( 2006/01/09 )
凸斜面の中腹に忽然と現れる石垣の館
日野沢左岸の暖かな南側斜面に所在する見事な石垣の館跡。地図で見る限りは500mほどの僅かな距離かと思い、麓に車を停めて徒歩で登ったところ意外と比高差が。正月太りの運動不足で90キロの大台に達していたこともあり、息が切れて二度ほど小休止をしてやっと町の指定文化財となっている石垣にやっとのことでご対面。
後で、よく調べてみると麓の道路からは比高差で50mほど。この九十九折の急な道はここにお住まいの二軒お宅の事実上の専用道路の模様で、車道ができる以前は徒歩で毎日上り下りされていたかと思うと日常的には大変なご苦労があったのではないかと推察。足腰と心肺機能の鍛錬に繋がるとは思われるものの、これを日常的に上り下りするなどということはとても自分には不向きかと。
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枯れ草に覆われて少し見づらい感じでしたが、このあたりの最も高い部分で4m近くの見事な石垣が積まれていました。「新編武蔵風土記稿」下日野沢村の阿左美氏に関する記述によれば元禄7年に普請された旨が記されています。またその後においても当然のことながら経年変化により幾度となく部分的な補修が行われていると考えられますが、戦国時代の在地領主の系譜に繋がるとされる郷士の館跡は堂々とした威容が感じられます。
( 2006/01/09 撮影 晴れ )
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■1■九十九折の坂道
こうした山村にお住まいの方々の距離と時間の感覚とあわせてその足腰の強さを思い知ったのは、この場所から10kmほど北にある下久保ダムでのこと。もう40年以上も以前の中学生の時分のことで、まだ下久保ダムが工事中の城峰山からの帰り道だったと記憶。多分現在は湖底に沈んでいるような谷合の場所で、地元のお年寄りに児玉駅へ向うバス停の場所を尋ねたとき、「そこの道を登ればすぐそこ」とのこと。ところが、いざ登り始めたもののなかなか到着せず、ハアハアいいながら30分近く費やしてやっとのことで十国峠からの県道のバス停に到着。これ以来田舎の方、とりわけ山間部での「すぐそこ」は、最低30分はかかるものだという認識に改められました。
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■2■
西側のお宅の石垣の下の平坦部分にはよく見ると石畳の跡も遺されていました。
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■3■
この館跡の立地は南側の斜面に面しているものの決して緩やかな斜面ではなく、2戸のみの集落までのこの道路は九十九折となって上っていきます。この写真から斜面の角度が判断できると思いますが、多少防備としての意味合いもあるとも思われましたが、同時にこうした石垣の普請により居住部分としての平坦地を作り出しているようにも思われました。
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・日野沢川沿いの県道284号線日野バス停西側の坂道を右手へ10分ほど上る
MapFan Web の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「後北条氏と領国経営」(佐脇栄智 著 1997/吉川弘文館)
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