凸29 東郭付近の稜線
 麓との比高差は約30m余りで東西に浅い谷筋が入り込んでいるものの、斜面全体としては意外なほど緩やかな地形を形成していますので一見して山城跡のようには見えにくい印象でした。
凸30 根古屋集落側から眺めた西郭の稜線
 西郭(御殿跡)の南東部分は長大な土塁と構堀により防御されているものの、麓との比高差は30m前後しかなく斜面の勾配もやや緩慢という印象。

交通案内

・駐車場所は基本的にありません。
・国道299号線根古屋バス停より徒歩10分で麓に到着。
・比高差は西郭までが約40m、山頂の郭までが約70mで合計約110m。全体の所要時間についてはざっと見て歩く分には 東郭を経由して下山するまで約90分ほど。
・山頂の郭南側斜面は大きく削り取られているので一定の慎重な行動が求められます。
いつもガイド の案内図です⇒マーキング個所は山頂の郭最高地点 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
新編武蔵風土記稿
 秩父郡横瀬村の項に「根古屋城跡 村の東南寄りにあり、地元の伝承によれば北条氏直の家臣、渡邊監物・浅見伊賀守在城させた城跡であるといわれている。考えてみるにこのことは恐らくは誤伝であろう。北条安房守氏邦が鉢形に在城していた時にその家臣により秩父郡の守りとしてこの城を交替で守備させていた場所であろう..城墟の地形をみると、北西の方角に九十九折りの坂道があり搦手であるものと考えられる。大手は南口で上り距離にして約100m未満の山で、その頂上の東寄りに600平方メートルほどの平坦地があり(⇒山頂の郭か)、そこから西へ下ると広さ3千平方メートルほどの場所があり、北より南の方角へ長い平坦地が二か所あり雑木が茂っている(⇒西郭と推定)。また少し下ると斜面中段に堀跡らしい地形があり、また山を回って幅8mほどの堀切があるが、現在全て畑となっている。(⇒西郭北西の竪堀、南西の構堀を指すものと推定)東の方角は山を隔てて一段高く城山と呼ばれる峰があるが平坦地は存在しない。南には愛宕山と呼ばれる所に1千平方メートルほどの平地があり小祠が置かれており、昔は物見櫓などでも設置したのであろうか。その谷を城谷澤と呼んでいる。」(以下略、後段は「秩父志」の記述と概ね同等)
 挿絵の「横瀬村古城之図」には「古城跡」「大机山」「アタゴ」「シラヤ沢」「古ミタケ」(⇒古御嶽城と推定)「机ノ平」など周辺の全体的な地形がその地名とともに書き込まれていますが、根古屋城自体の具体的な描写に関しては「秩父志」の絵図の方がより具体的で分かりやすいという印象です。

増補秩父風土記
  武光庄、横瀬村の項に「持山、上杉伊豆守憲政鎌倉より敗入り、少しの間忍居して根古屋へ移る..」と最後の関東管領山内上杉憲政が持山、根古屋と転居したとの記述が目を引きます。この「持山」という地名が具体的にどの辺りの地域を示しているのかについては、山岳地名として武甲山の南側の稜線続きに大持山・小持山という山名が所在するとともに大持沢・小持沢との地名が所在することが示すように、横瀬川の支流である武甲山を源流とする持山廃寺の所在する生川上流付近の小字名であることは間違いないようです。(「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)より)
 また続いて、「根古屋 秩父別当武光、同十郎武綱、同七郎武元、秩父別当武重、同別当重能、同次郎重忠」と箇条書きで記されると共に、「次に上杉憲政、阿佐美伊賀守、渡部監物」と記されています。この記述をそのまま理解すれば畠山重忠に至るまでの秩父平氏との関係を示すものということになりますが、秩父氏館跡と推定されている城館跡が旧吉田町に存在していることを前提に考えますと、それらの庶流である一族が根古屋城の山麓辺りに居館を構えた可能性はあったとしても史実としての信憑性を欠くものかも知れません。加えて上野を本領とする関東管領上杉憲政が持山の地から移り住んだという記述も概ね同様のものと考えられますが、北条氏邦の家臣である阿佐美伊賀守、渡部監物の両名との関係については一応古文書の類が残されています。

秩父志
 横瀬村の項に「根古屋城は机ノ城とも唱えしなり、武甲山の東隣山頂高所に在り、退手口は南西を表と為して一丁(⇒道程約109m)ばかり登り頂上東方に二百歩(⇒約660平方メートル)ばかりの平坦あり、それより西に下りて広さ3段ばかりの所あり、また北より南へ長く平坦の所二所あり、諸木茂りまた少しく下りて山腰に隍堀の跡あり。山をまわりて幅4、5間ばかりの堀切ありて今は畑となせり、東方に谷を隔て一級高所を城山という、坦所なし、南に愛宕社ありて一反(⇒1千平方メートル弱)ばかりの平地あり、これ古の物見跡という、この谷間を城谷澤(しらやさわ)と唱う、山趾の小高地に南より西にわり人家7、8戸あり、これより一段低き所皆水田となれり..根古屋口というは乾方(北西)互折の坂曲ありてこれは搦手口ならんといえり。城構主詳ならず、秩父別当武光、同十郎武綱、同重綱、同重弘、同重能等の人々居住してこの地を管轄し、後北条氏の時鉢形の家人支命を受けて在城せしなり」と記されています。
 
 この地誌には「根古屋城跡図」とされる絵図が掲載されているのが最大の特徴であり、その絵図によれば西郭が2段に表されるとともに、その上段部分を「御殿跡」、下段部分を「三丸」(三ノ丸)と表記し、北西先端部小口についても「搦手の喰違い」小口であることなどが記されています。また西郭南西部の構堀も「カラホリ」と明記され、これに付随する土塁跡の地形も書き込まれています。また、山上には「物見台三重」と説明が付され三段構えの郭跡が示され、おそらくこの部分が現在の山頂の郭に相当するものと推定されます。
 しかし、「武甲山の東隣山頂高所に在り」「御殿跡より物見まで7、8町上りあり」(⇒およそ800m相当と換算されますが、現実には200m足らずの距離であること)などとの記述には実際の標高・方位や距離などとの整合性を欠いていること、および大手口方面の縄張りなどの様子が全く記されていないことなどがやや不自然な印象を与えています。なお、大手口については「退手口は南西を表と為して」との記述がありますが、これについては明らかに「追手口は南西を表と為して」の誤記(誤植か)であると推定されます。このほか「新編武蔵風土記稿」と概ね同様の後北条氏支配期のものと思われる古文書も筆写されています。

秩父郡誌(大正13年(1924)12月4日初版、昭和47年(1972)6月名著出版より復刻)
 第5編町村史第1章秩父地方の第2節横瀬村の項に「城址 根古屋城址は当村の東方字根古屋にあり。北条氏邦が大里郡花園城主藤田邦房の養子となったので本城に居を定め、甲斐の武田氏に備えた。しかしこの地は人里遠く万事に不便なために、氏邦はその後本郡白鳥村天神山城に移り、更に大里郡鉢形城に転居した。かくて本城は氏邦の臣浅見伊賀守・渡邊監物等がこれを守禦した。城址は南方を追手(大手口)とす。これより登ること約1町(⇒道程約109m)にして6、7畝(⇒約700平方メートル弱)の平地あり。その西方稍々低下せる平地あり。面積約3段(⇒約3千平方メートル、現在「西郭」と呼称される個所と推定)。その下方の山腰に幅4、5間の隍跡(ほりあと)あり(現今畑地となれり)。(⇒長大な「構堀」の部分を指していると推定)城址の東方に城山あり。南方に愛宕山あり。愛宕山上一段余(⇒約1千平方メートル)の平地は往昔物見櫓を設けたものと思われる」と記されています。

(注1) なお、北条氏邦がこの根古屋城を居城としたという事跡はについては、江戸時代の中期に記された「関東古戦録」(関八州古戦録とも、槇島昭武 著/享保11年(1726))巻の五に北条氏康の子息に関する記述の中でも記されており、これが最も記述の古いものであると考えられますので恐らくはこの文献等から引用したものと推定されます。しかし、その史実としての真偽については確かめる手だてがありません。

(注2) 「新編武蔵風土記稿」および「秩父志」の「東方に谷を隔て一級高所を城山という」記述、ならびに「秩父郡誌」の城址の東方に城山ありとの記述に関しては、今のところでは具体的にどの地点を示しているのか不明です。強いてそれらしい地形を地図上から探してみると小鳥沢川対岸の東南東方向の標高546mの山頂、横瀬川対岸の北東方向の標高474.1mの山頂などが比定されますが現在のところは未確認です。

武蔵志
 横瀬村の項には横瀬氏の発祥に関すると思われる記述のほかには、「根古屋城 古城 天正年間に浅見伊賀守が居城とした」との簡略な記述のみが記されているだけです。

古文書類
 「上杉一揆名栗谷を通り都摩坂(⇒現在の妻坂峠と推定)を越え、持山に立篭もりの由、右この抑えのため根古屋へ差遣わし候、これより東は小丸坂上、西は坂氷上、南は産川(⇒現在の生川と推定)の水元、北は横瀬川を境に定め宛行の間知行為され候、並びに渡辺監物を指添え遣わし候、命令は以上のとおりである。 元亀3年3月5日 氏邦 朝見伊賀守殿 」(北条氏邦印判状−「加藤家文書」より−「新編武蔵風土記稿」の下日野澤村の項などに収録されています)

(−全体として表記を現代文風に変更−)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)・「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「定本上杉謙信」(2000/高志書院)、「戦国期東国の大名と国衆」(2001/岩田書院)所収の黒田基樹著「謙信の関東侵攻」 

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