( 2005/05/07 撮影 )
|
■金窪城への道を示す古い石柱ですが、金窪館址と刻まれているので少し戸惑いますし、そのまま直進していくと忍保川を渡って行き過ぎてしまいます。 この石柱は陽雲寺から600mほど旧中仙道を東に東京方向に戻った場所に建てられていますが、ここまでは戻らずに陽雲寺から300mほど手前の細い道を北側に左折したほうが分かりやすく、そのまま直進すれば城跡のある公園に行き当たります。 ま、早い話しが要するに道を間違えたわけです(^^;
|
|
■金窪城の明確な所在地が分からずに対岸の川沿いから観察していてたらこんな所に神社がありました。社名は「黛神社」ということなのでこの場所の集落の名称がそのまま神社の名称になっているようです。境内に設置されていた説明版によると創建の時期は不明で、祭神は倉稲魂命で八坂神社、豊受神社、六杉神社、諏訪神社を合祀しています。また、この黛の地は江戸時代に三国街道が中仙道から分岐し上野の玉村に向かう渡し場が北部にあり栄えたということですが、有名な神流川の合戦もこの周辺の北方地域で戦われています。 この神社の前のスペースに駐車させていただいて忍保川に架かる小さな橋を渡って徒歩でそれらしい地形の探索に。
|
|
|
■神流川の合戦の前哨戦で滝川一益の軍勢の攻撃により落城したとされる金窪城の伝承が地元のローターリークラブが設置した大きな看板に描かれています。しかし、看板と現地の地形、遺構、雰囲気の落差が大きく、看板の絵も長年の風雨に劣化し、色も褪めて事実関係も含めて歴史の彼方へ消えていくようです...変わらないのは看板の絵の背景にも描かれている赤城山の山容が、当日もはるか遠く北の方向に霞んで見えていることだけでした。 |
|
■何故か説明版がいくつもあって、遺構の少ない割には多すぎるようにも思えました。 けっして説明版が曲がっているというわけではなく、どうやら撮影した自分の位置が斜めになっていたようです。 |
|
|
■唯一土塁だとはっきりと分かる遺構が所在する城跡の中心と推定されている一角には、説明版や標柱や石碑が所狭しと並んでいます。 |
|
■こちらの説明版の方が年季が入っていますが、記載されている内容は大差ありません。 |
|
|
■金窪城唯一の土塁跡。かつてはほかにも遺構が確認できたようですが、現在はっきりと目にすることができるのはこの高さ1.5mほどの土塁だけのようでした。工事用の足場パイプで囲まれていますので、土塁と直接触れ合うことはできません(^^; |
|
■城跡の説明版などの北側に所在する金窪城址公園。立派な名称が付けられてますが、公園内は殆ど平坦地でやや肩透かしを食います。 |
|
|
■土塁の残るこの一角に標柱、説明版が集中しています。白い説明板の奥に土塁が所在しています。 |
|
■先ほどのパイプに囲まれた土塁が90度東に折れて、この道路沿いの東西に伸びる部分に繋がっていますが、こちらについては見過ごしてしまいそうです。 |
|
|
■金窪城の復元された櫓...ではなくて、大分以前に流行した少しくたびれかけたフィールドアスレチックの遊具。 |
|
■に架かる橋の上から金窪城の北側の守りとなっている忍保川を西側から撮影したもの。 当時の地形とはかなり異なっているにしても、天然の要害というには余りにも小さな流れではないのかという印象です。城跡の東西にも堀代わりの水路がありますが、こちらは更にもっと小規模なものでとても要害とはいえません。 |
|