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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 荒野の土塁 中根城 笠神城
所在地
 千葉県印旛郡本埜村荒野
歴史、人物、伝承

荒野氏?の居館?
 「本埜の歴史」の記述によると、あくまでも中世における遺構であるかどうかは不明であるとされていますが、「城山」のほかに「関所」「関所堀」「木戸作」などの伝承地名が残されている地域であるとの事実を示すとともに、中世に遡及すると推定される「龍腹寺から「栄福寺」への」への旧道がこの付近を通過していたという可能性についても示唆をしています。
 また長禄2年(1458)3月21日、「本土寺過去帳」にによると「印西荒野殿父」である道悦入(武士階層か)が死去したこと、「印西カウヤノトノ父」とする妙善尼(「本土寺過去帳」地名総覧)がいたことなども記されているとのこと。
 これらのことから同書にも示されているとおり、やはり下記の土塁状地形などが「城山」あるいは「荒野氏」(こうやし)を名乗る武士階層(土豪)が存在し、かつこの遺構に一定の関わりを有していたことは想像に難くはないものとも考えられますがどうなのでしょうか。

確認可能な遺構
 土塁、空堀?、小口?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 9時00分から9時30分
訪城の記録 記念撮影

 熟年は「荒野」を目指す
 「荒野の土塁」(仮称)を彷徨っていたために1時間遅れの仕切りなおしでした。今度は携行している関係資料に基づき、入念に地形確認を実施いたしました。これにともない100%間違いの無い谷津田沿いの道も確認し、主谷から北西方向分岐する小さな谷筋方面もしっかりと確認いたしました。
 ただし孟宗竹、真竹、篠竹などが鬱蒼と生育する昼間でも薄暗い環境であります。加えて雨天続きのために足元の状況は泥濘寸前でもありました。所在すべき谷筋自体は確定していても、肝心の遺構の具体的所在地は見当もつかず完全に不明という状態に陥りました。
 ここで竹薮突入モードへと変身をして、すなわちゴーグル、ヘルメット、作業用手袋など一式を装着し藪漕ぎ対策準備万端となりました。谷底より3mほど上の斜面へと這い上がり、まずは方位磁石を頼りにして北西方向を目指して踏査を開始しました。
 視界は密生する竹類(孟宗竹+アズマザザなど各種混在)のため最長でも10m前後もないような事態ではあります。それでも幾分視線を低くすると多少は視界が開けることと地上の地形の様子が多少でも掴めることから、時々腰をかがめては竹林内部を凝視することとしました。ところが10分ほど経過しても、なかなかそれらしい地形が見当たりませんでした。しかし別途平地林の山道らしい地形を確認できました。確かに50cmほどの段差も存在するものの、あくまでもかつて里道などとして通行していたことによる地形であるらしいことは、この地域を全く理解していない管理人さえも判別できるような人工的地形なのでありました。
 このようにして北側崖線に沿って少しずつ西側へと移動を開始しました。とはいうものの竹薮と荊の障害物を迂回しながらの行動であります。いくらもしない内に西側に所在する資材置場などとして利用されている開けた部分へと到達。ここで先ずは地名としての「城山」の位置自体を把握することに成功しました。
 今度はその場所から当初とは反対を谷筋沿に沿って東進。するといくらも進まないうちに左岸(北側、比高差2m弱)の斜面に、事前に入手していた資料どおりの馬蹄形状に開けた土塁地形が出現いたしました。つまり何のことはなく先ほどの資材置場の南端部に、そのまま隣接しているのでありました(恥)。
 肝心の土塁状地形の規模については、およそ30m×40mの方形で南辺の谷沿いが開口し、その高さは郭内で目測1mから1.5mほど。北辺部分だけには二重土塁、二重堀?のように思われる地形も存在。
 「本埜の歴史」に掲載されているとおり、やはり中世城館関連遺構と即断するには資料不足の感も否めないようにも感じます。これは郭内の規模の余りの小ささと南側緩斜面とはいうものの、立地条件の問題(日当り劣悪)などもあるようにも思われます。
 また、この地方に多い野牧との関連があるのかとも思われますが、それにしては規模が小さすぎるようにも。竹薮の踏査のためにかなり長い時間をかけていたように感じたものの、実際の所要時間は僅かに30分。見通しの悪い薄暗い竹薮内では、方向感覚だけではなく時間の観念さえも危うくなってくるのでありました。

( 2009/10/19 記述 )
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
西側土塁状地形 −画像A−
( 2009/03/02 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが極めて大雑把なものです。
 なお、概念図自体は「本埜の歴史」掲載の略測図を基本としつつ、周辺の地形については「電子国土」「ゼンリン」などの情報より再構成し必要に応じて一部訂正を加えてあります。

荒野の城山概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
南側からの谷筋の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大
荒野城山東方の旧道乃至は里道 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 谷筋からの遠景
 画像左側の地形が字「城山」と呼ばれる一帯で、その西側の半分ほどは畑として開墾されておりました。
 また土塁状の地形が所在しているのは、この主谷の右側沿いにつづく道をトボトボと辿って水田の真ん中に石祠が所在する地形を過ぎた辺りから谷(水田)を渡り西側からのびる支谷の北側をそのまま進むこととなります。
支谷入口付近の崖線部分
凸2 旧道
 「本埜の歴史」に記載されている中世に遡る「旧道」であるのかどうかについては定かではありませんが、幅員が約1間以上もあることからかつては主要な道であったようにも思われます。
 画像右側の地形については、確かに50cmほどの段差が存在していますが、あくまでもかつての旧道などとして整備通行していたことによる地形ではなかろうかとも考えられます。

西側の土塁状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
東側の土塁状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 西側の土塁状地形
 西側の土塁の高さは最高でも内側で1.5m、延長約40mほどで、この西隣の山林は伐採整地されて建築関係の資材置場などとして利用されていました。
 土塁状地形北側竹林には空堀を挟んだ二重土塁のようにも見えなくもない地形を確認することができますが、何分にも見通しが利かないのでその詳細については不明です。
⇒画像3-1二重土塁のようにも見える地形
凸4 東側の土塁状地形
 土塁状地形の高さそのものについては、この東側部分の方がいくらか高く開発の直接的な影響を受けていない分その形状も明確です。
 また南側の谷沿いを除く三方を囲まれた30mから40mほどの台形状をなし、郭内の平坦地は概ね緩斜面のままとなっていました。
⇒画像4-1外側から撮影した東側の土塁状地形
⇒画像4-2北側土塁状地形中央部の切れ目(小口?)
⇒画像4-3南側より北側土塁状地形と郭内の様子

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
なし

■郷土史・歴史関係
「本埜の歴史」(2008/本埜村)

■史料
なし

■その他
「電子国土」など

・2009/10/19 HPアップ
・2019/06/24 画像ズレ補正
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