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関連ページへのリンク  2006/12/11のブログ 杉山城 谷津城 廣野下郷
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合22
所在地
埼玉県比企郡嵐山町廣野中郷652付近
歴史と沿革、
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

杉山城対岸の遺構
 西側以外の三方を谷津に囲まれた丘陵地帯に所在し、関越自動車道の建設に伴う発掘調査により中世のもの推定される堀跡が確認された模様ですが、それ以上のことは分かりませんでした。 「杉山城」から見ると粕川を挟んだ東方対岸の真向かいに位置していることから、何らかの関連も窺がえそうですが具体的なことについては何とも。 なお、近年その存在が堪忍された「村の城」とも推定される「谷津城」(「谷ツ遺跡」)は西北西800mほどの距離に所在しています。

凸追記
 「関越自動車道関係 埋蔵文化財発掘調査報告書XII−中郷−」(1982/埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第13集)によれば、やはり遺構の大半(北側部分)は道路部分として掘削され完全消滅しているようです。 ただし、縄文中期の複合遺跡として見た場合、南側の畑と山林の部分付近については大きく現状変更されていない模様です。
 なお、この資料によれば「南北方向」に長さ50mほどの溝跡が確認され、「遺構の概観」として「周辺の菅谷館、杉山城、越畑城などの存在からこれらの館城跡と有機的な関連のある施設の一部である可能性が強い」と記されています。
 また現在高速道路となっている個所には従来には標高75mほどの独立丘陵が存在し、高速道路の位置とほぼ並行する形で堀跡が存在していた模様です。

確認できる遺構
なし
文化財指定
訪城年月日
2006/12/11
訪城の記録 記念撮影

( 2006/12/11 )
遺跡とはいっても高速道路にて
 一応「中郷遺跡」という名称で「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)にも収録されている「遺構」ではあります。 しかし、関越自動車道の建設に伴う発掘調査等により中世と推定される「堀跡」が確認されているようです。 然し、越畑城と同様に現在は丘陵地帯がものの見事に南北に分断されているために元の地形が非常に分かりにくくなっています。
 辛うじて八宮神社の佇まいや北側の鎮守の森などに中世当時の面影や遺構との関連性を無理やり思い浮かべるというのが現状のようです。 それでも念のため、神社の北側の竹林に突入開始し、膝を竹の切り株にぶつけて痛みをこらえながら、関越自動車道のフェンス際まで100mほど北進。 雨水の流路のような自然地形の凹凸は確認できるものの、予想通り人工的な気配は殆ど感じられませんでした。
 この際、遺構からは外れるものの、更に歩道橋をわたって北側の丘陵地帯にも進出。 然し中世の板碑の破片を祀っている地元の民家の方の墓地や人気のないため池などが山中に散在するのみで、当然ながら歴史的背景を備えた人工的な地形改変の様子には全く遭遇せず。 また、この地域の特徴的な植生して篠竹の藪の密生状態が半端ではなく、1m先が見通せない個所も所在しています。
 さて、八宮神社の北東、北西に一応は幅約2間、深さ80cmほどの溝跡が現存しておりますが...然しどう見ても、北側の竹林から流れてくる雨水の排水
施設という感触がありありと窺がえたのでありました。

 北西側から眺めた歴史の古さを感じる「八宮神社北側の鎮守の森」で、手前の畑の傾斜地が中郷遺跡(縄文中期との複合遺跡)の南端部分に相当するようです。
                     ( 2006/12/11 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
■1■明るい沼池 画像クリックで拡大
 関越自動車道西側の側道沿いに所在する沼池ですが、近くに人家もなく具体的な名称は不勉強かつ未調査のため不明。 西側に向かって開けた谷の奥に所在しているので、「6」の画像の沼池とは好対照でありました。
 なお、この関越自動車道の側道は僅かにすれ違いのための場所があるものの、元来幅員が3mほどしかないので急に対向車が来たときには正面衝突するか、この沼に落ちるかの二者択一...
■2■「百体庚申塔」
 近世に流行した庚申講によるものと思われますが、それほど古い時代のものではないようです。
 念のため数量を数えてみましたが、100以上は所在しているようです。 建立の由来については、中央の大きな石碑に記されている模様ですが、見づらいことに加えて、読めない、意味が分からない...(汗)
■3■「八宮神社」
 「新編武蔵風土記稿」の「廣野村」の記述によれば村の鎮守とされていたことが記されています。 明治末期の合祀によるものと思われますが、境内社として「榛名神社」「琴平神社」も併設されておりました。 本殿は平成9年3月に再建されたもの。
 一見すると高さ2.5mほどの土塁のように見えたりしますので、丘陵先端部分の高台に所在していることもあり、如何にも期待が持てるのであります。 然し境内の広さは南側に民家が所在しているために参道の長さに比べてさほどの広さがありませんでした。
画像クリックで拡大します
■4■境内北側の溝跡 画像クリックで拡大
 幅約1間、深さ0.8m、長さ約30mほどの規模の溝が所在しています。 画像の左側の方が高くなっているため雨水を排水する目的で普請されていることは疑いのない事実であります。 然し何時の頃からのものということになると神社の縁起次第のため、詳細については分かりかねるのでありました。
 祭神は「碑文」によると「建速須佐之男命」(たけはやすさのおのみこと、スサノオノ命)「奇稲田姫命」(くしなだひめのみこと、稲田姫命)「大己貴命」(おおなむちのみこと、大国主命)とされ、その起源は平将門の時代に遡及するとのこと。
■5■境内西側の排水路兼畑の根切り溝
 溝の幅は約1間、深さ1m、長さは50m近くありますが、いずれにしても神社の普請に伴う雨水の排水と神社側からの樹木の根の張り出しを抑止する畑の根切りに伴う地形であると考えられます。
画像クリックで拡大します
■6■暗い人気のない沼 画像クリックで拡大
 関越自動車道の北側に分断された丘陵地帯に所在していますが、東側は思いのほかの急斜面で谷底までの比高差も20m以上ありました。 この画像の沼池は尾根筋近くの西側に所在していますが、近くには地元の方の墓地が点在し、晴天の昼間でも殆ど人気がありません。 あとから調べた所では実際にはこの沼の西側100m程の所には地元の方の民家が所在しているようです。 然し、夕方以降には余り接近してはいけないという厳粛なオーラを感じてしまいました。
■7■年代不詳の板碑
 帰りがけに畑の端の杉の根元に祀られていたもので、ある意味では神社よりも中世の面影を辿ることができる存在でありました。乏しい知識を辿ってみると、おそらく主尊は阿弥陀如来(キリーク)のようですが、全体の3分1程度の大きさしか残存していないためにそれ以上の詳しいことは何とも分かりませんでした。
 
■8■「杉山城」は指呼の間
 画像右側の送電線の鉄塔の後ろ側の小山の辺りが、かの有名な「杉山城」かと思われます。その距離は西方約900mほど。
  市野川と粕川に挟まれた地帯には、標高100m前後の酷似した細長い丘陵地帯が延々と5km以上も続いているため、小川町の「高見城」などとは異なり必ずしもそれほど目立つ地形をしているという印象がありません。 この地に杉山城が築城された背景には、案外そうした外形的な地形の平凡さにあるのかも知れません。
交通案内

・嵐山町廣野の八宮神社付近。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 遺構に関する記述は一切ありません。
■武蔵志
 同上。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「関越自動車道関係 埋蔵文化財発掘調査報告書XII−中郷−」(1982/埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第13集)
「嵐山町の板碑塔婆」(1990/嵐山町教育委員会) 

・2007/01/30 HPアップ
・2007/01/31 「発掘調査報告書」等の関連事項を追記

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