( 2006/04/26 )
凸規模の大きな不詳の堀跡
加納城に向かう前に車から垣間見えた見えた県道12号線の東側の堀跡らしき溝の探索へ。屋敷林北西側に3ヶ所以上の折と1ヶ所の喰い違い状の部分を有しています。堀幅は3.6から5.4m、深さ1mから1.5m、延長にして200mほどの空堀乃至は水堀と思われる遺構ではあります。年代については資料などもなく全く不明で、基礎的な資料である「埼玉の中世城館跡」や「近世地誌」などにも記述がありません。
おそらくは在地領主との区分が難しい戦国時代末期から近世初期頃の帰農した名主などの豪農階層の屋敷に付随する構堀の類かと思われました。詳しくは調査していませんが、加納城の場合でさえも拠点とした領主の名は不明ですので、その寄騎と推定される周辺村落の有力農民階層の館・屋敷の由来については伝承さえも辿ることは難しいのかもしれません。
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写真の中央やや右側で直角に3回ほどの曲折を見せています。また写真左端の方には空堀が喰い違い状の形となり小口を形成しているような地形にも見えたのですが。
なお、現在は周辺は大半が畑となっていますが、以前は一面の水田地帯であった模様です。ただ小字名が「原」となっていることから考えると、水田となったのは近世以降の灌漑技術の進展した時代になってからなのかもしれません。
( 2006/04/26 撮影 曇り )
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■1■畑の根切りとしての役割?
屋敷林の境界に沿って所在していることから木の根の侵食を防ぐための畑の根切りの性格も否定できませんが、やや複雑な折のついた形状や規模の大きさなど考慮すると構堀の一種と見るほうが相応しいようにも思えたのですが。
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■2■小口状の地形
北東側の小口状の地形のようにも見えなくもない空堀の喰い違い部分ですが、小さな折のついた部分がその後に埋め立てられたのかもしれません。現在は宅地内から畑への通路の一部となっていました。
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■3■農業用水路?
この南西部分の角あたりでは、堀幅は3間前後で、深さも1mを遥かに超える規模となっていました。近くに水路は所在しているものの、この辺りの地形は台地となっているために、水田への用水の供給は揚水ポンプが利用されていました。このため、近世以降の水堀や農業用水路であったとはやや考えにくいものがあるのではないかと思われます。
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・県道12号線桶川高校入口交差点の北東側
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」(1985/桶川市)
「桶川市史 通史編」(1990/桶川市)
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