群馬県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
群馬県藤岡市の城館索引へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/01/02のブログ 
所在地
 群馬県藤岡市藤岡外の平2913、2313
歴史、人物、伝承

平井城の支城と推定される丘城
 群馬県内の中世城館調査の権威者である山崎一氏の調査された1960年代とは、当然のこととはいえ現地における遺構の状況が大きく変貌しているらしく、土塁、小口、堀切等はその痕跡を辿るのも困難な状況です。それでも舌状台地そのものと、南西側中段の帯郭および主郭の切岸については何とか往時の面影を偲ぶことができます。
 また、城郭としての歴史的背景については不明な模様で、山崎氏の執筆による「日本城郭全集 3」において、有田氏の城とする俗説を栃木県藤岡との近藤であると推定しています。一方「藤岡市史 通史編」の「藤岡地域の城館跡」(付図)では関東管領上杉氏の居城であった平井城の支城であったことを推定しています。
 城郭に関する地形的な解説は「藤岡市史 資料編」が比較的詳しく、これによれば「庚申山丘陵(現在の庚申山運動公園)の南端に位置し、北東側には大神宮砦がある。北西を除く三方は比高差23mの断崖で、北西−南東方向150m、北東−南西方向100mの菱形の岡城である。北西側には長さ40mの堀切があり、土橋を経て北小口が所在。北西部から南東部にかけて高さ3mから5mの土塁を有し南東に堀切を伴う大手小口が所在..」(要旨のみ)と記されています。しかし、現状では南西の帯郭および主郭の切岸以外には明確な遺構を確認することは困難な印象でした。なお、「常岡」(ときおか)の地名はは「藤岡」の旧名とのことです

確認可能な遺構
郭?、土塁?、堀切?(正確な所在地も含めて全体として不明確です)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月2日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/02 )
人気のない初詣
 東側の丘陵の麓に所在するどこか寂しげな小さな神社にて初詣。昨年一年だけでも神社仏閣への参拝は100件は超えているはず。その割にはご利益がないなどと考えては罰あたりかと。体調万全とまではいかないものの、こうして最早ライフワークと化しつつある城跡めぐりができるということだけでもまさにご利益の証。とはいうものの、露天商の屋台さえも設置され、交通整理のガードマンが忙しそうに動いていた金鑚神社および金鑚大師の初詣とは誠に大違いではありました。もっとも詣でる人が少ない分だけ、ご利益は多目かも知れないなどと思うことに。
 さて肝心の遺構については篠竹の藪が酷く、実のところ明確な遺構が確認できないまま悪戯に時間のみがズルズルと経過。尾根筋の先端部分にあるはずなのですが、その先端部分の所在自体があまり明確ではないような地形でした。もちろんそれらしい尾根筋が現地には2か所ほど所在してはおりました。ランドマークとなる灌漑用水沼の位置から判断すればたぶん西側の方の下記の個所で間違いがないと思います。尾根続きの個所がすでに宅地化されていること、余りにもきれいに笹が刈り取られた台地、地表上の目立った遺構が確認しづらいこととなどと合わせて何処か何かが違うような印象も漂うのでありました。
 そうはいっても、およその場所自体は合っているはずなので、とりあえずはこの辺りかも知れないと自分自身を納得させるのにかなり苦労するような始末でありました。かくして初訪城にしては、出だしから暗雲漂うような一年の始まりなのでありました。

画像クリックで拡大します
常岡城(南東方向から撮影、所在地ははあくまでも推定)
( 2008/01/02 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸1 遠景
 南側の市道方向から撮影したものです。手前の少し高く見える個所が寺山池の堰堤で、その左奥に見えるのが常岡城の所在する台地部分であると思われます。

堀切跡の推定位置の画像へリンク
凸2 単郭形式の主郭内部
 上記の画像とは正反対の方向から撮影したものです。北西から南東にかけて緩斜面を形成する台地上に所在し、手前の部分に僅かに地表の盛り上がりを認めることができますが、間違いなく土塁遺構であるとの確信を持つには至りませんでした。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸3 帯郭のような地形
 資料の縄張り図等を参照する限りでは、南東部斜面に築造されているこの幅4尺ほどの道が帯郭に相当するようにも思えるのでありました。
 なお、右手の斜面は主郭の切岸状地形で、比高差3メートルほどの規模を有し現存する遺構の中では最もそれに相応しそうな地形でありました。
凸4 眼前に広がりを見せていた上州の山城
 麓の灌漑用水の寺山池の堰堤上からは、「三ツ山城」「子王山城」「平井金山城」の方面がパノラマのように一望できました。遺構の確認自体は不満足な結果に終始しましたが、好天の下この眺望を目にすることができただけでも訪れた甲斐があった次第でありました。なお、城跡の南側には「城の腰」という小字名が残されているとのことです。
交通案内

・県道41号線矢場交差点を東へ700メートル、北側の寺山池奥の舌状台地先端部分と推定。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

・2008/01/12 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動