凸平井城の支城のひとつとも 「藤岡市史 資料編」の記述になどよれば、一辺が70mの方形の単郭堡と考えられ、関東管領山内上杉氏の本城である平井城の東側の防御を目的とした支城と推定されている模様です。 なお、当該遺構については「現在完全に消滅している」との記載がなされていますが、実際には下記の画像のように北側の遺構の一部が現存しているという印象です。ただし、山崎一氏の作成された縄張り図と比較した場合には、かなり規模を縮小されているという印象は否めないように思われます。 とはいうものの、この小規模な平地の単郭砦では在城できる人数も限られることから、東平井の砦、常岡城と連携しているとしても強力な防御ラインであるとは考えにくいものがあり、後北条氏の圧力を受けていた方面における支城の備えとしては些か疑問の余地が残る城郭跡です。
( 2007/12/24 ) 凸 駐車場の一角に残された奇跡の土塁と空堀 運送会社の一角に僅かに遺る空堀跡と土塁跡で、以前には東側にも土塁跡が所在していとのこと。残念ながらそちらの方は既に完全に消滅している模様で影も形も確認できませんでした。この独特の地形さえも、仮に事情が分からねば遥かに後世のものと判断されそうな地表の凹凸で、見ようによっては運送会社のトラックの駐車場を造成した時の残土と排水路のように思えなくもありません。 しかし、山崎一氏の調査された縄張り図を参照し道路、高圧線などの位置から推定する限りでは、ほぼ間違いなく北側の土塁と空堀遺構であるとみてもまず問題ないようです。ただし土塁の長さは幾分短く、堀幅も当時よりは幾分狭くなっているように思えるのでありました。 遺構の直ぐ傍には当該企業の経営者が設置されたと思しき民間信仰の石碑も所在し、どうやら意図的に遺された形跡が窺えます。その企業および経営者の方の文化財に対するご理解に心より感謝申し上げる次第であります。
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