( 2006/12/11 )
凸平場、切岸、V字地形の大規模な溝
「越畑城」「中郷遺跡」などと同様に本来はひとつの丘陵地帯が関越自動車道の建設により南北に分断された地域です。 このため従来の地形の把握が難しいところ。 丘陵の山頂部分には地元の民家の方の墓地が4か所ほど点在。 北側は例によって篠竹の密生地のため、地表の形状確認が困難。
そうした中、一見した所では明らかに人為的な地形としか表現のしようのない「竪堀」「平場」「切岸」らしき地形が所在。 然し高さ1mから2mほどの「切岸」は恐らく畑の開墾に伴うものやも知れず。 また、15m×20mほどの中腹の「平場」はかつての墓地跡、神社跡などである可能性も。 しかしV字型をした「竪堀」状の地形だけは、墓参のための道にしてはどうにも説明の付かない異様な地形を呈しておりました。
帰りがけに篠竹の密生地のため進入できなかった部分を関越自動車道の側道彷徨からアプローチ。 ここで、1mほどの深さの「堀跡」を確認。 しかし、どう見ても関越道の完成以降に、湧水取り入れための比較的新ししく普請された溝という印象です。 雑草が繁殖する季節に訪れると、間違いなく転落することは必定にて(汗)
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麓の民家からの墓参のための道にしてはどうも里道としては余りに切込みが深すぎるような印象があり、規模は幅約2間、深さ2mから3mという規模で
15mほどの長さで墓地へと続いておりました。 ( 2006/12/11 撮影 )
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■1■比高差15mほどの丘陵
北東方向で関越自動車道により分断されています。 また北側の半分はこの地域特有の篠竹の藪により地表の形状を確認することができませんでした。 水田面との比高差は更に2mほどの違いがあります。
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■2■「腰郭跡」ではない平場
左手の1mほど高くなった個所に屋敷神としての「稲荷社」の小祠が祀られておりました。 してみると、この幅約20m、奥行き15mほどの中腹の平坦地の役割が理解しかねます。 かつてはもう少し規模の大きな小社や堂宇が所在したのか、或いはご当主を隠居された方のお住まいなどが所在していたのか。
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■3■麓の民家への急な下り坂
この道を使用しているお宅は恐らく1、2軒のようで普段は余り通行しているという形跡が見られず、岡の上から薄暗い谷底に下りていくという印象があります。
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■4■「切岸」のように見えてしまう畑の開墾
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手前の畑を開墾するために斜面を削平したことによる段差であると思われますが、何処とはなく斜面の「切岸」に見えてしまうところが既に「病的」なのでありましょう。
規模としては高さ1mから1.5mで長さは約40mほどというところでありましたが、一部は畑ではないような個所まで続いているのが些か気になるのであります。
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■5■新しい堀跡が...
関越自動車道脇のゲートボール場の近くにて、1mほどの深さの「堀跡」を確認。 しかし、どう見ても関越道の完成以降に、湧水取り入れための比較的新ししく普請された溝という印象です。 雑草が繁茂する季節に訪れると、間違いなく転落する恐れは必定。
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・関越自動車道の西側の比高差15mほどの丘陵地帯。
・いつもガイド の案内図です
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)
・2007/01/29 HPアップ
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