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■1■明るい沼池 画像クリックで拡大
関越自動車道西側の側道沿いに所在する沼池ですが、近くに人家もなく具体的な名称は不勉強かつ未調査のため不明。 西側に向かって開けた谷の奥に所在しているので、「6」の画像の沼池とは好対照でありました。
なお、この関越自動車道の側道は僅かにすれ違いのための場所があるものの、元来幅員が3mほどしかないので急に対向車が来たときには正面衝突するか、この沼に落ちるかの二者択一...
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■2■「百体庚申塔」
近世に流行した庚申講によるものと思われますが、それほど古い時代のものではないようです。
念のため数量を数えてみましたが、100以上は所在しているようです。 建立の由来については、中央の大きな石碑に記されている模様ですが、見づらいことに加えて、読めない、意味が分からない...(汗)
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■3■「八宮神社」
「新編武蔵風土記稿」の「廣野村」の記述によれば村の鎮守とされていたことが記されています。 明治末期の合祀によるものと思われますが、境内社として「榛名神社」「琴平神社」も併設されておりました。 本殿は平成9年3月に再建されたもの。
一見すると高さ2.5mほどの土塁のように見えたりしますので、丘陵先端部分の高台に所在していることもあり、如何にも期待が持てるのであります。 然し境内の広さは南側に民家が所在しているために参道の長さに比べてさほどの広さがありませんでした。
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■4■境内北側の溝跡 画像クリックで拡大
幅約1間、深さ0.8m、長さ約30mほどの規模の溝が所在しています。 画像の左側の方が高くなっているため雨水を排水する目的で普請されていることは疑いのない事実であります。 然し何時の頃からのものということになると神社の縁起次第のため、詳細については分かりかねるのでありました。
祭神は「碑文」によると「建速須佐之男命」(たけはやすさのおのみこと、スサノオノ命)「奇稲田姫命」(くしなだひめのみこと、稲田姫命)「大己貴命」(おおなむちのみこと、大国主命)とされ、その起源は平将門の時代に遡及するとのこと。
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■5■境内西側の排水路兼畑の根切り溝
溝の幅は約1間、深さ1m、長さは50m近くありますが、いずれにしても神社の普請に伴う雨水の排水と神社側からの樹木の根の張り出しを抑止する畑の根切りに伴う地形であると考えられます。
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■6■暗い人気のない沼 画像クリックで拡大
関越自動車道の北側に分断された丘陵地帯に所在していますが、東側は思いのほかの急斜面で谷底までの比高差も20m以上ありました。 この画像の沼池は尾根筋近くの西側に所在していますが、近くには地元の方の墓地が点在し、晴天の昼間でも殆ど人気がありません。 あとから調べた所では実際にはこの沼の西側100m程の所には地元の方の民家が所在しているようです。 然し、夕方以降には余り接近してはいけないという厳粛なオーラを感じてしまいました。
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■7■年代不詳の板碑
帰りがけに畑の端の杉の根元に祀られていたもので、ある意味では神社よりも中世の面影を辿ることができる存在でありました。乏しい知識を辿ってみると、おそらく主尊は阿弥陀如来(キリーク)のようですが、全体の3分1程度の大きさしか残存していないためにそれ以上の詳しいことは何とも分かりませんでした。
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■8■「杉山城」は指呼の間
画像右側の送電線の鉄塔の後ろ側の小山の辺りが、かの有名な「杉山城」かと思われます。その距離は西方約900mほど。
市野川と粕川に挟まれた地帯には、標高100m前後の酷似した細長い丘陵地帯が延々と5km以上も続いているため、小川町の「高見城」などとは異なり必ずしもそれほど目立つ地形をしているという印象がありません。 この地に杉山城が築城された背景には、案外そうした外形的な地形の平凡さにあるのかも知れません。
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