2006/09/04のブログ 秋元氏陣屋 深谷城 | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県比企郡川島町中山1333 | |
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空堀風の用水路、畦堀風の空堀 | |
周辺の地理的特徴 |
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無 | |
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2006/09/04 |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿 比企郡中山村の項に「小屋場 村の中ほどにあり、明和5年(1767)領主但馬守(秋元涼朝 1717-1775)が川越城より、出羽国山形城へ移りし時、當所川島領の内5千石の地は、元の如く賜いしをもって、此所に小屋場(現代の一般的な粗末な小屋を指すのではなく、大名屋敷などに置かれた藩士の住居のような意か)を作りて、土地の役にあたるものを置いて、税務を沙汰せしむと云う」と記され、飛び地となったこの川島領を支配するために秋元氏の近世陣屋がおかれていたことが記されています。 ただしやや気になる点は、「新編武蔵風土記稿」( 文化7年(1810)-文政11年(1828)の間に調査・編纂され、天保元年(1830)に幕府に進上 )が編纂されていた時点では、未だ秋元氏による陣屋としての支配が継続している筈であるのに、「今に至りて..」などの文言の無いことなどから何処と無く過去形のような印象があることです。 ■武蔵志 中山村の項に「秋元但州収納所アリ、松山へ一里半、鴻巣へ三里、川越へ一里半」との記述があり、その所在地の凡その正確さとともに「武蔵志」の編纂された享和2年(1802)以前の寛政期頃(1789-1801)にはこの陣屋が存在し機能していたことが傍証されています。 ■遊歴雑記(津田大浄/著) 文化11年(1814)から文政12年(1829)にかけて織田信長の甥にあたる津田隼人正を先祖とする浄土真宗の僧侶津田大浄により記された「遊歴雑記」によれば、「比企郡中山村茶店の飼熊」の項に「武州比企郡中山村ハ秋元左衛門尉陣屋の西壱町にあり..」と記されています。この部分は「埼玉県史 資料編10近世1地誌」の解題によれば、文化12年(1815)から文政2年(1819)の間に執筆されたと推定されますので、この記述を信頼する限りにおいては少なくともこの時期までは「陣屋」として存続していたことも確認できます。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県) 「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県) 「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町) 「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町) 「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)・「川島町の板碑」(1999/川島町) ・2006/10/29 HPアップ |
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