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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/22の日記 竜ヶ谷城 寺山砦  
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合26
所在地
埼玉県秩父市(旧吉田町)氏下吉田3833
歴史と沿革

館跡というよりもむしろ城跡の備えが伝わる
 「吉田町史」などによれば、秩父氏は桓武天皇6代後の子孫である平将常が武蔵權守に任じられて秩父郡中村郷(秩父市内中村町)に居住し秩父氏を名乗ったことに始まるとされています。その子武基は秩父牧別当を兼ね下吉田に館を築き、さらにその子武綱の代にこの鶴窪台地を居館としました。武綱は後3年の役に戦功を挙げ、子孫は土肥・畠山・千葉・豊島・葛西・江戸・河越などの東国の著名な武士の一族を輩出したとされています。
 また、この立地条件や下記の「秩父志」などの記述からみて、戦国時代には北条氏邦の有力家臣と推定されている秩父孫二郎などの秩父氏後裔の居城として利用されるとともに、少なくとも下吉田地区周辺の要の城館として機能していたものと考えられるのではないでしょうか。
 
 なお、近世から明治期に編纂された地誌では概ね次のような記述があります。
新編武蔵風土記稿
 「古城址 小名町にあり、秩父十郎武綱の城跡と云う、今八幡社あり(椋神社の境内へ合祀のため移転)...」と記され、若宮八幡神社の項に「この社地は秩父十郎武綱の城趾なりと云う、町より一段高く、吉田川及び吉田町を眼下に見下し眺望いとよし」とされています。

武蔵演路(安永年間に大橋八右衛門方長が編著)
 「八幡宮 吉田町鎮守 畠山重忠建立 此鶴が窪と云うは秩父十郎武綱居城故 其名も相州鶴が岡を移せり...居城の跡今に有」

秩父風土記
 「鳥方 鳥方土佐守」(おそらく城館の主についての伝承などに基づく記述と思われるものの、断片的な記述のため具体的な意味合いが不明かと思われます。なお、「児玉党系図」では児玉党秩父平氏の一族に鳥方二郎義家を始めとする一族の名が見えます。)

秩父志
 「此村の内鳥方の城蹟と伝るは、吉田八幡宮の社地にて、古湟の形二重に残りて秩父氏族の居蹟と云う」(吉田村の項)
 「鳥方城家族 秩父孫十郎居」(北条氏の事蹟の項)
 「鳥方 秩父孫十郎 皆野円福寺」(菩提寺の項)
 「鳥方 秩父孫十郎」(領主の項)
いずれにしても、これらの記述から別名を鳥方城・鳥方砦とも呼ばれているようです。

武蔵国郡村史
 「古城墟 東西130間南北200間 村の中央にあり八幡山と称し若宮八幡社を勧請す秩父十郎武綱の城趾なりと口碑に伝う 東は吉田川を臨み八丈余の石階あり 西は空濠の跡を存し城坂と称す 南は十丈余の濠を存す 北は椋神社と吉田川を隔てて相対し縫殿坂と称す 中央に古井あり八幡井と称す かたわらに古碑ありて...老樹鬱葱風景絶佳なり」

確認できる遺構
なし(※なお台地上の南側の一見土塁のように見える部分は小学校の校庭の造成の堀残したものとのことです)
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■北側と東側には吉田川が大きく蛇行し、南側には山女魚沢の深い谷が刻まれ唯一の台地続きの東側も自然の谷筋が入り込むという天然の要害です。
 崖下の吉田の町との比高差は15mから20mほどで、手前の山女魚沢の深さはざっと20mから25mほどで谷幅は80m前後はあり、この地形を見る限りでは館というよりも寧ろ城に近い印象です。

文化財指定
埼玉県旧跡 1961/09/01指定
訪城年月日
2006/02/22
訪城の記録

( 2006/02/22 )
崖の先端はこのあたり...
 城館跡の遺構が小学校の敷地そのものとなっているため、あまり近くでウロウロするのも躊躇われる昨今。いっそのこと思い切って南側の谷の対岸から見学することに決定。しかし、よくよく他の方のHPや資料の写真を見てみるとどうやら自分が見学した場所と寸分違わぬ辺りから撮影している様子。
 この場所は吉田町の街中でありながら、予想外に深い谷が刻まれているために西側の一部を除く守りは鉄壁かと思われます。なお、撮影している足元の崖も急傾斜で体を乗り出さない限り斜面が見えないほどで、おまけに枯れ草のためにどこまでが崖線なのかよく分からない状態でした。自分の子どもたちが幼い頃に近くの釜の上農園のぶどう狩りなどに何度か訪れていましたが、その時に車で登っていた坂が城館跡の一部だとは全く気がつかず...(^^;

記念撮影



 北側と東側には吉田川が大きく蛇行し、南側には山女魚沢の深い谷が刻まれ唯一の台地続きの東側も自然の谷筋が入り込んでいます。崖下に見える吉田の町との比高差は15mから20mほどで、また手前の山女魚沢の深さはざっと20mから25mで、谷幅は80m前後。この地形を見る限りでは館というよりも寧ろ城に近い要害の地です。

( 2006/02/22 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■秩父氏館跡
 上の写真の撮影位置から30メートルほど西側で撮影したもので、規模は東西約200m、南北120mから150mとやや大きくなるものの小暮城との形態上の類似性が窺がえますので時代背景などの共通性も想定されます。
画像クリックで拡大します
■2■秩父氏館遠望 画像クリックで拡大
 館の北側を流れる吉田川の対岸の山麓を走る県道37号線から撮影したもの。館跡の台地には吉田小学校の建物や保育所などが所在しています。
                                      (2006/02/27撮影)
■3■「ホトケノザ」(シソ科オドリコソウ属の2年草)
 春の七草のホトケノザは「コオニタビラコ」の別名です。この日当たりのよい台地上に咲いていたホトケノザは相当に気が早い性質のようです。通常の開花は3月から。
オオイヌフグリの植物図鑑へ
■4■オオイヌフグリ 画像クリックで植物図鑑へ
 寒さに強いので早春の2月下旬の冷え込みの強い時期でも早々と花を咲かせる頑健な植物です。吉田地区は盆地のためこの時期は朝方でマイナス5度くらいにはなるのですが、早春の暖かな日差しを浴びて春の到来を告げていました。
■5■吉田椋神社 所在地:秩父市下吉田7377
 右奥の小社が大正時代に秩父氏館から移転合祀された八幡神社の旧本殿(現在椋神社の拝殿として使用)。椋神社本殿と共に秩父市指定有形文化財。椋神社は明治17年に起きた「秩父事件」ゆかりの地。またこの神社には鉢形城主北条氏邦が着用したと伝えられている「三十二間筋兜」(秩父市指定有形文化財 「小田原住明珍義次」作)が残され、鉢の縦筋の間には銀と真鍮を利用した象嵌により八幡大菩薩、祇園牛頭天王、春日大明神などの三十番神が記されたもので、よく写真などで見かけることの多い兜です。
交通案内

・吉田小学校の校庭で下吉田地区の町並みの中で飛びぬけて標高の高い丘陵の先端部分に位置しています。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)、「吉田町史」(1982/吉田町)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収、「鉢形城開城」(2004/鉢形城歴史館 展示図録) 

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