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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/24のブログ 東平井の砦 常岡城 清水山城
所在地
 群馬県藤岡市東平井1616−3、1620、1623、1624−1
歴史、人物、伝承

平井城の支城のひとつとも
 「藤岡市史 資料編」の記述になどよれば、一辺が70mの方形の単郭堡と考えられ、関東管領山内上杉氏の本城である平井城の東側の防御を目的とした支城と推定されている模様です。
 なお、当該遺構については「現在完全に消滅している」との記載がなされていますが、実際には下記の画像のように北側の遺構の一部が現存しているという印象です。ただし、山崎一氏の作成された縄張り図と比較した場合には、かなり規模を縮小されているという印象は否めないように思われます。
 とはいうものの、この小規模な平地の単郭砦では在城できる人数も限られることから、東平井の砦、常岡城と連携しているとしても強力な防御ラインであるとは考えにくいものがあり、後北条氏の圧力を受けていた方面における支城の備えとしては些か疑問の余地が残る城郭跡です。

確認可能な遺構
 土塁、空堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年12月24日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/24 )
 駐車場の一角に残された奇跡の土塁と空堀
 運送会社の一角に僅かに遺る空堀跡と土塁跡で、以前には東側にも土塁跡が所在していとのこと。残念ながらそちらの方は既に完全に消滅している模様で影も形も確認できませんでした。この独特の地形さえも、仮に事情が分からねば遥かに後世のものと判断されそうな地表の凹凸で、見ようによっては運送会社のトラックの駐車場を造成した時の残土と排水路のように思えなくもありません。
 しかし、山崎一氏の調査された縄張り図を参照し道路、高圧線などの位置から推定する限りでは、ほぼ間違いなく北側の土塁と空堀遺構であるとみてもまず問題ないようです。ただし土塁の長さは幾分短く、堀幅も当時よりは幾分狭くなっているように思えるのでありました。
 遺構の直ぐ傍には当該企業の経営者が設置されたと思しき民間信仰の石碑も所在し、どうやら意図的に遺された形跡が窺えます。その企業および経営者の方の文化財に対するご理解に心より感謝申し上げる次第であります。

「飛石の砦」画像クリックで拡大します
飛石の砦(北側の方向から撮影)
( 2007/12/24 撮影 )
訪城アルバム
遺構近くに所在する民間信仰の石碑
画像クリックで拡大します
凸1 猿田彦大神
 土塁と空堀跡の傍らにはこちらの運送会社の経営者の方が建立したと思われる「猿田彦大神」の石碑が鎮座し恰もこれらの遺構を守護しているように思えたのでありました。
 因みに猿田彦はニニギノ命一行の天孫降臨に際して道案内をしたとされていることから、交通安全の神としても尊崇され、合わせて商売繁盛、厄除開運、殖産興業の神徳を有するとされているとのことです。(「八百万の神々」戸部民夫著/新紀元社 より)
凸2 郭内から見た遺構
 南側の郭内から見た遺構ですが、こちら側から見る土塁の高さは1メートル足らずで長さも10m前後。このため注意してみないと見過ごすような場合もあるかも知れません。
 なお、この先を鎌倉街道が通過していたといわれていることからも、道路の向こう側を流れる鮎川の水運を含めた水陸におよぶ交通の要衝を抑える役割を果たしていたものと考えることができそうですが、平地に立地しているという制約から見通しがほとんど利きません。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)

・2008/01/15 HPアップ
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