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アクセスありがとうございます。 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
これも一応バナーです
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/05/21のブログ 桜沢氏館 新倉館 新堀屋敷
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合22
所在地
 埼玉県児玉郡美里町阿那志本阿那志557−1
歴史、人物、伝承

後北条氏家臣の土豪階層の館跡か
 年代、歴史的経緯不詳の館跡として「埼玉の中世城館跡」などの報告書に記載されているのみでその詳細は不明です。
 ただし「新編武蔵風土記稿」には「後北条氏の家臣筋にあたる大塚加賀守俊行が阿那志村に居を構えて120貫文を領し、その養子である日向守吉詮が北条氏邦の命により黒沢姓に改め、さらにその子伊右門定勝が館林長尾新五郎の家臣千田源右衛門の実子であり現在千田を氏としている」という記述がみられます。
 仮にこのことがある程度事実であるとするならば、小字名が村の中心地であることを示している事情と合わせて、当然そこに何らかの関連が存在してしかるべきかとも考えられます。しかし一方では堀ノ内と直接結び付けることのできる史料を欠いていますので、あくまでも推測の域を出るものではありません。

確認可能な遺構
 以前は堀跡が所在していたようですが、現在は用水路・暗渠となっているようです。
地理的特徴

二つの河川に挟まれた平地
 北側に小山川、南側を志戸川に挟まれた水田地帯で、自然堤防上の微高地に所在していた模様ですが、現在は農地整備と宅地化によりその景観はほぼ失われています。しかし、県道に並行し南北方向に400mほどの旧道が存在しており、このことから集落としての歴史の古さを僅かに感じ取ることができます。

文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年5月21日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/05/21 )
 本末転倒
 阿那志の交差点の北西に所在する農村公園と旧家一帯が該当地である模様です。「農村公園」には大理石のプレートが設置されており、これによりますと地元の篤志家の方が公園建設のために土地を寄贈された模様です。このため東側の県道31号線よりには児童遊具が置かれ西側の大半はゲートボール場として利用されておりました。
 さて中世の館・屋敷跡としての堀ノ内の残像は何処に。強いて申せば歩道の下の暗渠となった部分及び北側に残る用水路などがその名残なのかもしれません。また、公園の北側の旧家との境にはどことなく由緒ありげな堀跡状の細長い池が所在しておりました。然し、このような現状のためその辺の詳細については何とも判断しかね、かくて訪城(館)数を増やすのが目的のような本末転倒気味の結果になった次第にございます。

阿那志堀ノ内
阿那志堀ノ内
( 2007/05/21 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで、誠に趣のあるバス停の標識へ
画像クリックで推定地北側の用水路の画像へ
凸1南側の堀跡付近(推定) 
 右側の駐車スペースの辺りがだいたい南側の堀跡に相当するものと思われます。なお、道路の微妙な曲り具合については、明らかに右折レーンを設置したことによるものであり、けっして堀跡のカーブであるということはないものと考えます。全く無関係ですが些か鄙びたバス停の標識が実に印象的でありました。(⇒画像クリック)
凸2用地寄贈により建設された公園
 画像クリックで堀ノ内の名称とは直接は関係のなさそうな80メートルほど北側に所在する農業用水路の画像へリンクします。
 このプレートに記された千田家というお宅は、おそらく「新編武蔵風土記稿」に記されている旧家に関連する家系ではないかと思われます。
交通案内

・県道31号線阿那志交差点北西角付近

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古記録・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 児玉郡阿那志村の項には天正17年12月22日の北条氏邦印判状を引用し、「山田屋敷分500貫文を香下源左衛門尉の本領の一部として宛行った」という旨が記されています。ただし、現存する印判状の写しでは「24貫文 本領、500文 阿なしのうち山田および屋敷」と記されていますので「500貫文」の記載については誤植と考えられます。また印判状の写し自体にも本領分の貫高の合計が合わないという事情がありますので、おそらく写し間違いをしているものと考えられます。いずれにしても北条氏邦の家臣である香下源左衛門尉に対して、阿那志の山田あるいは山田屋敷が知行されていたこと自体についてはある程度確かなようです。
 また続いて同稿では上記のとおり「大塚氏−黒沢氏−千田氏の系譜」が記述され、天正18年(1590)の後北条氏滅亡後に千田氏が帰農し、そのままこの地において旧家として代々続いていた事情を窺い知ることができます。
■武蔵志
 集落の概要等を記述したのみで詳細な記述を欠いています。
凸参考・引用資料 (太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)
「埼玉叢書巻2」所収の鉢形北條家臣分限録(国書刊行会より出版された復刻本より)

・2008/01/01 HPアップ
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