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千葉県白井市の城館索引へ戻る  小森城遠景 小森城のバナー 小森城の小口
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/02/06のブログ 名内城 高野館 柳戸砦
所在地
 千葉県白井市平塚字小森
歴史、人物、伝承

舟入を有する城郭
 手賀沼の湖水を俯瞰したと推定される台地に占地しているが、要害性の高い所謂舌状台地の形状ではなく、東側に小規模な湾入地形を伴う台地辺縁部を城域としている。「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」において示されているように、この湾入した地形は天然の小規模な港(舟入)として活用されていたであろうことは想像に難くはない。城郭としての成立年代については高田山城における横矢構造多用の事例に比し、折歪構造の少ないことから戦国期以前の成立を示唆している。
 仮に戦国期以降の使用を前提とれば臼井原氏、或いは(手賀)原氏小金高城氏などの関与も想定される。別名を「城山」ともいう。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、帯郭、小口、土橋?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年2月6日 14時00分から15時20分
訪城の記録 記念撮影

 待望の城郭遺構 ( 2010/08/31 記述 )
 屋敷境の土塁、崖線だけの城跡、野馬土手と回った中では、この日唯一城郭遺構らしい地形と対面できました。但し近年における工業団地の造成等により、西と南側の二方向が相当の破壊を受け、北側斜面は全体として自然崩落傾向、東側郭付近は堀跡が埋まりかなり漠然とした地形になっています。全体的に藪で見通しが効きにくいことも併せて、予め用意していた縄張り図との突合作業に思いのほか時間を消費してしまいました。
 しかし北側の水田地帯からの遠景を収めるべく台地を下ったのが運の尽きでした。 強烈な寒風吹きすさぶ畦道には「イヌノフグリ」「ノボロギク」「ヒメオドリコソウ」の群生を確認しましたが、城跡探訪とは関係なく先日の降雪が残り、折からの寒風吹きすさぶなかを、接写レンズに切り替え水田の畦道に座り込み早春の植物観察と撮影に専念しておりました。この日はこのようにしてわざわざ花粉症の症状を悪化させて、神々廻(ししば)城ほかの探訪を断念したような次第です。

小森城の土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
小森城の土塁と空堀 −画像A−
( 2010/02/06 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、現地での印象などを加味して作成しました。

小森城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
主郭部北辺の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北辺の帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 主郭部北辺の土塁
 主郭北辺の土塁は藪には覆われておりますが、中央部分の一部を除いてほぼ原型をとどめいてるものと思われます。
凸2 主郭北辺の帯郭
 画像「1」の土塁から約3mほど下段の斜面に構築された帯郭状の地形で、幅2mから3mの大きさで約50mほどの長さで当座う方向に伸びています。

主郭西辺の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭西辺の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭西辺の土塁
 主郭西辺の本来の形は比高差を有する二重土塁構造でしたが、かつて西側に所在していた公営グラウンドの建設などにより、下段の土塁と空堀はその一部を除いてほぼ消失しています。また、西側斜面という性格上藪も酷く足先により遺構の有無を確認する状態でした。
凸4 主郭西辺の土塁
 主郭西辺中央付近の土塁地形について、敢えて逆光気味にして郭内側より撮影したものです。
 史跡などの文化財指定もなく、やがては消失していく運命にあるとすれば大変残念なことです。

主郭西辺の小口部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭南西角付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭西辺の小口部分
 ほぼ西辺土塁の中央付近に所在している小口状の地形です。画像に向かって右側の土塁が内側に伸びた喰い違い状を形成していました。
凸6 主郭南西角付近
 主郭南西角付近の土塁地形はそのまま交差連続せずに小口状の開口部のような空間を確認できますが、無論後世の地形改変の可能性も想定されます。

主郭南辺小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭南辺小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭南辺小口付近
 木々が叢生しやや分かりにくい画像ですが、主郭南側の小口と推定される地形です。画像の手前には空堀が所在しているのですが、やや訳のわからない画像となってしまいました。
凸8 主郭南辺小口付近
 画像「7」の個所を主郭内から撮影したもので、よくよく見ると手前の土塁のラインとその向こうの空堀を伴うラインの違いが確認できます。

主郭北東角の石祠 ⇒ 画像クリックで拡大します
小森城全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 主郭北東角の石祠
 鎮座していた石祠に刻まれた文字からは「城山稲荷大明神」というのが正式な名称のようです。付近には木製の鳥居もありますが、経年劣化により塗装が剥げ落ち恰も「○○スポット」の様相も呈しておりました(汗)
凸10 小森城全景
 城跡北側の水田地帯から撮影したもので、画像右手の西側の二重土塁の痕跡のようにも見えなくもない地形も確認できます。

北東の郭土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
南東の郭空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11北東の郭土塁
 北東側の遺構は全体としては良好とは言い難く、郭東側の一番明瞭な土塁を撮影したもつもりです。なお、画像の左側は空堀跡に相当します。
凸12 南東の郭空堀
 たんなる平地林内の草地のようにも見えますが南東側の外郭の空堀で画像右側には土塁のラインも確認することができます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
→巻末の城郭一覧には「宅地造成工事」により破壊され、土塁が一部残る」との簡易な説明がなされているが、その後の幾度かの地形改変を経た上でも、未だに主郭を中心とし残存する遺構は良好であるというべき状態を維持していると見るべきであろう。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→印旛村岩戸の高田山城との対比において、「縄張り上の類似点が多く、同一勢力の構築と考えられ」との記述については些かの疑問が残る。その一方で、印旛沼へと注ぐ神崎川水系との地理的関連性を指摘している点については興味深いものがある。因みに小森城南部に位置する白井第2工業団地南東部付近が手賀沼と印旛沼の分水嶺としての役割を果たしているが、南北の双方から谷津田地形が迫り実質的な台地幅は僅か200mほどに過ぎない。

■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「白井のあゆみ」(2005/白井市郷土資料館)
→「城山稲荷大明神」の石祠には、「旧城主豪族畑左エ門」の氏神であったとの伝承が刻まれているという。(現地未確認)
「しろいの散歩みち」(白井町役場)
→通称「城山」と呼ばれ、中世の築城と推察され犬走りと称する帯郭なる土塁がわずかに残っている旨が記されている。

「白井の地名」(2005/白井市郷土資料館)
→「小森」の字地名について籠城の意、守りの堅い意から転じたことを推定している。

「白井の伝説と文化財」
→千葉氏家臣である小森城主が、対岸にある女城主の支配する手賀城の攻略を命じられたとの伝承が紹介されている。無論史実に基づくものではなく伝承の域を出ないが、手賀地方の地域性を物語るものとして興味深い。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料

■その他


・2010/08/31 HPアップ
・2019/06/23 画像ズレ補正
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