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金窪城(太瑯城)
関連ページのリンク  2005/05/07の日記  雉岡城  金窪南城  武田信俊館           
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ3 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合24
所在地
埼玉県児玉郡上里町大字金久保字内出1570ほか
歴史と沿革

■別名を太瑯城あるいは金窪館ともいう。
 治承年間に武蔵七党丹党加治家治が築いたとの伝承があり、その後、元弘年間に新田義貞が修築し重臣の畑時能に守らせたと伝えられている。
 また、「新編武蔵風土記稿」の記述によれば同じ元弘の頃、新田義貞の家臣長濱六郎左衛門の居城とも伝えられ、その後戦国時代の末期に、旧山内上杉家臣の斉藤摂津守定盛が北条氏に属して在城していたが天正10年(1582年)6月18日の神流川の合戦の前哨戦で滝川一益方の攻撃を受け落城したといわれている。また、金窪城はこの落城後に廃城となったととも伝えられ、江戸時代の末期には空堀、土手および外回りの堀などが少し残されていたという。
 なお、家康の関東入国後の天正19年に、比企郡横田村・賀美郡金窪村を計1618石で知行された武田信玄の甥にあたる旗本川窪信俊(武田信俊)の陣屋となったが、寛永2年(1625年)頃に江戸大番町に転居し陣屋も廃された。

■神流川の合戦
 天正10年6月18・19日の両日にわたり武蔵と上野の国境の神流川周辺で戦われた合戦で、別名を「金窪原の戦い」という。天正10年3月11日に武田勝頼が甲斐天目山で敗死ししたのち、織田信長の重臣伊勢長島城主滝川一益は信濃・上野の領国支配を任され関東管領として上野の箕輪城、厩橋城に本拠を置いた。
 しかし、同年6月2日明智光秀の謀反により、領国経営のスタート段階で織田信長父子が殺害され、畿内より遠く離れた北関東の地で窮地に陥った。武田氏の滅亡により上野の支配を目指していた後北条氏はこの機会に乗じて上野への侵攻を図り国境のこの地での合戦が発生した。
 前日の18日の段階では滝川一益は北条氏邦の軍勢を破ったものの、北条氏直軍の到着により形勢は逆転し北条方の勝利とな。この後、滝川一益は少数の家臣たちと共に本領の伊勢長島に戻るが、かつての織田家の重臣としての立場は失われ秀吉との抗争にも破れ、織田家の後継者争いにも主導的な立場をとることなく天正14年(1586年)隠居先の越前国大野で死去する。
 この合戦により上野は数年の間、後北条氏の支配下に置かれるが、まさにこの時期が後北条氏の領土拡張の最盛期であり、庇護者の定まらない真田家の領地が沼田に残されたことが秀吉の関東侵攻の遠因となり、後北条氏は8年後の天正18年に滅亡することとなる。なお、神流川の合戦のについての経過や古文書・記録等の資料についての解説は「上里町史 通史編上巻」(1996/上里町)に詳しく記述されている。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■北側を利根川の支流の忍保川、東西を更にその支流で囲まれた北向きに緩い傾斜がかかる地理的条件を有するものの、現在の地形からは決して天然の要害と呼べるほどの規模の河川ではなく、南側に至っては自然の地形を生かすような要素は何も存在していない。
 旧中仙道<を挟んで南西600mに金窪南城が存在しており、金窪城南側の備えの弱点を補う位置関係にある。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「上里町史 通史編上巻」(1996/上里町)武蔵七党丹党についての解説が詳しい
「上里町史 資料編」(1992/上里町)上里町の中世城館跡についての解説が掲載されている
「上里町史 別巻」(1998/上里町)地元の伝承などが掲載されている
このほか「上里町役場のホームページ」および現地の解説版を参考にさせていただきました。   

文化財指定
埼玉県指定旧跡 1962年2月22日指定
訪城年月日
2005/05/07
訪城の記録

( 2005/05/07 )
説明版、標柱、看板など多数...遺構少々
 合戦にまつわるエピソードなどもあり、歴史的な伝承・経緯もある程度わかっている城跡ですが、残念なことに遺構らしきものが、民家の北側に所在している僅かな土塁を除けば殆どないという状態です。それに反比例して、説明版、石碑、標柱だけはしっかりしている城跡で、城跡の隣接地が結構広い児童公園になっていてややくたびれかけたフィールドアスレチックなどの施設も設置されています。付属の駐車場もあり思いのほか広々とした公園ですが、大型連休最後の土曜日であるにもかかわらず人っ子一人いない状況でした。
 北側の忍保川の小河川を天然の要害とする城ですが、この流れに向かって北側に緩い傾斜をもつ殆ど平地状態の地形に築かれているので、現在の地形からは当時の縄張りを想起することはできませんが、堀や土塁をどのように工夫・配置しても防御性の高い堅城には至らないという限界を感じる立地条件ではないかと思います。したがって神奈川の合戦でたちまち落城したというエピソードについては、事実関係を別として素直に頷けます。

Best Shot?



 手前にある川が忍保川で、正面の木立のため暗くなって見える場所が土塁の遺されている場所です。
 また正面の田のところが人為的に一段低くなっていることから、何らかの遺構の存在を推定したくなりますが観察した限りではなんとも言えません。
 ( 2005/05/07 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR高崎線神保原駅より徒歩30分MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/07 撮影 )

■金窪城への道を示す古い石柱ですが、金窪館址と刻まれているので少し戸惑いますし、そのまま直進していくと忍保川を渡って行き過ぎてしまいます。
 この石柱は陽雲寺から600mほど旧中仙道を東に東京方向に戻った場所に建てられていますが、ここまでは戻らずに陽雲寺から300mほど手前の細い道を北側に左折したほうが分かりやすく、そのまま直進すれば城跡のある公園に行き当たります。
 ま、早い話しが要するに道を間違えたわけです(^^;
■金窪城の明確な所在地が分からずに対岸の川沿いから観察していてたらこんな所に神社がありました。社名は「黛神社」ということなのでこの場所の集落の名称がそのまま神社の名称になっているようです。境内に設置されていた説明版によると創建の時期は不明で、祭神は倉稲魂命で八坂神社、豊受神社、六杉神社、諏訪神社を合祀しています。また、この黛の地は江戸時代に三国街道が中仙道から分岐し上野の玉村に向かう渡し場が北部にあり栄えたということですが、有名な神流川の合戦もこの周辺の北方地域で戦われています。
 この神社の前のスペースに駐車させていただいて忍保川に架かる小さな橋を渡って徒歩でそれらしい地形の探索に。
■神流川の合戦の前哨戦で滝川一益の軍勢の攻撃により落城したとされる金窪城の伝承が地元のローターリークラブが設置した大きな看板に描かれています。しかし、看板と現地の地形、遺構、雰囲気の落差が大きく、看板の絵も長年の風雨に劣化し、色も褪めて事実関係も含めて歴史の彼方へ消えていくようです...変わらないのは看板の絵の背景にも描かれている赤城山の山容が、当日もはるか遠く北の方向に霞んで見えていることだけでした。
■何故か説明版がいくつもあって、遺構の少ない割には多すぎるようにも思えました。
 けっして説明版が曲がっているというわけではなく、どうやら撮影した自分の位置が斜めになっていたようです。
■唯一土塁だとはっきりと分かる遺構が所在する城跡の中心と推定されている一角には、説明版や標柱や石碑が所狭しと並んでいます。
■こちらの説明版の方が年季が入っていますが、記載されている内容は大差ありません。
■金窪城唯一の土塁跡。かつてはほかにも遺構が確認できたようですが、現在はっきりと目にすることができるのはこの高さ1.5mほどの土塁だけのようでした。工事用の足場パイプで囲まれていますので、土塁と直接触れ合うことはできません(^^;
■城跡の説明版などの北側に所在する金窪城址公園。立派な名称が付けられてますが、公園内は殆ど平坦地でやや肩透かしを食います。
■土塁の残るこの一角に標柱、説明版が集中しています。白い説明板の奥に土塁が所在しています。
■先ほどのパイプに囲まれた土塁が90度東に折れて、この道路沿いの東西に伸びる部分に繋がっていますが、こちらについては見過ごしてしまいそうです。
■金窪城の復元された櫓...ではなくて、大分以前に流行した少しくたびれかけたフィールドアスレチックの遊具。
■に架かる橋の上から金窪城の北側の守りとなっている忍保川を西側から撮影したもの。
 当時の地形とはかなり異なっているにしても、天然の要害というには余りにも小さな流れではないのかという印象です。城跡の東西にも堀代わりの水路がありますが、こちらは更にもっと小規模なものでとても要害とはいえません。
 
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