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関連ページへのリンク  2006/05/08の日記 小高屋敷 原の構堀 加納城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合23
所在地
埼玉県桶川市坂田
歴史と沿革

「堀の内」の地名のみが残る
 「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」において、「 坂田には『堀の内』という地名が存在しており、館跡の存在が予想される 」と記され、「桶川の館城跡分布図」にも掲載されていますがそれ以上の具体的な記述はありません。なお、「武蔵国郡村誌」の坂田村の「字地」として、「堀内 本村の中央にあり東西260間(約472m)、南北355間(約645m)」と記されています。
 なお、「坂田堀の内」は他の同様の名称と区分するための便宜上の仮称です。

確認できる遺構
堀跡か?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■赤堀川とその支流が北側と東側を流れていますが、本来の館跡の所在を示す堀の内が実際にどの辺りに所在していたのかについては現在の状況からは推定するのが難しい状況で、この場所とは別に桶川東中学校の北側付近もその地形状から候補地の一つかと思われます。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/08
訪城の記録

( 2006/05/08 )
堀跡か根切りか、はたまた雨水の流路か
 具体的な情報として中世城館跡が存在しているということではなく、「堀ノ内」という地名が訪城の動機という実にいい加減な訪城。資料といえば、「ゼンリン」の「いつもガイド」の地図を2枚印刷し、これを貼り合せたものが手掛りの全てという大変寂しい状況。
 そういえば少し前にゼンリンさんから、ウェブ地図サービス上に遺構の位置を示すリンク設定について、「今後のリンクのお知らせは不要」とのメールをふと思い出しました。最初は、コツコツと更新のたびにリンクのお知らせメールを送信。そのうちに相手先の都合も考慮して数件を纏めて送信することに。20件ほどのメールを送信した段階で、今後のリンクのお知らせメールは拙サイトの全体の内容から判断して不要である旨連絡をいただくことに。これをどう解釈するかが問題ですが、おそらくあまりにも毎回律儀に送信していたのでいい加減呆れられたのかもしれません(^^;
 さて、地図上では赤堀川とその支流が北側と東側を流れていますが、目星をつけていた現地は案内板が設置され「大尽山」と呼ばれる大規模な屋敷林が所在している模様です。都市計画道路も一部建設中で、西側の方には産業廃棄物を埋め立てたような高さ8mほどの2段になった台地状の長大な地形も所在。その更に西側のやや標高の高い山林がどうしても気になるので、山裾の地形を観察しながら反時計回りに行動していくと、産廃のほぼ西側にあたる山林の山裾に深さ数十センチくらいの堀跡状の地形を確認。自然の雨水の流路のようにも見えるのですが、上幅が4m以上はありそうなので人工的な手が加えられた地形と見ても差し支えはなさそうです。その目的や時代背景なども全く不詳なので、たしかに一応地形の上では「堀跡」には相違なさそうなものの、いわゆる「畑の根切り」なのか「城館跡等」に関連するものなのかその性格付けが何とも判りかねました。

記念撮影
クリックで大尽山の現地解説板へ



 目星をつけていた現地には、「ふるさと緑の景観地」という案内板が設置され、少し前までは「大尽山」と呼ばれる大規模な屋敷林が所在していた模様です。「大尽山」と呼ばれている屋敷林の一部で、宅地と道路との比高差は1.5mから2mほど存在し、道路部分の低い地形はかつての堀跡のような印象も感じられるのですが。       画像クリックで案内板へ

( 2006/05/08 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■ごく新しい石碑-記録をとどめることの大切さ
 都市計画道路の建設に伴い、昨今この地域の公会堂が取り壊されたということのようですが、長年よほどこの地域の方々に親しまれてきた経緯があったものと思われます。
 それこそ30年も経過すると次第に人々の記憶からは薄れていき、やがてはその存在さえ不確かなものとなっていく運命にあります。そうした時の流れに抗い、やがては地域の歴史と人々の記憶を語り継ぐ大切な存在になっていくものと思われます。埼玉の中世城館跡の場合も、全県的にもう少しそういう取り組みがあってもよいのではないかなどと勝手なことを...
■2■新西国29番馬頭観音堂
 堀の内の南方に所在し、おそらく「新編武蔵風土記稿」の坂田村の寺院の項に観音堂とのみ記されている堂宇がこれに相当するのかもしれません。
 馬頭観音は千手・如意輪・十一面などの六観音の一で、六道のうち畜生道に苦しむ衆生の救済に当たるとされています。民間信仰馬としては貴重な労働力である馬の守護神として非常によく尊崇されたため、頭に馬の首を刻んだ石仏やその文字を刻んだ石塔はよく目にすることがあります。(「民間信仰辞典」(1980/桜井徳太郎編)より)
■3■長大な土塁跡..ではなく、産廃の山
 西側の方には、このような産業廃棄物を埋め立てたような高さ8mほどの2段になった台地状の長大な地形が所在する悲しい光景。 この台地状の地形の後ろ側に見える山林の向こう側の麓に「5」「6」のような堀跡状の地形が存在。
■4■谷底の古道
 この古い道の左側に「5」「6」の堀跡状の地形が存在していました。また、向かって右側は比高4m以上の台地であり、この細い道路を含む地形自体が写真奥の方から手間へ方向に緩やかに傾斜するという浅い小規模な谷を形成していました。
■5■堀跡のような
 産廃のほぼ裏側で西側にあたる山林の山裾に深さ数十センチくらいの堀跡状の地形です。一見自然の雨水の流路のようにも見えるのですが、上幅が4m以上はありそうなので一定の人工的な手が加えられた地形と見ても差し支えはなさそうです。
 この堀跡らしき部分とその向こう側の山林の台地部分との比高差は3mから4mほどはあります。山林の中の様子が気になるところですが、その台地自体には土塁や空堀などの痕跡は認められませんでした。
■6■雨水の流路、畑の根切り...
 しかし、その目的や時代背景なども全く不詳なので、たしかに一応地形の上では「堀跡」には相違なさそうなものの、「雨水の流路」や所謂「畑の根切り」なのか、あるいは「城館跡等」に関連するものなのかその性格付けが何とも。
交通案内

・国道17号線坂田交差点の北東約600m付近。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」
 坂田村の冒頭に「往古は岩槻太田氏の領地なり、御入国以来御料所なりしが、正保3年(1646)年諸星氏に賜りしより...」
と記されているものの、「寛政重修諸家譜」によれば元禄10年(1697)に稟米から知行に改められたとされているので正保年間には采地として知行されたというのは誤りとしている。(「桶川市史 通史編」)いずれにしても堀の内に関する記述は存在せず、陣屋支配の終焉期であり領地が関東の各地に分散した中堅旗本の陣屋跡とはまず考えられない。
「武蔵志」
 領主・堀の内に関する記述はない。

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」(1985/桶川市)
「桶川市史 通史編」(1990/桶川市) 
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