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関連ページへのリンク  2006/09/04のブログ 秋元氏陣屋 深谷城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯4 印象3 総合28
所在地
埼玉県比企郡川島町中山1333
歴史と沿革

近世秋元氏の陣屋址..しかし
 第4代の秋元家の第4代の川越藩主である秋元但馬守涼朝(小和田哲男氏によれば凉朝(すけとも)としている)が明和4年(1767)9月に出羽国山形藩に移封された後も、川島領に約6千石の飛び地の所領を有していたことから、その支配のために中山の地に陣屋がおかれたとされています。陣屋は川越藩主の出羽国庄内藩への移封の不成立などにより天保12年(1841)松平大和守の領地となるまでの間75年間存続したことになります。しかし、「新編武蔵風土記稿」では「陣屋」とは呼称せずに「小屋場」との表現をしていることから、領地支配の陣屋としての実態がいまひとつ不明確な印象が拭えないとともに、陣屋として存続していた期間にも別途検討の余地があるのかも知れません。なお、「川島郷土史」(大正15年刊行)によれば、「秋元陣屋」(中山御小屋場)と称されています
 またさらに戦国時代、岩付太田氏の家臣とされる鎌倉の名族の後裔とされる比企左馬助館跡の推定地が近接していることもあり、そのあたりの地名や遺構などが錯綜しているような可能性も無きにしも非ずとも考えられます。この越辺川の恒常的な氾濫に悩まされた地域では、館あるいは陣屋とすべき地理的条件を満たす候補地は、そう何か所も存在するようなことは考えにくいものがあります。従ってあくまでも無論裏付のない憶測に過ぎませんが、この近世と中世の城館跡の所在地が部分的に密接に関連していた可能性も一概に否定できないように思われました。

戦国時代の秋元氏
 戦国時代の深谷城に秋元郭の名を残す深谷上杉氏の重臣であった秋元氏はも天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻に対して速やかに開城をすすめ、その戦火から郷土を守った英傑と評価されています。主家である深谷上杉氏が滅亡した後に当主である秋元長朝は徳川家に仕えて、関ヶ原合戦時には上杉景勝の帰降に貢献するなどを評価され上野総社1万石の大名へと出世。 その後、秋元氏の子孫は異例ともいうべき移封・加封を重ねて長朝から4代目の喬知(秋元家初代川越藩主)、7代目涼朝は老中に列するなど幕閣の要職をつとめ、途中他家との養子縁組もありましたが秋元氏の家名そのものは最終的に上野館林で6万石の中堅大名として幕末まで続きました。

確認できる遺構
空堀風の用水路、畦堀風の空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

大規模な自然堤防上に立地
 「川島町の地名」(1999/川島町)によれば、中山地区は北西約1km地点に都幾川と越辺川の合流が存在することによる大規模な自然堤防を形成し、河川に近い低地から眺めた場合に小高い丘陵のような地形に見えたことからその名が付いたとされています。近世以降の新田開発、用水路の整備などにより堀跡と用水路の判別が難しく、関連する遺構が存在するか否かについては何ともいい難いものがあります。
 「中山営址碑」に刻まれた碑文によれば、陣屋の規模は東西約108メートル、南北約90メートル(ほぼ中山小学校の敷地に相当する規模)で、土塁を構え、堀をめぐらし米蔵、牢獄も備え郡宰以下若干の武士を置いたと記されています。しかし、秋元氏の川島領の石高(3万石)についての記述など若干疑問の余地もあり、遥か後世の近代に造立されたものであることから、後裔の当主の手によるものとはいえどの辺りまでを歴史的事実として信頼すべきなのか些か判断に苦しみます。

文化財指定
訪城年月日
2006/09/04
訪城の記録 記念撮影

( 2006/09/04)
陣屋跡の範囲がいまひとつ不明
 中山地区の中山小学校の校庭付近が川越藩から出羽山形藩へ移封後もこの地域に6千石の所領を有していた秋元氏陣屋跡とされているようです。 校庭の周囲を一周半した限りでは陣屋址に関連しそうな堀跡などの遺構の形跡は皆無に近いような状態。 それでも北側の道路沿いの校庭の隅には、大正期に建立された「陣屋址」の石碑が所在。
 尤も道路沿いとはいえ学校の正門の内側なので、一礼して敷地内に入ったのちに速やかに碑文を斜め読みしてデジカメで撮影後に即座に退散。 おりしもタイミングよく「怪しい人を見かけたら、警察や役場に連絡してください」という例の防災無線放送が流れているのでありました。
 さらに、小学校敷地の西側の戦没者の慰霊碑付近にも、見かけは実に侘しげな恐らくかつては「秋元陣屋跡」と記されていたと推定される文化財標柱を発見。 あらかじめ何と記されているのかを知らないとまず読めそうもない、風化の進んだそれ自体が文化財といっても過言ではないような木製の標柱。 長年の風雨に晒され朽ち果てる寸前の、まさしく「侘寂」の世界を垣間見たような風合いでした。


クリックで拡大します
東側から見た陣屋跡の中山小学校

 この屋敷林脇の幅約2間、深さ約1mほどの水路( 用水路、畦堀、屋敷の構堀などの公算も大 )が、曲がり具合、位置関係など何処となくかつての堀跡のように見えてきたりするので何時もながら現地にて暫し困惑...また、この辺りが地形や道路の形状から判断して概ね陣屋跡の東の外れであるような漠然とした印象を持ったのですが、無論明確な根拠など持ち合わせているはずもありません。また、中郭などの地名は更に東側の正泉寺、金剛寺辺りまでを含むようなので、果して一体どの辺りまでが中山陣屋なのかが次第に分からなくなってきました。     ( 2006/09/04 撮影 )

訪城アルバム
画像クリックでどことなく堀跡風の景色へ
■1■画像クリックで趣のある用水路の画像へ
 中山小学校の南側に所在するスーパーの駐車場に車を停めさせていただく関係上、店内にて特売で78円のペットボトルのお茶を2本購入し陣屋跡とされる中山小学校へ。
 途中には用水路にしては趣のある個所も所在し、南西側の堀跡だったのかも..などと勝手な憶測を。通常、明治期に作成されているはずの絵図などが閲覧できれば、陣屋跡の範囲を特定する上で多少の手掛りにはなるかもしれないのですが..
■2■中山小学校の正門(小字上郭)
 学校の敷地内に入ることさえ憚られる昨今。デジカメを首から下げて資料用の書類挟みを所持した姿は、今や世間の常識からは「怪しい人」の部類に入ることは必定。「3」の画像の「中山営址碑」の所在地は校庭の中なので、校門にてお邪魔致しますと声に出し、お辞儀をしてから拝見。周辺は道路も狭く路駐は危険なのでくれぐれもご注意を。なお、斜向かいには中山公民館が所在しており、短時間ならばその駐車場の片隅にでも停めさせていただくのが無難のようです。
■3■中山営址碑
 大正10年(1921)に建立された石碑で<中山陣屋についての由来が記されていますが、現地では光線や経年の劣化のためやや読みづらくなっていることとあわせて、ちらりと一瞥しただけでは小生の貧弱な国語能力では半分も理解できず。当時の秋元家当主である秋元春朝子爵の撰書と刻まれています。 
■4■天神社
 陣屋跡から見て概ね北東の鬼門の方位に所在していますが、何時もながらその相互関係については今のところ不勉強と資料不足のため不明なのであります。明治時代の末年に神社の合祀が国策として強行されたために、本来の所在地や社名などの由来が分かり辛く..
■5■天神社東側の水路
 この水路が上記の「記念写真」の水路へと続いていますが、だからといってこの地形が直接的に堀跡に関連する存在であるとは考えにくく、あくまでもメモ代わりに撮影しておいたまでのことであります。
画像クリックで拡大します
■6■文化財標柱が「文化財」 画像クリックで拡大
 小学校敷地西側の戦没者慰霊碑付近に所在していた、かつては「秋元陣屋跡」と記されていたと推定される文化財標柱。 あらかじめ何と記されているのかを知らないとまず読めそうもない、風化の進んだそれ自体が文化財といっても過言ではないような木製の標柱で、朽ち果てる寸前の、まさしく「侘寂」の世界を垣間見たような風合いでした。 デジカメで撮影してきた画像を拡大して、念入りによくよく観察すると「秋元陣屋跡」と記されておりました。
■7■陣屋跡の東側に所在する天台宗正泉寺
 この辺りまで陣屋の範囲であったのかどうかについては知る由もありませんが、「中郭」との小字名が残されていることから関連している可能性も無きにしも非ず..と、いうことで記念撮影してみた迄のことです。「中丸」ではなく「中郭」と呼ぶところが、何となく中世的な印象を抱かせます。 なお同所に所在する「観音堂」は、現在でも熱心な信仰を集めている模様でした。
画像クリックで拡大します
■8■陣屋跡東側の用水路(堀跡)遺構 画像クリックで拡大
 近世以降の「構堀跡」か「畔堀」とも想定。 時代背景は不詳であるものの、気になる堀跡風の地形なので再訪した次第。幅は広いところでは約2間、深さ1mくらい。東側部分の延長距離は目測でおよそ80mほどかと判断。部分的に湾曲しながら北側の用水路に接続し堀跡そのものは工場などを含む宅地を取り囲むように西方へと続いて消滅している模様。「中山陣屋」「比企氏館」などに関連するものか、当地の屋敷の構堀なのかは何とも判断がつきません。  
(2006/11/07 再訪)
交通案内

・比企郡川島町立中山小学校およびその周辺
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡中山村の項に「小屋場 村の中ほどにあり、明和5年(1767)領主但馬守(秋元涼朝 1717-1775)が川越城より、出羽国山形城へ移りし時、當所川島領の内5千石の地は、元の如く賜いしをもって、此所に小屋場(現代の一般的な粗末な小屋を指すのではなく、大名屋敷などに置かれた藩士の住居のような意か)を作りて、土地の役にあたるものを置いて、税務を沙汰せしむと云う」と記され、飛び地となったこの川島領を支配するために秋元氏の近世陣屋がおかれていたことが記されています。
 ただしやや気になる点は、「新編武蔵風土記稿」( 文化7年(1810)-文政11年(1828)の間に調査・編纂され、天保元年(1830)に幕府に進上 )が編纂されていた時点では、未だ秋元氏による陣屋としての支配が継続している筈であるのに、「今に至りて..」などの文言の無いことなどから何処と無く過去形のような印象があることです。
■武蔵志
 中山村の項に「秋元但州収納所アリ、松山へ一里半、鴻巣へ三里、川越へ一里半」との記述があり、その所在地の凡その正確さとともに「武蔵志」の編纂された享和2年(1802)以前の寛政期頃(1789-1801)にはこの陣屋が存在し機能していたことが傍証されています。

■遊歴雑記(津田大浄/著) 
 文化11年(1814)から文政12年(1829)にかけて織田信長の甥にあたる津田隼人正を先祖とする浄土真宗の僧侶津田大浄により記された「遊歴雑記」によれば、「比企郡中山村茶店の飼熊」の項に「武州比企郡中山村ハ秋元左衛門尉陣屋の西壱町にあり..」と記されています。この部分は「埼玉県史 資料編10近世1地誌」の解題によれば、文化12年(1815)から文政2年(1819)の間に執筆されたと推定されますので、この記述を信頼する限りにおいては少なくともこの時期までは「陣屋」として存続していたことも確認できます。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)・「川島町の板碑」(1999/川島町) 

・2006/10/29 HPアップ
・2006/12/08 画像記述の追加

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