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西富田堀ノ内(富田氏館)
関連ページのリンク  2005/06/21の日記  東本庄の館  北堀堀ノ内  栗崎館           
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合23
所在地
埼玉県本庄市大字西富田461付近
歴史と沿革

選択を誤り衰退していった一族
 「武蔵七党系図」などによれば、児玉党の本宗家である武蔵権守・河内権守児玉家行の三男と推定される三郎親家が富田を所領分割され富田氏を名乗ったとされていますので、この西富田の館跡がその居館に相当するようです。しかし「本庄市史」によれば、東冨田にも「堀ノ内」と呼ばれる地域があるとのことです。
 富田親家は鎌倉時代の初め和田義盛の乱において、児玉党の同族の塩谷氏、稲島氏などと共に義盛側につきましたが戦い敗れて囚われの身となります。しかし、「吾妻鏡」建保元年(1213年)では北条義時の面前で「長さ3尺・方7寸(90センチ×21センチ)の大鹿の角を二本まとめて折る」という強力ぶりを発揮して罪を許されたと記されています。
 承久の乱(1221年)では親家の子六郎兵衛尉長家は後鳥羽上皇側について敗死しましたが、一族の富田小太郎近行は宇治川の合戦で活躍しています。その後、「太平記」によれば富田氏は観応の擾乱の正平6年(1351年)駿河薩多山の合戦で足利直義側について敗戦しています。
 また時代は下り、「本庄市史」によればこのあたりは「代官屋敷」とも呼ばれ、今井地区の鈴木氏と同系統とされる鈴木氏が鉢形後北条氏の家臣として居住したともいわれているそうです。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■館跡の100mほど南側を流れる女堀川の北に位置し、当時はその流れを利用した水濠であった可能性があります。遺構としては鈍角に屈曲している部分の堀跡の一部分とその付近の土塁が残されているようですが、このことだけから全体の規模を想像するのは難しいようです。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「本庄通史 Ⅰ」(1989/本庄市)児玉党についての記述が200頁前後に及ぶ。
「本庄通史 Ⅱ」(1989/本庄市)

文化財指定
訪城年月日
2005/06/21
訪城の記録

( 2005/06/21 )
堀跡は残されているようで
 今回、つまり2005年6月21日の訪城というより、館めぐりの中では唯一遺構らしいものが確認できた場所です。とはいえこの季節ですので、叢生する木々の隙間から空堀と土塁らしき高まりを目にすることができたに過ぎませんが。堀は埋め立てられたということですが、外側から拝見しても北側の屈曲しているあたりで、深さ1m幅にして約1間ほどの規模で一部未だ残っているように見えました。
 高さ2mほどの土塁のように見える連続した土の塊上には小さな石祠がありますので、もしかすると近世の塚のようにも見えますが、民家の宅地の北側部分に所在しているので位置的には本庄史氏の通りなので多分間違いないかと思います。また、余談になりますが近くの四方田館にもいってはみたのですが、予想通り草木が叢生し季節的に無理がありました。せめて11月以降でないと内堀の状態が殆どわかりませんので、その時に合わせて再訪するべきかと思いました。

Best Shot?


 手前の路地の微妙な曲がり方も堀跡の形状に伴うもののようです。
 堀跡は大分埋め垂れられたとのことでしたが正面の屋敷林の手前側に深さ1m、少なくとも延長10メートルほどの空堀と高さ2mほどの土塁状の連続した土の塊が確認できました。なお、左手前の部分が平坦地となっていましたので埋められた堀跡かも知れません。
 ( 2005/06/21 撮影 晴 )
交通アクセス

・関越自動車道本庄児玉インターの北西600m、西富田バス停前 MapFan Web の案内図です  

 
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