( 2006/02/22 )
凸崖の先端はこのあたり...
城館跡の遺構が小学校の敷地そのものとなっているため、あまり近くでウロウロするのも躊躇われる昨今。いっそのこと思い切って南側の谷の対岸から見学することに決定。しかし、よくよく他の方のHPや資料の写真を見てみるとどうやら自分が見学した場所と寸分違わぬ辺りから撮影している様子。
この場所は吉田町の街中でありながら、予想外に深い谷が刻まれているために西側の一部を除く守りは鉄壁かと思われます。なお、撮影している足元の崖も急傾斜で体を乗り出さない限り斜面が見えないほどで、おまけに枯れ草のためにどこまでが崖線なのかよく分からない状態でした。自分の子どもたちが幼い頃に近くの釜の上農園のぶどう狩りなどに何度か訪れていましたが、その時に車で登っていた坂が城館跡の一部だとは全く気がつかず...(^^;
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北側と東側には吉田川が大きく蛇行し、南側には山女魚沢の深い谷が刻まれ唯一の台地続きの東側も自然の谷筋が入り込んでいます。崖下に見える吉田の町との比高差は15mから20mほどで、また手前の山女魚沢の深さはざっと20mから25mで、谷幅は80m前後。この地形を見る限りでは館というよりも寧ろ城に近い要害の地です。
( 2006/02/22 撮影 晴れ )
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■1■秩父氏館跡
上の写真の撮影位置から30メートルほど西側で撮影したもので、規模は東西約200m、南北120mから150mとやや大きくなるものの小暮城との形態上の類似性が窺がえますので時代背景などの共通性も想定されます。
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■2■秩父氏館遠望 画像クリックで拡大
館の北側を流れる吉田川の対岸の山麓を走る県道37号線から撮影したもの。館跡の台地には吉田小学校の建物や保育所などが所在しています。
(2006/02/27撮影)
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■3■「ホトケノザ」(シソ科オドリコソウ属の2年草)
春の七草のホトケノザは「コオニタビラコ」の別名です。この日当たりのよい台地上に咲いていたホトケノザは相当に気が早い性質のようです。通常の開花は3月から。
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■4■オオイヌフグリ 画像クリックで植物図鑑へ
寒さに強いので早春の2月下旬の冷え込みの強い時期でも早々と花を咲かせる頑健な植物です。吉田地区は盆地のためこの時期は朝方でマイナス5度くらいにはなるのですが、早春の暖かな日差しを浴びて春の到来を告げていました。
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■5■吉田椋神社 所在地:秩父市下吉田7377
右奥の小社が大正時代に秩父氏館から移転合祀された八幡神社の旧本殿(現在椋神社の拝殿として使用)。椋神社本殿と共に秩父市指定有形文化財。椋神社は明治17年に起きた「秩父事件」ゆかりの地。またこの神社には鉢形城主北条氏邦が着用したと伝えられている「三十二間筋兜」(秩父市指定有形文化財 「小田原住明珍義次」作)が残され、鉢の縦筋の間には銀と真鍮を利用した象嵌により八幡大菩薩、祇園牛頭天王、春日大明神などの三十番神が記されたもので、よく写真などで見かけることの多い兜です。
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・吉田小学校の校庭で下吉田地区の町並みの中で飛びぬけて標高の高い丘陵の先端部分に位置しています。
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)、「吉田町史」(1982/吉田町)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収、「鉢形城開城」(2004/鉢形城歴史館 展示図録)
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