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千葉県本埜村の城館索引へ戻る 中根遺跡遠景、画像クリックで拡大...って、「隠しリンク」かとも 中根遺跡 中根遺跡の土塁状地形
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 中根城 荒野城山 荒野の土塁 笠神城
所在地
 千葉県印旛郡本埜村大字中根
歴史、人物、伝承

加藤三兄弟の伝承と、門屋敷の通称地名
 北端の中根城と同じ地続きである台地上に所在していることから、その関連性が窺われますが、中根城そのものと同様にその歴史的経緯等は不詳とされている殆ど無名に近い存在です。空堀、土塁、腰廓、切岸等の遺構と推定される人工的地形が、比高差約20mほどの台地南端部に残存し、同地には板碑が複数所在していることなどから中世、とりわけ戦国期のものと推定したいところですが、東隣の耕地化された部分での台地の広がり方が些か違和感を感じさせます。
 近世以降に編纂された軍記物の「東国闘戦見聞私記」「東国戦記実録」などの記述によれば、「天正3年の冬に中根帯刀と及び嫡子中根主税が、原肥前守方として小林・笠上(笠神)城の合戦に加わり帯刀が討死を遂げたこと、或いは嫡子中根主税が松虫寺、萩原の切所において豊島、土岐勢の攻撃を一時支えたのちに、自らの館に立ち寄った旨等」が記されています。
 無論、「軍記物」に共通する誇張的な表現が随所に散見され、同時代史料としての裏付け等もないことから信憑性を欠くものとして捉えるべきであるものでありましょう。しかしその一方において、小林城・笠神城あるいは合戦で焼失したとされる龍腹寺との相互的な地理関係については、「中根城」以上に極めて関連性の強い要素を有しているという側面も見逃せません。
 とはいうものの、この「館」については「中根城」を指すのか、あるいはこの「中根遺跡」を指すのかという論点については、その事実関係を含めて余りにも史料不足であることから棚上げせざるを得ません。
 当該地域は戦国時代後期には原氏の支配領域であったとされていることから、「中根城」と同様に、同氏の影響下に置かれた在地領主階層(例えば「中根氏」とされるような土豪階層)の何らかの拠点であったことも想像することは可能かとも思われます。「中根」の地名は慶長7年(1602)の検地帳に「印西庄中禰(本来の部首は旧字体の示偏)郷」と記され、「元禄郷帳」によれば592石余と記されています。
 なお、もしも仮に中根城と関連する存在であるとすると、南北約800m、東西約600mにも及ぶ独立台地上に所在しているという地理的な条件を有していることから、近世以前における内海・湿地帯地形に囲まれていたという説を斟酌した場合には、本佐倉城のような台地全体に及ぶ大規模な城郭、あるいは土豪階層の居館を中心とした被官階層となる集落の存在なども考慮しなくてはならなくなってしまいます。
 そうなると、臨時性、緊急性を伴った小規模な砦の類のようなものではないといった可能性をも追及することとなりますが、こうした憶測に憶測を重ね合わせた上での論理の飛躍については避けることが妥当なものと考えられます(笑)
 この遺構に関しては県教委の調査報告書では収録されていませんが、「本埜の歴史」では「戦国時代には加藤三兄弟の一人が他所より移住した」との伝承とともに、この辺りの地名として門屋敷という小字名を残す中世的景観を伝える存在として取り上げられています。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、帯廓、腰廓状の各地形
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 10時00分から11時00分
訪城の記録 記念撮影

 中根城との関連性は
 「中根城」が所在する同じ丘陵地帯の南端部に所在。前回はその地形の特徴から何となく気になりつつも、時間の関係で踏査を見送った次第。しかし地図等に記された集落内の道と現地の道路事情がいささか異なる模様のため、忽ち方向感覚を喪失する管理人(汗)
 それでも漸く台地へと続く坂道を確認。車から降りて航空写真などの資料と照合し現在位置と方位などを確認。すると視線の先の畑の端には明らかな土塁上地形が現存。あらためて手持ちの資料を暫し眺めて位置関係等を特定。
 南東側土塁の延長距離少なくとも80m前後の規模で、その実質的な高さは外側では最高で3m以上の個所も存在。また、北西側にも同様の土塁が恰も城壁の如くに屹立。この方面に関しては切岸としての高さは5mから6mに及ぶような壮大な景観に。
 土塁の外側には空堀も所在し結果的に堀上土塁となっている部分も。また南側を中心として地元の方々の古い墓地と板碑も存在。航空写真などにも示されているとおり、遺構の東側が畑として耕作するために森林が大きく切り開かれていることから陰鬱な印象は希薄。とはいっても西側斜面の方は晴天の真昼でも相当に薄暗い森閑とした竹林。予め携行していた一脚+手ぶれ補正レンズ+ASA400でどうにか撮影可能となる明るさ。
  なお北東方向の神社まで移動を敢行するも密生した竹林に前進阻まれて敢無く撤退し、結局踏査できたのは南西部分の土塁・空堀のみという結果に。ただし、先に訪れた「荒野城山」よりも、中世城館としての印象がより強く感じられるのでありますが、無論中世のものと推定される板碑などが所在しているとはいえ、その一方で所謂「近世の野牧」等として使用されていたという側面も否定しきれないのかも知れません。

( 2009/11/03 記述 )
「中根遺跡の土塁状地形」 ⇒ 画像クリックで拡大します
中根遺跡南西部の土塁状地形 画像−A−
( 2009/03/02 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますが、あくまでも極めて大雑把なものです。なお、概念図自体は「本埜の歴史」掲載の略図を基本として、現地での印象に合わせて訂正を加えてあります。

中根遺跡(門屋敷)の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
中根遺跡南西部の土塁状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
不詳の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 土塁状地形
 北西から南東にかけて残存する土塁状地形ですが、南東端部分については、徐々に耕地化等により消滅しかかっているという印象でありました。
⇒1-1北西側から南東方向
⇒1-2南西側外部から
⇒1-3南西側外部から
※おまけ⇒「畑の根切り溝」かとも(笑)

凸2 不詳の地形
 2-1南西部の板碑が所在する地点へと続くルートで、少なくとも画像中央の道の右側部分については明らかに人工的な土塁状地形を形成していますが、一概に中世城館に直接的に関連する遺構であるかどうかについては判断をしかねます。
 ただし掘り窪められた道部分の土量よりも遥かに多い分量の土で固められてるらしい、ということだけはどうやら間違いがなさそうですがその年代については全く不明です。

「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 土塁の西側コーナー部分
 堀底からの高さは約3mほどを測り、画像「4」の地形へと続いています。
⇒3-1横堀のコーナー付近
⇒3-2土塁の西側コーナー手前付近

凸4 横堀か
 画像向かって右側が郭の切岸部分、中央が横堀で、その左端は土塁...としか見えない地形なのでありました。

「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 やはり横堀としか
 この部分だけを観察した限りでは、「中根城」の主郭と土塁を伴う横掘(空堀)と酷似しています。
 もしも仮に中根城と関連する存在であるとするならば、南北約800m、東西約600mにも及ぶ独立台地上に所在しているという地理的な条件がありますので、近世以前における内海・湿地帯地形に囲まれていたという事情を斟酌した場合、本佐倉城のよう周辺の台地全体に及ぶ大規模な居館あるいは被官階層の集落の存在なども考慮する必要性も発生してしまいますが...
凸6 切岸と帯廓状地形
 画像「5」の地点から横堀と帯廓状の地形を経て北東へ約100mほど進んだ辺りですが、この付近の切岸としての高さは約5mから6mほどの規模を有しておりました。
 その北西側には、このようなやや幅の広い帯廓状(一部は腰廓か)の地形に続いていますが、八幡宮(大六天)の200mほど手前の地点で、突如として藪の密生度が飛躍的に上昇。このため思うように体が前へと進めず、結局はこの後の予定のせいにしてすごすごと撤退する羽目に。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)

■郷土史・歴史関係
「東国戦記実録」(小菅與四郎1926初刊/1971影印版/崙書房)
 茨城県筑波郡足高村(現つくばみらい市)の小菅與四郎(こすげ よしろう)氏が、「東国戦記」と呼ばれていた常総の戦国時代について記された軍記物をベースにして、明治末期から大正末年にかけて補訂を行い大正末年に編集刊行したもの。
 底本とされる近世において流布していた「東国戦記」の原本(「写本」のみ現存)については、「国立国会図書館」では未所蔵ですが、「国立公文書館」および「東大史料編纂所」に写本(「異本」か)の一部などが現存するとのことです。ただしこれら現存する写本と同一のものを使用したのかについては定かではない模様です。
 下記の「東国闘戦見聞私記」も同様ですが、試しに音読してみたところでは正に「講談調」そのものでありました。(「国立文学研究資料館の公式HP」「国立公文書館の公式HP」「伊奈町史−史料編1」等を参考)

「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社)
 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ません。文体は些か異なりますが、その内容については上記の「東国戦記実録」と共通するものとなっています。
 この部分については、その大半を下記「戦国軍記事典 群雄割拠編」より引用しました。

「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■史料
なし

■その他
なし

・2009/11/03 HPアップ
・2009/11/04 誤字脱字訂正
・2019/06/24 画像ズレ補正
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