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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/24のブログ 2008/02/01のブログ 東平井の砦 飛石の砦 常岡城
所在地
 群馬県藤岡市西平井字新曲輪235−1ほか
歴史、人物、伝承

関東管領山内上杉氏の居城
 築城の起源については、永享10年(1438)総社の長尾忠房が永享の乱を背景として、上杉憲実(1410-1466)の居城として築城したという説、あるいは応仁元年(1467)上杉顕定(1454-1510)の時代に築城したという両説が有力です。その後天文20年あるいは翌年の天文21年(1552)に、当時の関東管領上杉憲政は大半の国人領主の離反により孤立を深め、結果的に後北条氏の攻勢を支えきれずこの平井城より退去し、最終的には越後の長尾景虎を頼ったものとされています。永禄3年には関東管領職を譲られた越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に侵入。後北条氏の支配から平井城奪還を果たしたのち、厩橋に関東支配の戦略拠点を移した際に廃城とされたものと推定されています。

平井城を本拠地とした理由
 この点について、山崎一氏は、上杉憲実の時代における鎌倉公方(後の古河公方)の勢力範囲、上杉氏の有力家臣である白井長尾・武州滝山大石の勢力範囲の中間地点、鎌倉から越後へ通じる往還に面していた、日野地区の製鉄技術の存在という4点を挙げています。(「群馬の古城」より)
 また、この当時において平井城に代わる候補地を探した場合には、児玉の八幡山城(雉岡城)、寄居鉢形城などが想定されます。しかし両城とも鎌倉公方の勢力範囲により近く、八幡山城は河川などの防御ラインが希薄な平地の比高差の少ない丘城であること、鉢形城は荒川とその支流の合流点に所在する天然の要害ですが、東側の出口を抑えられると秩父盆地に閉じ込められる形となることなどの問題が所在することから、何れもその本拠地とはなり得なかったものではないかと考えられます。

地形上の弱点
 平井城は鮎川左岸の北側に緩い傾斜がかかった河岸段丘上に所在し、確かに東側は天然の要害と呼ぶに相応しい防御ラインを形成しています。然しこれに対して子王山城方面からは城内の様子が一望できるという事情に加えて、北側および西側については庚申堀と呼ばれる人工的な空堀等で防御されていたものと推定されますが、この方面については明らかに要害の地とは無縁な平坦な台地が続いているという事情があり、上記の景虎の状況判断は至極妥当な選択であったものと考えることができます。
 またこの平井城は南西の方向に所在する平井金山城を詰城とし、あわせて平井城の周辺に多くの中小規模の支城を配置しています。然し、その何れについても平井城が抱えている地形的な脆弱性を補うに足るだけの十分な防御性を有しているかどうかについては、守るべき兵力自体の動員力の存否を含めて疑問が残ります。

確認可能な遺構
 堀跡(庚申堀)、竪堀、この他に復元遺構として主郭土塁及び堀跡、竪堀など
文化財指定
 群馬県指定史跡 1999年4月30日指定
訪城年月日
 2007年12月24日、2008年2月1日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/24 )
 林立する説明版
 有名な関東管領山内上杉氏の本城ですが、現在は主に復元された土塁、郭、空堀が存在するのみで、往時の面影はいまひとつといった感も無くはないような印象。然し、公的な説明版以外にも地元の方々による手づくりの解説版の類が所狭しと配置され所縁の深い墓石、記念碑、顕彰碑なども多数所在。このため一体どれを見たらよいのか迷うというような贅沢な悩みさえも。ここで公的な説明版のアルミ製のフレームが1か所だけ外れかかっているのを発見したので、直ちに復旧作業開始..とはいえ、単に外れていたアルミのフレームを元通りにはめ込んだだけのことであります。
 復元土塁の上からは詰城の金山城方面が一望。しかし、この辺りから次第に曇りがちの天候に変貌しプログラムシフトモードで使用しているためデジカメ撮影の設定調整にその都度時間を浪費。このあと詰城とされる平井金山城へ向かうため早々に移動することに。いずれにしても資料不足、事前調査不足の感は否めず、地形的にもその全体像を把握するまでに至らずじまいとなり後日の再訪に期待することに。

( 2008/02/01 )
 再訪は有益
 前回は資料不足のため復元土塁周辺のみを散策にとどめ、その後の予定と日没までの残り時間を計算し早々に退散した経緯が。今回は関連する寺院3か所、神社1か所、全ての郭推定地、堀跡など関連しそうな個所を完全に踏査することが主な目的。やはり上野といえば関東管領山内上杉氏。関東戦国史の典型的な敗者ではありますが、城跡めぐりをライフワークにしつつあるものの立場としては、その居城とされる平井城を少しは極めねば管領殿に申し訳なく。
 とはいえ、上州名物赤城おろしが吹きつける90分間の彷徨はメモを取る手の自由が利かずにかなり難航。とはいえ、やはりあらかじめポイントを設定しての再訪踏査は有益なようで、この日の目ぼしい成果は北西側に所在する庚申堀跡の確認かと。現在は耕作地帯となっているものの、宅地部分との明確な比高差が現存していました。目測によれば最大で2mほどで、堀幅は約20mから25mくらいの規模かと思われます。手持ちの資料の位置とも符合するので、先ず間違いはなさそうかと思われるのでありました。

平井城の復元土塁 画像クリックで拡大します
平井城主郭の復元土塁
( 2007/12/24 撮影 )
平井城の詰城と考えられている平井金山城(平井城主郭よりの遠望)
訪城アルバム
「◎」印のあるものは2007/12/24の撮影で、それ以外は2008/02/01撮影
大手付近の堀跡(東側)
 平井橋と鮎川の蛇行 画像クリックで拡大します
凸1 大手口近くの堀跡
 この水路はそのまま東側へと流れて行き、最終的には鮎川へと通じているようです。当時はこの辺りの堀幅などの規模も「7」の画像と同様に、およそ20m前後の規模があったものと推定されますが、右側の「鮎川」の断崖を利用した防御ラインと比べた場合には明らかに見劣りするのは否めないという感じがします。
 なお、文化年間の城絵図によれば、この部分の堀幅は約10m前後であることが記されていますが、この東側に所在する鮎川切岸について2丈(約6m⇒現在は約10mほど)と記す一方で、主郭南東部の切岸の規模を数十丈と書き表すなどの傾向から、あくまでも参考数値として見た方がよさそうです。
凸2 平井橋
 この平井橋のかかる鮎川は、石塁堰などの築造により水量を調整したことが推定され、平井城の東側の天然の防御ラインとして重要な役割を担っていたものと推察されます。
 しかし、これに対して西側の庚申堀と呼ばれる概ね人工的に開削されたと推定される堀跡については、水利から考慮する限りでは限りなく空堀に近く、またその規模の点においても明らかに防御性が劣り、平井城のなかでも最大の弱点であると考えられます。

平井橋付近の鮎川の蛇行(画像の右側が平井城)

「推定大手口付近」の様子 拡大しても無意味などとは知りつつも、画像クリックで拡大します
凸3 大手口付近(推定)
 現在はこのように鮎川にほぼ並行する県道173号線が平井城跡を南北方向に縦断しています。しかし、すでに近世当時にはこの道の両側には町並みが所在していたことが「文化年間に描かれた城絵図」からも推定されます。(文化13年に藤原正治という軍学者が描写)しかし、そうした町並みが、元々惣郭内の町屋であったのかどうかについては明確ではない模様です。
 このような次第なので、平井城が関東管領上杉氏の本拠地として機能していた15世紀から16世紀当時の様子を窺い知る術についてはそう簡単に見つかろうはずなどもないのであります。
凸4 惣郭の境界
 緑色のやや時代がかった建物は「西平井自警団詰所」との看板が掛けられておりました。「自警団⇒自検断⇒挙動不審者⇒問答無用の捕縛⇒直ちに断罪..」となっても困るのでありますが、建物の用途が偶然城跡の縄張りと符合しているところが実に味わい深い印象があります。
 なお、画像右端の白い標柱が惣郭の境界を示していると記されていることから、向かって右側方面が惣郭であったと推定されているようです。

西平井集落内の細道
画像クリックで現地解説板へ
凸5 常光寺近くの里道
 この細い集落の中の道と、両側の地面の高さの違いがどことなく気にかかるのでありました。
 しかし、残念ながら縄張り図などの資料から判断する限りは、惣郭の一部を占めていることが判明しているのみで、堀跡、郭跡などの城跡遺構とは直接関わりがあるということではなさそうです。
凸6 常光寺
 関東の支配をめぐり古河公方、扇谷上杉定正との抗争などで歴史にその名を残す関東管領山内上杉顕定(1454-1510)の菩提寺と伝わっています。しかし文禄年間の火災により古記録、位牌などは焼失したため、江戸時代の初めに再興されたとのことです。なお、画像手前のロウバイが花盛りなのでありましたが、何分にも北西の強風が吹き荒れてデジカメの焦点が定まらず...

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸7 庚申堀(推定) 北側から
 手持ちの縄張り図などと照合しますと、平井城西側の堀跡の名残であると考えられ、またこの辺りの景観が比較的当時の様子を伝えているようにも思われます。
 宅地部分との比高差は最大で約2mほど、堀幅は目測で推定20mから25mを測り、総延長距離はおよそ200mほどになるものかと思われます。然し、東側の鮎川方面と比較した場合には、明らかに防御ラインとしての脆弱性を内包しています。
凸8 庚申堀(推定) 南側から
 農作業中の方がおいでになりましたので軽く会釈などをして堀跡西側の農道を通過。何やら珍しそうな素振りで当方をご覧になっていたので、あまりこちら側の方には見学者が訪れることがないのかも知れませぬ。
 なお、正面に見える山稜は上野を代表する名峰の赤城山で、まさに寒風の赤城おろしが顔面を直撃してくるのでありました。

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凸9 蔵屋敷付近
 この「蔵屋敷」という名称は近世以降に付されたものであるとのことのようです。
 なお余り明確な根拠があるとは言い難いのですが、「8」の画像のすぐ右側部分に相当していることから、画像手前の畑とその奥の宅地部分の境界に所在する約1.5mほどの段差に関しては外郭西側の「庚申堀跡」に関連を有するものではないかと思われるのであります。
凸10 仙蔵寺
 関東管領上杉憲実が中興開基とされる真言宗仙蔵寺で、狩野派の祖狩野正信筆の絵画などが伝わる名刹。
 この寺院の山門前の解説板をしげしげと眺めておりましたところ、すぐ傍で白い大型犬がこちらをじっと見つめておりました。鎖には繋がれていなかったこともあり一瞬焦りましたが、そっと優しく声をかけると大人しく目を細めてお利巧にお座りをしておりました。
 なお、寺の背後の丘陵が平井金山城へと続く尾根筋の先端部分に相当するはずでが、現在はその間にゴルフ場が所在するためにこちらの尾根筋からアプローチすることはできないようです。

往時の遺構とは考えにくい主郭南側付近の石積み 

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凸11 三嶋神社
 仙蔵寺の西側に隣接するこの神社の裏手からは、詰めの城である平井金山城の大手口への尾根筋が続いていることが地形上からも確認できるのですが、誠に残念ながら何分完全な逆光のためにそういった構図での撮影ができませぬ。
 大山祗命を祭神とし、関東管領山内上杉顕定が伊豆三嶋大社から分祀したとされています。

三嶋神社の現地解説板
三嶋神社社殿
凸12 笹曲輪付近
 画像の石積みは当然ながら遺構とは無関係の宅地の造成に伴うもののようであります。なお、手持ちの資料によりますと、右側の新しい道路は笹曲輪の南部を東西方向に貫通していることから、この民家の石積み付近が笹曲輪の南端部分(平井城の南端)に相当するものと思われます。

上杉謙信(長尾景虎)が平井城を奪還した旨の解説板
主郭に設置されている復元遺構の配置図

画像クリックで拡大します
県道沿いの城址碑
凸13 復元土塁三景
 よく写真で見かける比較的有名な復元土塁ですが、当初は県道脇の柵は丸太の木柵であったものが、交通安全上の問題からでしょうか、余り景観には馴染まない印象の白いスチール製のガードパイプへと変貌を遂げておりました。
 この際なので、せっかくの復元土塁の築造に敬意を込めて「復元土塁三景」と命名して掲載させていただくことに。
東側から眺めた復元土塁
西側の県道から眺めた復元土塁
⇒北東方向からながめた復元土塁
凸14 城址石碑
 復元土塁脇の由緒正しい城址石碑ですが、長年の風雨に曝され続けたためが些か読みづらく劣化しているようでありました。

浄土宗清見寺本堂
浄土宗清見寺の由来を記した説明坂へ
 最後の関東管領である山内上杉憲政の直臣藤原継行の建立と伝わるものの、火災のため当時の記録は焼失したとのことです。

二の郭付近
「復元された土橋と堀跡遺構」 画像クリックで拡大します
凸15 「二の丸」付近
 主郭西側の内堀に相当する辺りかと思われます。県道との段差が気になるところではありますが、その地形が堀跡の名残りを示すものか或いは農地改良などに伴うものなのか、しばしその判断に戸惑い続けるのでありました。

「三の丸」の標柱
「惣郭」と「三の丸」の境界を示す標柱 
凸16 復元された土橋と空堀、郭
 以下の画像は発掘調査に基づき復元された主郭東側の様子ですが、復元された木橋以外に構造物は存在せず余りに整然としすぎているようで何処か物足りなさを感じてしまうのでありました。

復元された堀跡遺構
復元された竪堀遺構
復元された木橋 

土橋手前に所在する牛舎の牛さん
画像クリックで主郭北側の土塁跡のラインへ
凸17 大人しい牛さん
 賑やかな豚舎とは異なり、復元された土橋の手前に所在する牛舎では数頭のとても大人しい牛さんたちが、如何にも暇そうな表情でこちら側の様子をじっと眺めつづけておりました。当方とて忙しいような暇なような立場にて、5分ほどお見合いをさせていただきました。
凸18 土塁跡
 黒御影石製の土塁跡の石柱にございますが、土塁跡自体は目印の石が東西方向に一直線に並んで埋められているだけなので、どことなくやや寂しげな趣を漂わせていたのでありました。

主郭北側の土塁跡のライン
交通案内

・西平井地区の南端、鮎川左岸の河岸段丘上に所在し県道173号線が南北に貫通しています。
・主郭復元土塁北側に駐車場、トイレ設備あり。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
 
⇒歴史的経緯の記述、縄張図、地理的説明、周辺支城の解説、文化年間の城絵図(口絵)等の諸点で有用
 所収されている幕末文化年間の城絵図によれば、主郭の北・東部分に土塁、堀跡が描かれるとともに、その堀跡の深い様子や北東部が二重堀の構造で堀障子の跡が残っていたことなども記されています。また、主郭には平岩山平井寺文殊院が所在し檀家総代として中世の在地領主の系譜に繋がる高山氏の名も見ることができます。また縄張り図についても現在の道路状況を重ね合わせて作成されているので非常に分かりやすい内容となっています。
「群馬の古城 全3巻」
(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)⇒基本資料の一つで歴史的背景の記述も詳しい
「藤岡の文化財探訪」(1999/藤岡市)⇒主郭部分の詳細な推定図あり
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)⇒平井金山城と一体となった俯瞰図が便利
「藤岡市史 原始・古代・中世資料編」(1993/藤岡市)⇒簡潔な解説と縄張り図付

復元部分を含め平井城全体を時間をかけて現地踏査する場合には、次の4点の資料を持参すると便利かと思われます。
「藤岡の文化財探訪」から21ページの主郭跡周辺概要図(拡大コピーならば更に便利)
「図説群馬の歴史」から143ページの平井金山城を含む俯瞰図
「藤岡市史 原始・古代・中世資料編」から997ページの平井城縄張図
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)図91平井城縄張概念図

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)⇒簡潔な解説と縄張り図付
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)⇒基本資料ですが記述の古さと誤りが難点
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「関東の城址を歩く」(西野 弘道 著/2001/さきたま出版会)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)・藤岡市の公式HP
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)

「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
 簡略な歴史的経緯の記述とともに、古記録、軍記物などの関連資料が明記されています。これによりますと、「文明年間上杉氏が築いた東国の名城であったが、天文20年に北条氏のために破られ、勢威を揮うことおよそ70年であった。主郭の跡にはかつて文殊院が所在したが仙蔵寺に合併され、現在は的確に指定すべき遺跡は殆ど存在せず、僅かに本丸北東の一角に土塁が少し残っているのみである。地元の人々はこの付近を笹曲輪と呼んでいる」(一部文体・表現を変更)と記され、90年ほど以前の大正時代の前半頃には、既に目立った遺構が存在していなかったという城跡の状況を確認することができます。

■「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 同書に収録されているされている明和7年(1770)に編纂された「諸国廃城考」によれば、「応仁元年上杉顕定の時代に平井城が築城され、古河公方足利成氏と合戦に及んだ」との旨が記されていますが、その当時の遺構などの様子については直接言及されてはいません。

■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 1760年頃の宝暦年間に編纂されたと推定されている「上州古城塁記」によれば、「上杉憲方を祖とする山内上杉氏の居城で、その7代の後裔である上杉顕定戦死の後養子の憲房が平井に在住し、その子上杉憲正は天文20年3月の神流川の合戦で北条氏康に大敗したため平井城を退去し越後長尾景虎の庇護を受けた。天文21年4月景虎は越山して平井城を奪還し、その後関東での戦略拠点とした。しかし、永禄2年10月に平井城が要害の地ではないことから廃城として、その後は厩橋を拠点とするようになった」と記されています。この辺りの記述については、主に「関東古戦録」(1726/槙島昭武 著)を引用しているものと考えられますが、史実としては、一般的に永禄3年越山の際に平井城を奪還し、その直後に廃城にしたとの説が有力であるとされています。
 なお、同史料集には「上毛古城記」(編者の山崎一氏によれば天保年間に編纂されたと推定)も収録されていますが、平井城については上杉憲実、上杉憲政などの人名について断片的に記述されている程度に過ぎず、城跡遺構に関する記述を欠いています。

■「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)
 同書収録の「上毛国風土記」によると、「鎌倉の執事安房守上杉憲顕の三男右馬亮憲英より5代にわたり居城し、上杉修理大夫憲政の時北条氏康に滅ぼされ越後の長尾景虎を頼った際に廃城となったのではないか」と推測されています。なお、初代城主とされる右馬亮憲英については不勉強のため今のところは仔細不明です。

■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)−1976に関東資料研究会により復刻されたもの−
 「鎌倉九代記」「関東古戦録」「諸国廃城考」「甲陽軍鑑」「続太平記」などから平井城および上杉憲政を始めとする山内上杉氏に関する事跡が引用されていますが、編者の見解を明示するという姿勢が見えず、また全体として史実としての検証に重きを置いていないという傾向が感じられます。

・2008/02/11 HP暫定版アップ
・2008/02/13 記述の追加訂正
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