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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/24のブログ  2008/02/22のブログ 平井城 東平井の砦 飛石の砦 常岡城
所在地
 群馬県藤岡市大字下日野字金井平乙203ほか
歴史、人物、伝承

平井城の詰城
 関東管領山内上杉氏の居城平井城の南西約1.2kmに所在する標高326mの山城で、一般には平井城の詰城と考えられています。比較的古い形式に属すると思われる直線的に配置された梯郭群と大手口方面の改修跡および枡形小口、堀切などの技巧を伴う部分が混在していることから後北条氏などによる改修の可能性も指摘されているようです。なお、後北条氏の支配下の天正13年(1585)には当地の有力者であった高山遠江守定重に宛がわれたとされる記録(「高山氏系譜」)が残されていますが、この山城がいつどのような合戦の舞台となったかについては明確ではないものと考えられます。また、築城時期については永享の乱を背景とした上杉憲実の上野への退去の時期とする説が有力であるとされています。また、平井城の詰城としての役割については、平井城との地形の関連性、要害としての防御性などの諸点で必ずしも十分であったとは言い難い印象もありました。
 城名については、「日本城郭大系4」(1979/新人物往来社)、「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)および「藤岡の文化財探訪」(1999/藤岡市)によると「金山城」、「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)では「金山城」(平井詰城⇒文政年間に作成された絵図に記された名称、「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)および「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)では「金山西城」などとされていますが、県内太田金山城などとの区別のために便宜上標記の呼称を用いました。

確認可能な遺構
 石垣、郭、腰郭、帯郭、堀切、土塁、竪堀、井戸跡、枡形状小口ほか多数
文化財指定
 群馬県指定史跡 1999年4月30日指定
訪城年月日
 2007年12月24日、2008年2月22日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/24 )
 資料不足の踏査
 最近とみに低下の一途歩辿るわが足回りのため。己の足の遅さから恐らく登り降りの所要時間だけで1時間前後を、これに加えて遺構見学とデジカメ撮影等を考慮してプラス1時間の都合2時間ほどの滞在時間を想定していました。現地では流石に史跡公園というだけはあり、尾根筋の遺構にはこれでもかとばかりに頑丈かつ丁寧な解説付きの石造標柱が各所に設置されていました。
 むしろ最大の見所は、案内板が設置されているものの余り人が訪れそうには見えない史跡指定地外のカロウト岩尾根筋の茂みの中にひっそりと佇む遺構群の方だと思います。なかでも大手口方面の見事な石積遺構や堀跡関連は必見です。しかし、登り降りの際の足元の負担を考慮したため、全ての遺構の確認までには至らず仕舞いでした。それでも予定時間を大きく超過して、およそ3時間近い在城となりました。近いうちに詳細な縄張り図等の資料を完備してあらためて再訪することを考えながら帰途につきました。

( 2008/02/22 )
 足回り機能の低下
 今回はその時点ででき得る可能な限りの資料を収集しました。かつ事前に資料読みにも時間を費やし、踏査時間にもかなりの余裕を持たしたスケジュールを組み立てました。
先ずは本城である平井城の笹曲輪を南北に分断している道路を右折し、懸案の一つであった大手口とされるカロウト岩付近の様子を北東のゴルフ場の麓付近からじっくりと観察することから開始しました。農地の宅地化、道路・ゴルフ場などの建設の影響のためか、平井城との地形的なつながりは思いのほか不明瞭な印象もあります。加えて大手口山麓は緩やかな斜面を形成していることから寄手の軍勢にとっては容易に包囲展開できそうにも思える景観に見えます。
 次にこのあとは、すぐさま平井金山城南側の駐車場へと移動し、前回と全く同様のルートで息を切らせながら登攀を開始。前回と異なるので南側山麓の石垣遺構紛いなどに余計な気を取られることもなく、行止りの道に迷い込むこともなく、ただひたすら物見台まで登るならば20分位で上がれるはず...かと思いきや、優に30分以上を経過するという始末となりました。このためこの時点で己の体力・心肺機能等を考慮して、「高山城」の再訪については、あっさりと次回への先送りを決断し、そのかわり納得のゆくまで「平井金山城」を踏査することに予定を変更いたしました。
 まず前回は見落とした縄張り図に記されている腰郭すべての状況確認を実施。次にゴルフ場建設により大方消失したものと目される主郭北東尾根筋の現況確認。そしてカロウト岩の尾根筋に関する詳細な再踏査と高山城、平井城との相互位置関係などの確認..などというと大袈裟に過ぎますが、早い話がすぐに息が切れてしまうために思い通りに早くは動けないというだけの事情であるのが真相なのでありました。こうして結局のところ尾根筋の移動時間を含め合計5時間の在城となりました。
 カロウト岩付近の滑りやすい枯葉の斜面では何度も転倒したものの幸い露岩の上では何事もなく推移しました。無論比高差20m近い岩の上から転落すれば、今頃は凍死しているやも知れません。余り人が訪れない尾根筋のため、とにかく枯葉が物凄く積重なっております。このために足首まですっぽりと沈み込む個所もあれば、恰もセカンドペース滑り込み状態となる個所も少なくはない状態でした。こうして枯葉の積もった斜面では確実に2回ほど完全なるスリップ・ダウン。そのうち一回は危うく一眼デジカメと崩落した石垣が激突寸前になりました。運良く?左腕でカバーして、左腕が崩落した石垣と激突。しかし、めっきり衰えた体の中で手首から肘までの部分だけは左右ともに頑健。昨年の夏には、すれ違った車と接触しても全く大事なしという部位なのでありました。このほかにも転倒寸前が5回ほどあったものの、悪運強く大事には至らず無事帰還をいたしました。

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平井金山城(画像左側の峰)
(「高山城」の百間築地より 2007/12/30 撮影 )
訪城アルバム
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平井金山城への登山口
凸1 平井金山城遠望(北東より)
 平井城との間に所在する北東の低丘陵地帯から眺めたもので、こちら側からは主郭などが所在する山頂部分を直接は見通せない模様です。
 とはいえ、東側あるいは南側からの山容と比べた場合、その中腹から麓にかけてゴルフ場が建設されていることも影響しているのか、余りにもなだらかすぎる地形であることにある種の驚きを禁じえません。現実問題としては一体どの程度まで、詰の城としての役割を果たすことができたのか大いに疑問の残る地形なのでありました。

 ⇒上杉乳母神社
 平井城の西約900m、平井金山城の北約1kmに所在する嫡男龍若丸終焉の地。
 この落城の悲劇にまつわるエビーソードは諸説があるようで、関東古戦録によれば平井城落城の際に憲政嫡男の龍若丸(龍王丸とも)が家臣の裏切りにより後北条氏に差し出され伊豆の修善寺にて生害をうけたとの記述があります。また、同時代の記録としては「仁王経科註見聞私奥書」(「身延文庫蔵」)があり、「龍若丸が御嶽に籠城し捕虜となり殺害された」との伝聞が記されています。
 神社が創建された経緯としては大変由緒のあるものですが、その佇まいはどうみてもごく普通の無名の小社のような印象もあるような。
 ⇒北東方向からの平井金山城大手口付近の近景
凸2 登山口
 看板の右側に見える三角形の山容は、上杉景勝が天文21年(1552)に布陣したとのエピソードを残す「子王山城」ですが、一般に上杉謙信の越山は永禄3年(1560)とされています。
 後ろの2階建ての鉄筋造の建物は藤岡市立日野小学校の校舎で。この麓の平地から山頂までの比高差はおよそ170mから180mほどで、その登りに要する所要時間は物見台までは通常約30分ほど。この大きな看板と小学校の校舎が目印なので登り口を間違えることはまずあり得ないと思われます。
 
 ⇒整備された駐車場付の登山口
 城址公園として整備の行き届いた駐車場は20台以上駐車可能な広さがあります。しかし山城探訪には相応しい季節であるにも拘らず、2度の訪城の際にも城跡や途中の山道で人に出会うことは皆無なのでありました。
 かといってどこかの町のように良好な山城遺構を造成して、歴史的経緯を考慮しない模擬天守のような展望台を建設されても困るのでありますが。

「悩ましい石垣」画像クリックで拡大します
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凸3 悩ましげな石垣群
 城跡の搦め手と思われる登山口が所在する南麓には、比較的新しそうな石垣群が来訪者に対してこのように手ぐすねを引いて待ち構えております。
 その配置や形状から、この石垣群については城郭関連遺構、あるいは家臣団の屋敷遺構と想定したいところでもあります。然し、苔むしてはいるもののその風化の度合いなどの印象、カロウト岩方面の本物の石垣遺構との比較、南側斜面という立地条件、養蚕の盛んであった地域等の要素を総合いたしますと、かつての桑畑の跡に杉の植林を行ったものと見るのが自然であるようにも思われるのであります。

 ⇒謎の石垣
 この程度であれば素直に見過ごせるのでありますが。
 ⇒ますます謎が深まる石垣
 この付近などは高さにして3m近い規模を有していることから、桑畑の石垣扱いとするのは誠に勿体無い壮大かつ重厚な印象さえ感じられます。

 ⇒「城破り」のようにさえも見える景観
 豊臣氏による「山城停止令」、徳川幕府による元和の「一国一城令」に基づく「城破り」事例のようにも。このようなたぶんに人工的な要素が感じられる取り崩し跡なども散見されたりしますので、さらに一層困惑の度合いが深まっていくのであります。
凸4 東端の物見台
 平井城、高山城をはじめとして東平井の砦、飛石の砦、常岡城、新堀城、中ノ原城、瀬戸の城などの平井城の支城とされる要衝がほぼ一望できます。ただし眼下の日野谷の一部を除いて、南方にはより標高の高い山々が聳えていることから眺望は北側と東側の方向に限られています。
 ⇒物見台
 上記の画像の説明板が立ち並ぶ西側の鞍部から撮影したもので、物見台であると共に搦め手と推定される上記画像の右側からの山道を上方から監視する機能も併せ持つように感じられます。
 ⇒階段状の普請がなされているとの説明も
 そういわれれば確かにそのようにも思えますが、実に微妙な具合の高さ1.5m前後の「石段なのでありました。
 ⇒上段の腰郭
 物見台北東直下1.5mの尾根筋に普請された幅5m、奥行き3mほどの規模があります。
 ⇒下段の腰郭
 上段の腰郭からさらに2mほど低い位置に普請されたおおむね同規模のもので、この上下2段の腰郭により物見台東側の尾根続きに対して不足のない防御となっています。
 ⇒削平されている物見台
東西約25m×南北約15m程度の物見台は、おおむね平坦に削平されているという様子で、小屋掛け可能なほどの規模を有しているように思われました。

小口
自然地形を生かした防壁
凸5 小口
 この部分だけで観察しますと「埋まりかけた堀切」あるいは「腰郭」のようにも見えますが、上方から見下した場合には確かに小口を形成していたことが想定されます。
 
 ⇒小口付近の腰郭
 ⇒喰い違い小口か
 切岸辺縁部のラインを観察する限りでは、喰い違い小口のようにも見えたのでありました。
凸6 天然の防壁
 尾根筋の通路を遮断するように所在する西方の郭の「土塁」のように見えますが、西の裏側からは大岩そのものという構造になっています

 ⇒帯郭
 この天然の防壁の少し手前から、主郭南東の尾根筋に築かれた腰郭上部へと続く約100m前後の文字通り細長い帯郭が巡っています。

金山城跡の石柱
主郭西側の郭からの眺め
凸7 主郭付近
 主郭付近には平井城の時と同様に新旧合わせて様々な説明板が林立。遺構に対する愛着の強さを感じる天然の石垣に対する見方なども掲示されたりして、初めに訪れた時にはどれを読めばよいのか戸惑うほどの賑わいを見せておりました。
 ⇒縄張図付き現地解説板
 敢えて贅沢を申し上げると某のような素人の場合には、各郭などの遺構を特定するような固有名詞をつけていただけると後々の整理がはかどるのでありますが。
 ⇒西側の郭から見上げた主郭
 ⇒主郭東側の枡形状の小口
 ⇒主郭側から見下した小口部分
凸8 主郭西側の郭付近
 主郭西側には2段構えの細長い郭が所在し、現在は鉄筋コンクリート製の展望台が所在する一郷山城と牛伏山および八束城方面の眺望に優れています。

 また西の郭北西の先端部分の斜面には2段の腰郭が備えられて、この尾根筋の防御体制を強化しています。尾根筋自体は腰郭の先で急速に切れ落ちているため、木の枝等に掴まらない限り行動不能となります。
 
 ⇒比較的傾斜が緩やかな上段部分の腰郭
 なお、下段部分についても木の枝にしがみつきながら撮影を敢行しましたが、どうみても落ち葉の積もったただの急斜面にしか見えないのでありました。

主郭北側の修復された竪堀
カロウト岩への案内版
凸9 主郭北側の竪堀
 復元された竪堀の一つで画像の手前部分は東西方向に竪堀を配した土橋状の細長い地形を形成しています。

 ⇒主郭北西部の帯郭状?の地形と切岸
 
 あたかも交差点のように土塁、竪堀、土橋、切岸、帯郭?などの城郭遺構が集中する主郭北側の土橋付近の様子。
凸10 カロウト岩の尾根筋への案内版
 カロウト岩の尾根筋とは別の主郭北東部の尾根筋にも、かつては遺構が存在していた可能性が窺えるようでしたが、ゴルフ場の建設により尾根筋の地形が相当に変貌しているらしく城郭遺構の一部であるかどうか不明な地形が残されておりました。
 また、主郭北側の尾根筋には小屋掛けするに相応しそうな平坦な地形の梯郭式郭群が所在しています。この北側の郭群と、画像「5」「7」の主郭およびその東側尾根筋の郭群とでは明らかに城郭としての構造上の違いが感じられます。

画像クリックでズームアウト
櫓門跡付近
凸11 塀跡の標柱と櫓台の礎石
 本物の意石垣遺構を目の前にすると、塀の跡の跡のように朽ち果ててしまったこの標柱さえも、何処か風情を感じされるものがあります。画像クリックで「櫓台跡」と推定されている個所へリンクします。

 ⇒塀の礎石跡と推定されている個所
凸12 櫓門跡付近
 大手門付近の遺構が調査後に埋め戻されているため、「14」の大堀切遺構と並んで、大手筋遺構の最大の見所かも知れません。なお、画像右側の個所が「13」の石垣画像につながっています。発掘調査では焼土が検出されていることから櫓門などの構造物も同時に焼失したと推定されています。

 ⇒櫓門の所在を示す標柱と石垣遺構
 ⇒同上

画像クリックで拡大します
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凸13 石垣遺構
 南麓の比較的新しいものとは異なり、発掘調査により年代が推定されている戦国期の石垣遺構。向かって右側の部分は一部自然崩落していますが、現在見ることができる石垣群のなかでは、この部分が最も保存状態が良好な模様でした。

 ⇒同じ個所で少し左側の石垣群
 
 また、カロウト岩南側でも2段ほどの規模の石垣遺構が確認できますが、こちらの方は上記に比べるとやや目立ちにくく、さらに崩落している部分が多いという印象でした。
 余談ながら、ここの崩落個所で見事にバランスを崩して2mほど滑り落ち、危うく転がっていた石垣とくデジカメが衝突しそうに。反射神経が確実に衰えを見せてはいたものの、とっさにデジカメを庇い、その身代りに左手の最も頑丈な部分と石垣が激突する羽目に。然し、厚着をしていたため悪運強く全くの無傷。
凸14 大堀切と竪堀
 「堀切」というよりも寧ろ尾根筋の岩を大きく抉った構堀のような構造で、その先端が谷筋へとつづいていることから見方によっては土橋と竪堀の組み合わせのようにも見えます。
 現状では幅約8m、長さ約15m、深さ約2mから3mの規模を有していますので、愛用のミニズーム17ミリ広角レンズでは全く収まりきらず、昨年末に引き続いて全く訳のわからない画像となり果てました。
 やむを得ず次善の策として堀底に降りて撮影を敢行。然しやはり思惑通りには行かず、より一層分かりにくい画像となってしまったのでありました。
 いずれにしても、この堀の手前に近づく寄せ手は画像左側の上方(水平距離で約20mほど)から狙い撃ちをされるという強力な防御線であることだけは間違いのないところかと思われます。

 またこの堀切の西側上部には、岩を削り落した荒々しさが残る大規模な竪堀遺構も所在しておりました。

井戸跡の遺構
画像クリックで拡大します
凸15 井戸跡
 復元事業により整備された巨大な井戸跡で、右奥の建物は上州名物の雷発生時の緊急退避場所。また生命線であるこの井戸跡が城域の北西端に所在するという配置も大きな弱点であったのかもしれません。
 ⇒井戸跡の拡大画像 
 ⇒井戸跡の現地解説板
凸16 平井金山城遠望
 子王山城の主郭付近から撮影したものですが、このような背後に所在するより標高の高い山岳からはいとも容易く俯瞰されてしまうという標高不足は防御上の大きな弱点であったものと考えられます。
 平井城の背後を防御するという点では、鮎川対岸の高山城の存在が有力ですが、お互いに川を隔てていることから相互に連携するには困難を伴うものと思われます。

画像クリックで拡大します
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凸17 カロウト岩付近の様子
 大手口と推定されているカロウト岩周辺はゴルフ場敷地内であることから、当時の遺構を偲ぶには些かの想像力を必要とするのかもしれません。
 ⇒カロウト岩の謂れ
 ⇒発掘遺跡の説明板
 ⇒カロウト岩の尾根筋先端部
 ⇒カロウト岩付近より眺めた高山城
凸18 高山城などからの遠望
 被写体の一つとして平井金山城を捉えた場合には、南東の鮎川対岸に所在する高山城側から撮影するのがよろしいようです。(画像の石垣は高山城百間築地のもの)
 ⇒高山城百間築地より黄昏時の平井金山城
 ⇒同じくどこかシュールな平井金山城
 ⇒高台に所在する鮎川湖付近からの遠望
交通案内

比高差170m、南麓の駐車場より徒歩40分前後。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)⇒発掘調査関連の記述が詳しい
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「藤岡の文化財探訪」(1999/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


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・2008/04/07 説明文追加
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