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2007/12/24のブログ 2008/02/01のブログ 凸東平井の砦 凸飛石の砦 凸常岡城 | |
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群馬県藤岡市西平井字新曲輪235−1ほか |
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堀跡(庚申堀)、竪堀、この他に復元遺構として主郭土塁及び堀跡、竪堀など |
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群馬県指定史跡 1999年4月30日指定 |
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2007年12月24日、2008年2月1日 |
( 2007/12/24 撮影 ) ⇒平井城の詰城と考えられている平井金山城(平井城主郭よりの遠望) |
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「◎」印のあるものは2007/12/24の撮影で、それ以外は2008/02/01撮影
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・西平井地区の南端、鮎川左岸の河岸段丘上に所在し県道173号線が南北に貫通しています。 ・主郭復元土塁北側に駐車場、トイレ設備あり。 |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) 「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
⇒歴史的経緯の記述、縄張図、地理的説明、周辺支城の解説、文化年間の城絵図(口絵)等の諸点で有用 所収されている幕末文化年間の城絵図によれば、主郭の北・東部分に土塁、堀跡が描かれるとともに、その堀跡の深い様子や北東部が二重堀の構造で堀障子の跡が残っていたことなども記されています。また、主郭には平岩山平井寺文殊院が所在し檀家総代として中世の在地領主の系譜に繋がる高山氏の名も見ることができます。また縄張り図についても現在の道路状況を重ね合わせて作成されているので非常に分かりやすい内容となっています。 「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)⇒基本資料の一つで歴史的背景の記述も詳しい 「藤岡の文化財探訪」(1999/藤岡市)⇒主郭部分の詳細な推定図あり 「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)⇒平井金山城と一体となった俯瞰図が便利 「藤岡市史 原始・古代・中世資料編」(1993/藤岡市)⇒簡潔な解説と縄張り図付 ■復元部分を含め平井城全体を時間をかけて現地踏査する場合には、次の4点の資料を持参すると便利かと思われます。 「藤岡の文化財探訪」から21ページの主郭跡周辺概要図(拡大コピーならば更に便利) 「図説群馬の歴史」から143ページの平井金山城を含む俯瞰図 「藤岡市史 原始・古代・中世資料編」から997ページの平井城縄張図 「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)図91平井城縄張概念図 「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)⇒簡潔な解説と縄張り図付 「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)⇒基本資料ですが記述の古さと誤りが難点 「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市) 「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市) 「関東の城址を歩く」(西野 弘道 著/2001/さきたま出版会) 「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社) 「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社) 「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社) 「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)・藤岡市の公式HP 「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館) 「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ) ■「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社) 簡略な歴史的経緯の記述とともに、古記録、軍記物などの関連資料が明記されています。これによりますと、「文明年間上杉氏が築いた東国の名城であったが、天文20年に北条氏のために破られ、勢威を揮うことおよそ70年であった。主郭の跡にはかつて文殊院が所在したが仙蔵寺に合併され、現在は的確に指定すべき遺跡は殆ど存在せず、僅かに本丸北東の一角に土塁が少し残っているのみである。地元の人々はこの付近を笹曲輪と呼んでいる」(一部文体・表現を変更)と記され、90年ほど以前の大正時代の前半頃には、既に目立った遺構が存在していなかったという城跡の状況を確認することができます。 ■「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集) 同書に収録されているされている明和7年(1770)に編纂された「諸国廃城考」によれば、「応仁元年上杉顕定の時代に平井城が築城され、古河公方足利成氏と合戦に及んだ」との旨が記されていますが、その当時の遺構などの様子については直接言及されてはいません。 ■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会) 1760年頃の宝暦年間に編纂されたと推定されている「上州古城塁記」によれば、「上杉憲方を祖とする山内上杉氏の居城で、その7代の後裔である上杉顕定戦死の後養子の憲房が平井に在住し、その子上杉憲正は天文20年3月の神流川の合戦で北条氏康に大敗したため平井城を退去し越後長尾景虎の庇護を受けた。天文21年4月景虎は越山して平井城を奪還し、その後関東での戦略拠点とした。しかし、永禄2年10月に平井城が要害の地ではないことから廃城として、その後は厩橋を拠点とするようになった」と記されています。この辺りの記述については、主に「関東古戦録」(1726/槙島昭武 著)を引用しているものと考えられますが、史実としては、一般的に永禄3年越山の際に平井城を奪還し、その直後に廃城にしたとの説が有力であるとされています。 なお、同史料集には「上毛古城記」(編者の山崎一氏によれば天保年間に編纂されたと推定)も収録されていますが、平井城については上杉憲実、上杉憲政などの人名について断片的に記述されている程度に過ぎず、城跡遺構に関する記述を欠いています。 ■「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) 同書収録の「上毛国風土記」によると、「鎌倉の執事安房守上杉憲顕の三男右馬亮憲英より5代にわたり居城し、上杉修理大夫憲政の時北条氏康に滅ぼされ越後の長尾景虎を頼った際に廃城となったのではないか」と推測されています。なお、初代城主とされる右馬亮憲英については不勉強のため今のところは仔細不明です。 ■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)−1976に関東資料研究会により復刻されたもの− 「鎌倉九代記」「関東古戦録」「諸国廃城考」「甲陽軍鑑」「続太平記」などから平井城および上杉憲政を始めとする山内上杉氏に関する事跡が引用されていますが、編者の見解を明示するという姿勢が見えず、また全体として史実としての検証に重きを置いていないという傾向が感じられます。 ・2008/02/11 HP暫定版アップ
・2008/02/13 記述の追加訂正 |