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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/30のブログ 清水山城 東平井の砦
所在地
 群馬県藤岡市駒留字印地ほか
歴史、人物、伝承

上杉景勝の伝承
 現地解説版にも記されているように古くは平将門の家臣が築城したという伝承があるとのことですが、この点についてはあくまでも関東各地に伝わる将門伝説のひとつとして捉えるべきものかも知れません。
 また戦国期には後北条氏によって本領の上野を追われた関東管領山内上杉憲政を庇護した越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が、天文21年(1552)に長尾景虎(後の上杉謙信)が後北条氏から一時的に平井城を奪還した際、後の上杉景勝となる養子の喜平次が布陣したとも伝わり、このことから別名を「喜平次の城」ともいわれているようです。このことについては「関八州古戦録」の記述が元となり、「上州古城塁記」さらには「日本城郭全集 3」などに引用紹介されていったものと推定されます。
 もちろんこの点については「藤岡市史」などにおいても記されているように、あくまでも史実として関東へ本格的に越山し平井城を奪還したのは永禄3年(1560)のことであるとされ、しかも後の上杉景勝は永禄3年当時でさえも未だ4歳の幼児であるため、おそらくは「関八州古戦録」の誤伝による記述として捉えても差し支えないものと考えられます。加えて、少なくとも天文21年の段階では本領である越後国内の状況も極めて不安定で、北条、大熊氏などの国人衆の反乱及び北信濃方面での武田氏との抗争(三次にわたる川中島合戦)などのため大規模な軍事行動を起こすことは困難であったとの背景を指摘することができます。
 そうしたことはさておき、確かに子王山城(皇凰山とも)からは平井城方面が丸見えとなることから、攻城側にこの場所を確保された場合にはかなり不利なことになることだけは間違いがなさそうです。そうした意味からも逆に上杉、武田、後北条の各氏の間における平井城の争奪をめぐって、城側が物見として利用していた可能性も十分に考えられますが、無論あくまでも推測の域を出るものではありません。

確認可能な遺構
 主郭、二の郭、堀切、腰郭 
 ⇒地理的な条件から平井城、平井金山城、高山城などの位置関係を俯瞰できる特徴があります。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年12月30日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/30 )
 年末の小雨そぼ降る階段登り
 暮れの多忙な時期に群馬遠征ミニオフが開催。始めの三ツ山城はルートの難易度を別にすれば、まずまずの成果というところでした。ところが高山氏館辺りから次第に小雨模様に変貌。2番目の目的地であった清水山城の麓では、土砂降りとまではいかないものの完全な本降りとなりました。本日はこれまでかと半ばあきらめつつ、とりあえずは雨の中を比較的登りやすそうな子王山城目指して移動することになりました。登り口のある峠の「みはらし茶屋」は、残念ながら無情にも冬季休業中の張り紙が。それならばと、建物の陰で北西の冷たい季節風を避けながらほんの少しだけ腹ごしらえ。このときメンバーの一人が朝からほとんど何も食べていないことに気づき僅かな食料を分配。最初の三ツ山城で足首に全く力が入らずヘロヘロになり、全く気が回らぬ不肖の呼びかけ人をお許しくだされ...
 さて風が吹けば桶屋が儲かる..ではなく、山では天候の回復が期待できるはず。はからずもささやかな経験の通り、次第に空が明るくなりはじめ雨の降り方も大分小降りに。かくして小雨模様の中、濡れそぼった比高差80mほどと思われる400段の階段を黙々と登攀..もとい意識朦朧として彷徨... あ、他のメンバーはものすごく元気にて、あらためて20歳近くの年齢差というものは実に大きなものがあることを痛感した次第なのでありまする。ここでまたしても管理人は何度も足が止まり忽ち息切れする始末で。酸素不足のため完全に頭の中が真っ白になりつつも、それでもどうにか山頂の主郭へと到達に成功。
 次第に北側の赤城山方面の見通しが良くなり、肌を刺すような季節風が吹き付けるほど確実に天候回復の兆候を実感。主郭の所在する標高550メートルを有する山頂は、北側の眺望が格段に優れ、遠く赤城、榛名、日光連山を望むとともに、平井城、平井金山城、高山城、東平井の砦、清水山城、三ツ山城などがはるか下方に。これらの拠点の動向を見定めるには誠に十分すぎるくらいの眺望と比高差を有しているのでありました。

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子王山城
( 2007/12/30 下日野に所在する馬留城山麓の公民館より撮影 )
訪城アルバム
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南側からの子王山城
凸1 北側からの景観     (2007/12/24 撮影)
 手間への平地との比高差は優に300mを数え、こちら側から登ることだけは何としても避けたい殊更に目立つ峻険な地形は威圧感が溢れていました。このため地形的には、「高山城」「平井金山城」という存在が、その陰に隠れて目立たないことこの上ないという景観でありました。
 但しこの撮影の際には群馬方面初訪城という事情から、平井城の詰城とされる平井金山城と勘違いをしていたのが真相なのであります。因みに上記の「記念写真」の画像については、この画像とは反対側の南側から撮影したものです。
凸2 南側の登り口
 こちらから登っても丸太の階段が400段。2千階段に比べれば遥かに楽かも知れませんが、実際に登ってみると近年極度の心肺機能低下の身なれば、これがなかなか堪えるのでありました。
 冬場れの晴天時ならばその眼前に赤城・榛名・日光連山などの大パノラマが展開することは必定。つまり鮎川沿いの日野谷の往還を監視するとともに平井城とその支城の大半を睥睨できる立地条件を備えていることは間違いありません。しかし佐久方面からの侵入ルートは主に碓氷峠、十石峠、内山峠あるいは田口峠方面であると考えられ、直接信濃との国境に接していないことから日野谷のルート〜の侵入については考えにくいものがあります。
登り口の心和む石像

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凸3 三ツ山城方面
 午前中に3時間以上の時を費やし攻略した道なき名もなき山城跡も、この子王山城の主郭から見る限りはただの起伏の激しい尾根筋にしか見えないのが何処か悔しいのであります。
 また後日攻略に成功した「清水山城」は、この画像から見ても分かるように周囲を高山で取り囲まれた実に立地条件に関しては不思議な山城なのでありました。
清水山城
凸4 平井金山城方面
 先日必死になって登った平井城の詰城とされる平井金山城もはるか下界に見下ろすことができ、その城側の動きは一目瞭然となります。あらためて当地の地形上の優位性が非常に際立っていることを実感できたのでありました。
 いずれにしても平井城、平井金山城を攻防に当たっては、確実に押さえておかねばならない要衝であることは間違いないようです。

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凸5 高山城方面(要害山、天屋城、西側砦群を含む)
 このように俯瞰して見ますと、ゴルフ場の敷地内ではありますが、天屋城西側尾根筋に所在する武田氏が普請したとされる砦群跡も完全に消失しているという訳ではなかったことが分かりました。
 然しもちろん西側の砦群の部分は地形的には完全にゴルフ場の中に孤立している状況であるため、残念ながら立ち入ることはできないようです。いっそのこと平日ゴルフにでかけ、恰も打ち損なったようにして何気なくボールを探しに...
凸6 主郭
 清水山城、三ツ山城方面も確実に俯瞰できますが、この余りにも狭隘な山頂は物見の役割を果たすことはできたとしても、二の郭を含めて在城できそうな兵力はどんなに多く見積もったとしても数十名が限度と考えられます。
 また、北側の平地との比高差は優に300mを測ることから、下山するのにも細長い尾根筋の山道を一列縦隊により行軍しなければならず、先頭が到着するまでには最低でも30分くらいの時間を要するものと思われます。従って攻勢側にとって軍事行動を前提とする大規模な兵力を展開するには、明らかに機動性を欠き相応しくないものと考えられます。

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「堀切」の西側からの画像へ
凸7 主郭
 僅か直径10mほどの楕円形の主郭を北西側から見上げたもの。
 時代背景に関する歴史的な考証を別にしても、この狭隘さでは上杉景勝が平井城奪還のために別動隊を率いて布陣するにはかなりの無理がありそうです。しかし永禄年間の初めに越後上杉氏が一時的に平井城を奪還したとされる際に、物見のための砦として少数の兵を配備したということは考えられなくもないのかも知れません。
画像クリックで城跡の由来(伝承)へ
凸8 主郭と二の郭の堀切跡
 長年にわたりハイキングコースとして踏み固められてきたためかどうかについては定かではありませんが、自然地形の鞍部との違いが些か分かりにくくなっているという印象が濃厚なのでありました。

もっとそれらしく見えない南側からの堀切跡画像へ

二の郭
主郭南西の腰郭
凸9 二の郭
 主郭の北西に所在する二の郭は幅約10m、長さ20m弱の規模がありますので、仮に風雨を凌ぐための小屋がけを行うとするならばこの場所くらいしかなさそうです。
西側から眺めた二の郭
凸10 主郭南西部の腰郭付近
 直接二の郭へとつながっている腰郭(もしくは帯郭)で、小さな建物は赤城山を御神体とする北向きに祀られた小祠。
テレビの受信アンテナが所在する東側の腰郭
交通案内

・「みはらし茶屋」附近からは比高差90m前後で上り15分から20分ほどを要します。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)
「関八州古戦録」(槙島昭武/教育社)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「戦国期東国の大名と国衆」(黒田 基樹 著/2001岩田書院)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「上杉謙信」(2005/矢田俊文/ミネルヴァ書房)
「定本上杉謙信」(2005/高志書院)
「上杉氏年表」(2007/高志書院)

・2008/01/29 HPアップ
・2008/01/31 記述訂正追加
・2019/05/29 画像ズレ補正など
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