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関連ページへのリンク  2006/09/04のブログ 中山陣屋 道祖土氏館 西光寺の塚越城 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象4 総合28
所在地
埼玉県比企郡川島町中山1198付近
歴史と沿革

鎌倉初期の名族比企氏の後裔とされるが
 この館跡は鎌倉初期に2代将軍頼家の外戚として比企・入間・高麗の3郡を領し大きな勢力を誇った比企氏判官藤四郎能員の後裔の居館とされています。能員は北条時政らとの権力闘争に完全に敗北し、歴史の表舞台からその姿を消失します。(「比企氏の乱」-建仁3年/1203)
 「比企氏系図」(「藤原姓比企氏系図」「寛政重修家譜」「埼玉叢書所収の藤原姓比企氏系図」)によれば能員の一子である比企次郎員茂は岩殿観音堂の別当の子として養育された後に北面の武士となり、承久の乱(1221)で敗れた順徳院の配流に従い佐渡へわたったとされています。また、その子員長の時に密かに越後よりこの比企郡に居住...その後、数代を経て義次の時に鎌倉公方に仕えたとされていますが、それらの事跡を傍証する史料は他に見当たらない模様です。

岩付太田氏、松山上田氏の家臣 
 いずれにしても、その後戦国時代に入りその後裔とされる比企左馬助政員とその子左馬助則員は、岩付城主太田資正松山城主上田憲定に仕えて永禄4年(1561)には、坂戸の西光寺の所領等を安堵され川島、吉見地域を勢力範囲とする比企郡代となったとされています。(「太田資正書状写」武州文書より) 
 けれども当寺勢力を伸ばしつつある後北条氏の所領と隣接していることから、実際にどれほどの影響力を有していたのかについては不明のようです。また、天正15年(1587)と推定される「上田憲定の印判状写(武州文書より)」に示された軍役では、「小旗1本、鑓1本、馬上1騎(本人)」と少人数の着到が示されています。このことから見る限りは、この時点における領主としての勢力は概ね道祖土氏と同規模の階層とも想定されます。
 なお、「小田原衆所領役帳」には「小田原衆 大草加賀守」の所領として「比企郡中山70貫文」と記されていますが、合計391貫文の所領を有するとされる大草加賀守についての事跡は不明のようです。

徳川家の旗本として一時は大番組頭に 
 なお、比企左馬助則員は慶長6年(1601)結城秀康に仕えたものの病のため比企郡中山に屏居。また、その子である次左衛門義久は春日下総守景定らの推挙により徳川家に仕え、次の藤右衛門重員の代には徳川秀忠に仕えて悉地4百石の大番(旗本)となったとされています。なお、次の久員の代に大番組頭まで栄達したものの、元禄9年(1696)に子稚久の代に故あって改易となり、その後比企氏の子孫は比企郡中山の地に蟄居し土着したとされています。
「比企氏系図」(「藤原姓比企氏系図」「寛政重修家譜」「埼玉叢書所収の藤原姓比企氏系図」より ⇒ 何れも「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)に収録)

確認できる遺構
空堀か
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

館跡としての範囲は..
 中山陣屋の東側に所在する金剛寺周辺の自然堤防上の微高地が「比企氏館」の跡とされています。しかし、その後に頻発したと考えられる水害や耕地整理などを視野に入れると、現在の金剛寺を取巻いている道路の区画の範囲内であることはある程度は想定できますが、現状の地形から比企氏館としての範囲を明確に特定するのは些か無理がありそうに思われます。
 また、近世の中期に置かれたとされる山形藩主秋元氏の「中山陣屋」との距離が僅か200mほどと非常に接近していることから、ことによると相互に関連しているような可能性も考えられますが、勿論憶測の域を出るものではありません。

 

文化財指定
訪城年月日
2006/09/04
訪城の記録 記念撮影

( 2006/09/04)
空堀跡状の地形
 中山陣屋の東側に所在する金剛寺周辺の自然堤防上の微高地が「比企氏館」の跡とされています。鎌倉初期に2代将軍頼家の外戚として大きな勢力を誇った比企氏の後裔の館跡とされ、その後戦国時代の比企左馬助政員は、岩付城主太田資正などに仕えて坂戸の西光寺の所領等を安堵され比企郡代となったとされています。
さて、境内の東側には比企氏一族の近世以降の立派な宝篋印塔などが建立されて、加えて墓所の手前には空堀跡とも見えなくもないような深さ1.5m、幅2間、延長30メートルほどの溝も明確に残されていました。
 この「遺構」については堀跡といえば確かに堀跡には違いないのですが、中世城館としての遺構の一部かどうかについてはややその判断に迷うところです。 その規模や配置などから考えると、頻発した越辺川の洪水などの水害から先祖の墓所を守るための溝跡のようなものにも見えてしまうのですが。
 しかし、鐘楼などの建立に際して寄付をされた方々の名前が刻まれた石碑に「比企○○」の姓を拝見したときには思わず、その歴史的な系譜の存在に対して率直に尊敬の念を懐いてしまうのでありました。

クリックで南側の画像へ
比企氏一族の墓地手前の空堀跡状の地形
( 2006/09/04 撮影 )


( 2006/11/07)
北側の空堀跡
 「左馬助殿」のブログサイトを拝見していたところ、北側の堀跡状の溝が未確認であったことに気づき再訪した次第。 中央付近でやや屈曲し規模は現状で幅約1間、深さ0.8mから1.2mで総延長は70mほどかと。 現状の堀幅から推定すると、恐らく以前は道路部分も堀跡であった可能性もありそうです。 しかし比企氏の墓域を取り巻く様子にも見え、その遺構としての時代背景がとても気にかかるのでありますが。
 改めて館跡の範囲を想定してみると、北側に所在する住宅地を含む不整形の多角形のようにも思えなくもないような。金剛寺南側の細く湾曲した公道が堀跡だと仮定すると正泉寺の南側を抜けて上記の中山陣屋南東側の堀跡状の地形に接続していることとなり..と何時もの如く妄想は果てしなく広がっていくのでありました。


北側の道路沿いに所在する空堀状の地形 画像クリックで拡大します
北側の道路沿いに所在する空堀状地形
( 2006/11/07 撮影 )

訪城アルバム
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■1■金剛寺 画像クリックで寺院などの現地解説板へ
 戦国時代の比企氏館跡と推定される地に所在し、正式名称は「真言宗智山派清月山元光院金剛寺」で、天正年間に比企藤四郎左馬助則員が中興したとされています。なお、則員の父にあたる比企藤一郎左馬助政員の法名が「清月金剛大禅定門」であることから、当寺の実質的な開基であるとも思われます。また大日堂の解説板の通り則員の法名は「正徳元光大禅定門」ですので、この二人の法名を合わせるとそのまま金剛寺の名称となります。
■2■本堂大改修の記念碑
 明らかに比企氏の後裔の方と思しきお名前も4名ほどいらっしゃるようで、何種類か現存する比企氏系図の内「藤原姓比企氏」の家譜を所蔵されている方のお名前も記されていました。
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■3■大日堂 画像クリックで現地解説板へ
 近世以降に再建されたもののようですが、本来は比企氏一族の位牌堂(持仏堂)と云うことのようです。
 勿論当時は茅葺屋根の簡易な堂宇のようなものであったかもしれませんが、戦国時代の比企氏がこの地に居住した時以来の姿を伝えているような雰囲気が遺されていました。
画像クリックで角度を変えて拡大します
■4■比企氏の墓所 画像クリックで拡大
 戦国時代以降の比企氏一族の宝篋印塔を含む墓所で、この手前に「記念撮影」画像に示した見事な堀跡状の地形が残されています。しかし、頻発した越辺川の洪水などの災害から墓所を守るための溝跡(排水路)のようなものにも見えてしまうので、その配置や規模の問題も含めて単純に中世城館の空堀遺構と結論付けるのには些かの疑問が残るようにも思われました。
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■5■比企氏墓所の遠景 画像クリックで拡大
 東側の用水路(できれば希望的観測として水堀)が、それらしい水田との区画を示しています。このため概ね館跡の東端という印象もあり、恐らくはこの公道自体もかつての堀跡ではないかなどと何時ものように果てしない妄想が広がっていく幸せなひと時なのでありました。
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■6■盛りを過ぎ始めた黄花秋桜 画像クリックで拡大
 梅雨時から開花し始めるキバナコスモスは、他のコスモスたちが百花繚乱の如く咲き始める頃になると、次第に姿を消し始めてやがては枯れていきます。恰も余りにも早く下克上の時代に先駆けて登場した「長尾景春」の生涯を思い浮かべてしまいました。「長尾景春の乱」は扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌に鎮圧されたものの、そののちも後北条氏や越後長尾氏と連携してしぶとく関東の戦国の世を歴史を生き抜いた姿は賞賛に値するものがあると密かに尊崇している次第なのであります。
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■7■普通のコスモス 画像クリックで拡大
 これからが本番の秋咲きのコスモスは元気一杯に秋風にそよいでいました。一面な咲き乱れる色とりどりに群生するコスモス畑も華やかな賑わいがありますが、道端に零れ落ちた種から生育した数本のコスモスにもまた別の味わいを感じる年齢となりました。
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■8■「比企氏館」の付近の道端に咲いていた「モミジアオイ」
 やや花の盛りは明らかに過ぎ去っています。このため真紅の花びらがものの哀れを感じさせるとともに、何処と無く毒々しささえも伝わってくるような印象です。「花の色は移りにけりな..」と和歌に歌われる如く、誰とはいわないまでも何処か人間にも当てはまる姿のような... 画像クリックで拡大
比企氏館の遠景
■9■「比企氏館」東側からの遠景
 前回は遠景を撮影し忘れたこともあり東側の水田地帯から撮影したもので、水田面と比較した場合に僅かながら微高地としての地形を確認することができました。             (2006/11/07 撮影)
交通案内

・真言宗元光院金剛寺周辺
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 基本的な記述はその殆どが、「吾妻鏡」「比企氏系図」「太田資正書状写」などからの引用であると考えられます。
■武蔵志
 比企能員、則員の事跡が僅かに略述されているのみです。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町) 

・2006/11/04 HPアップ
・2006/11/05 記述一部追加。
・2006/12/09 堀跡の画像と説明の追加。

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