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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
千葉県本埜村の城館索引へ戻る  中根城の遠景 中根城の主郭北西側土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/02/18のブログ 
所在地
 千葉県印旛郡本埜村中根字城山
歴史、人物、伝承

原氏の影響下にあった土豪階層の城館か
 歴史的経緯、城主名は不詳とされる半ば無名に近い城館跡ですが、戦国期のものと推定される主郭、帯郭、空堀、土塁、小口?等の遺構が比高差約20mほどの細長い舌状台地先端部に良好な状態で残されています。
 近世以降に編纂された軍記物の「東国闘戦見聞私記」「東国戦記実録」などの記述によれば、天正3年の冬に中根帯刀と及び嫡子中根主税が、原肥前守方として小林・笠上(笠神)城の合戦に加わり帯刀が討死を遂げたこと、或いは嫡子中根主税が松虫寺、萩原の切所において豊島、土岐勢の攻撃を一時支えたのちに、自らの館に立ち寄った旨等が記されています。
 無論、「軍記物」に共通する誇張的な表現が随所に散見され、同時代史料としての裏付け等もないことから信憑性を欠くものと捉えるべきであると考えられますが、その一方において、小林城・笠神城あるいは合戦で焼失したとされる龍腹寺との相互的な地理関係については、極めて関連性の強いものとなっていることも看過できません。
 合戦の規模は別として、岡見・土岐勢力と原氏との間における戦国時代における領国紛争としての小競り合いが、こうした「軍記物」という形式でデフォルメされつつ伝承されたものであろうと推定されます。
 なお戦国時代後期には原氏の支配領域であったことから、同氏の影響下に置かれた在地領主階層(例えば「中根氏」とされるような土豪階層)の防御拠点であったことも想像に難くはありません。「中根」の地名は慶長7年(1602)の検地帳に「印西庄中禰(本来の部首は旧字体の示偏)郷」と記され、「元禄郷帳」によれば592石余と記されています。
 現状の遺構からは単郭の城館とされていますが、東西の谷津が深く入り込んでいることから、台地基部に向かう細長い平坦地には直線状に複数の郭が形成されていた可能性も一概には否定できないように思われます。
 名称については小字名では「城山」で、県教委の調査報告書では「中根砦」とされていますが、このサイトでは最も刊行年の新しい「本埜の歴史」の記述に従っています。

確認可能な遺構
 主郭、帯郭、腰郭、小口、横堀、切岸、土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年2月18日 12時30分から13時40分
訪城の記録 記念撮影

 縄張図作成の実地訓練
 具体的な所在地はあくまでも推定。さらに遺構の残存状況については既に20年前の情報。加えて何よりも土地勘が皆無。従って唯一の頼りは県別マップルと事前に掻き集めた手持ちの関係資料のみという心許無い探訪。机上の調査からは北側の沖積平野へと細長く伸びた舌状台地先端部であることだけは確実。しかし肝心の舌状台地自体を特定するのが難しく。何といっても周囲にはそれらしい舌状台地が文字通り山ほど所在する地域。情報不足の場合には頼りにしている「奈良文化財研究所の文化財データベース」。然しこれもたまに??の場合があったりしますので、残るは己の山勘のみということになるのであります。
 それでも何とか漸く車1台が通行できる細道を上り、事前に当たりをつけておいた台地の根元部分へと無事到着。さて次に道路の形状、墓地と戦没者慰霊塔の所在地等から北へと進むべき丘陵を特定。一見農道のような道のため、徒歩にて200mばかり北進(⇒より正確には北北東で実際に歩いてみるとやはり農道そのもの)すると、台地は先端に行くほど幅が縮小する傾向にあることから愈々城郭跡としての確信は次第にその度合いを深めていくのでありました。
 試しに台地の東辺縁部に赴くと明らかな腰郭状地形が出現。さて、郭の台地続き以外の三方には幅の広い帯郭も付属。東側の一段下には腰郭状地形も確認。西側の帯郭の一部には土塁が残されて横堀(構堀)の形態にも見えるのであります。
 主郭の土塁は北と西の部分に高さ1.5mほどで比較的良好に残存。東側腰郭状の地形の評価によっては、単郭と見るか複郭と見るかの判断が分かれる可能性もありそうな印象も。現在のルートとしては南側からの農道に加えて、東側斜面に刻まれた山道と北側先端部に付けられたものが確認。 このうち北側のものは、後世の耕作などのために刻まれた可能性も考慮に入れるべきかとも。そうすると所謂大手は台地続きの農道の部分ということになり、一方搦手は台地東側の比較的目立たない腰郭的な帯郭により防御されたルートあたりなのかなどと憶測。多少藪があるとはいっても単郭の城館調査に正味で70分を要することに。然しその時間の大半は、縄張図作成のための悪戯書き(下書き)に消費されていたのでありました。
 なおこの日の帰りがけには本埜村役場に立ち寄り、刊行されてから間もない「本埜の歴史」を購入。こうしてあらためてその縄張りに関する公式情報の全容を知ることができたのでありますが、要するに早い話が手順が逆なのであります(汗)

( 2009/03/26 記述 )
中根城東側の切岸と帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
A 中根城東側の切岸と帯郭
( 2009/02/18 撮影 )
訪城アルバム
中根城の北西方向からの俯瞰図です ⇒ 画像クリックで撮影方向と整理番号を表示した拡大画像へ
「中根城」の舌状台地付根付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸2 中根城大手方面
 現在城郭に関連する遺構が確認できる部分は、概ね舌状台地先端の主郭と推定される個所付近に限られています。
 然しこの台地付け根周辺も城域の一部であると仮定しますと、少なくとも複数郭からなる直線的な縄張りが想定できます。その可能性を示すものとして、東側の腰郭乃至帯郭が主郭の南東方面にも見受けられます。勿論かつての農地の開墾等によるものであるという可能性も否定できません。
凸1 中根城の俯瞰図(表示番号はアルバムと一致)
 何を隠そう、実は3作目であります。1作目は舌状台地と谷津の判別がつかない代物で、2作目はアナコンダ風で、ご覧のようにこの3作目においても、多分にその面影を引きずっております(汗)
 実際には竹藪等に覆われているために、無論このようにはっきりと遺構が識別できるという訳でありません。
 従いまして、あくまでもデジカメ画像のインデックス代りの概略図のようなものなのであります。

主郭南東の腰郭乃至帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北東側の小口状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭南東の腰郭乃至帯郭
 現存する主郭部の南東に所在する幅広い帯郭ないしは大規模な腰郭状の平場ですが、主郭北東のものと比べて約10m幅が広いのが目立ちます。
 舌状台地の北東側という地理的条件からは、後世に開墾されたことによる削平地としての可能性は低いように感じられたのですが、あくまでもその性格については推測の域を出るものではありません。
 またこの地点から更に2mほど下段に小規模な半円形の腰郭状の地形も所在し、幅約7m、奥行きき3mほどの規模を有しています。
凸4 主郭北東側の小口状地形
 坂小口へと続くルートと見るべきか、それとも北東側に所在する小集落からの耕作用の山道と見るべきなのかその判断に迷います。
 その位置関係から見る限りでは、帯郭からは幾分上方からの横矢をかけることが可能であるとともに、主郭からは俯瞰した攻撃を行うことが可能であるように思われます。

仮称2の郭の平場 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北西側の帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 仮称2の郭の平場
 少し前までは耕作地であったものと思われる削平地です。主郭のすぐ南側に隣接し画像右側には高さ4mほどの人工的な切岸の跡を確認することができます。
 なお台地を横断する堀切の存在に関する何らかの痕跡については現状の地表上からは全く確認することができませんでした。
凸6 主郭北西側の帯郭
 長さ約40m、奥行き6mの規模を有し外縁部には土塁状の盛り土が存在することから、それほど明瞭ではないものの一応構堀としての構造形態を示しています。

浅い地形の構堀
主郭から帯郭を俯瞰

主郭北西側の小口状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北西側の低土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭北西側の小口状地形
 明るく見える方が主郭方面で、構堀の底に相当する位置から撮影したものです。「凸4」の個所と比較しますと、こちらの方が両脇の土塁の存在とも相俟って、より小口としての印象が濃厚なのですが。
凸8 主郭北西側の低土塁
 現存する土塁遺構の中では、この主郭北西側の土塁が最も明確な状態でに残存しています。延長約20m、高さは郭内側で概ね1mほどの規模を有しています。北側にも僅かに回り込んでいるようにも見受けられるのですが、管理人の能力ではその辺のディテールの表現が難しく。
土塁上から足元の土塁を撮影したもの
素直に真横の東側から撮影したもの

主郭北側直下の帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭南端付近と下段の帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 主郭北側直下の帯郭
 帯郭の北端での主郭との比高差はせいぜい5mから6mほどですが、斜面が急勾配のため上り下りは概ね困難とおもわれました。
帯郭の北端から麓の小集落方面の遠望
帯郭の北端
凸10 主郭南端付近と下段の帯郭
 主郭東側部分は目立たない低土塁が僅かに遺されているのですが、デジカメ画像では明確には表現ができないのであります。

仮称2の郭の畑の根切溝 ⇒ 画像クリックで拡大します
北西麓からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 仮称2の郭の畑の根切溝
 あちこちで良く見かける地形ですが、竹林などの近くに多く見ることのできる典型的な畑を保護するための根切溝のように思われます。
 然も、掘り込んだ際に生じた土が恰も掘上げ土塁状に遺されていることから、無駄とは思いつつもついつい記念撮影をしてしまうのであります。
、さらにこの東側斜面直下には主郭付近に酷似した帯郭状地形に加え、半円形の腰郭状地形も存在することから実に紛らわしい状況となっておりました。
凸12 北西麓からの遠景
 このように遠望しますと、印旛地方では何処にでも見かけることのできる比高差15mから20mほどの舌状台地のひとつに過ぎません。
 国土地理院の「電子国土」に示された地形上の要素だけで捉えるとしますと、本埜村内だけでも少なくとも20か所以上はこうした地形が存在しています。
 のちに印旛村方面を探訪した際には、さらに30か所以上の如何にもそれらしい地形が確認され、とうとう終いには収集がつかなくなってしまったのでありました(笑)
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)

■郷土史・歴史関係
「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)

「東国戦記実録」(小菅與四郎1926初刊/1971影印版/崙書房)
 茨城県筑波郡足高村(現つくばみらい市)の小菅與四郎(こすげ よしろう)氏が、「東国戦記」と呼ばれていた常総の戦国時代について記された軍記物をベースにして、明治末期から大正末年にかけて補訂を行い大正末年に編集刊行したもの。
 底本とされる近世において流布していた「東国戦記」の原本(「写本」のみ現存)については、「国立国会図書館」では未所蔵ですが、「国立公文書館」および「東大史料編纂所」に写本(「異本」か)の一部などが現存するとのことです。ただしこれら現存する写本と同一のものを使用したのかについては定かではない模様です。
 下記の「東国闘戦見聞私記」も同様ですが、試しに音読してみたところでは正に「講談調」そのものでありました。(「国立文学研究資料館の公式HP」「国立公文書館の公式HP」「伊奈町史−史料編1」等を参考)

「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社)
 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ません。文体は些か異なりますが、その内容については上記の「東国戦記実録」と共通するものとなっています。
 この部分については、その大半を下記「戦国軍記事典 群雄割拠編」より引用しました。

「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■史料
なし

■その他
なし

・2009/03/26 HPアップ
・2009/10/05 伝承、郷土史資料について記述を追加
・2009/10/08 伝承に関する記述を一部追加訂正
・2019/06/23 画像ズレ補正
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