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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  高田山城遠景 高田山城 高田山城の外郭土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 鎌苅館
所在地
 千葉県印旛郡印旛村岩戸
歴史、人物、伝承

戦国期の原氏が関わった城郭との説も
 「下総国旧事考」(清宮秀堅著/明治38年刊行)によりますと、「岩戸に高田という城あり。一町歩もありという」と記されているだけで同時代の史料も確認されず、その伝承さえも残っていないと記されています。
 外郭部分で南北約120m、東西約100m比較的小規模な部類の城郭ですが、「印旛村誌」編纂の過程で行われたと思われる昭和56年12月(1981)当時の調査(※「同書に概略図を収録」)と比べてほぼ変わりない状態で戦国期の城郭としての特徴を現在に伝える貴重な遺構です。
 なお「城郭と中世の東国」(2005)では、その築城主体について船戸城の関連から臼井原氏であろうと推定をしています。

確認可能な遺構
 空堀、土塁(屏風折、出桝あり)、土橋、小口、腰郭、帯郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 13時20分から14時35分
訪城の記録 記念撮影

 藪の中の至宝
 鎌刈館からは直線で約1.2q離れた師戸川を挟んだ対岸の舌状台地先端部に所在。ただし、間に視界を遮るものがほとんど無いとはいっても、鎌刈館が台地基部に所在することから互いに視認することは不可能な位置関係にあります。また構造上の特徴からは、築造時期に関してはある程度の年代的な時差も感じられます。
 切り立った地形の台地先端部に所在することから一見すると防御性が高そうにも思えまが、現状では思いのほか比高差が少なく北側麓から頭上の腰郭を目指して這い上がればあっという間に主郭付近に到着。尤も戦国時代当時には周囲水田地帯はある程度の湿地帯を形成していたと推定されます。また麓から見上げたよりも郭内はある程度の見通しも確保されています。とはいうもののある程度は藪に慣れていないと手や顔の擦り傷程度は不可避な状況です。
 残蔵する遺構は、大まかにいえば主郭とその外郭を形成する2郭による複郭構造。ただし主郭部分の規模はかなり小さくおよそ60m四方程度。これに台地続き部分塞ぐように2郭が西側と南側を取り巻くという形態。主郭部分の塁線折歪多用に比較して、遺構規模の大きな2郭の土塁・空堀遺構は一部に折歪と出枡が見られるものの全体的には直線的な構造であることも特徴の一つ。
  こうしたことから「城郭と中世の東国」(2005/高志書院)では、これらの遺構が同時期に普請されたものではなく、元来は単郭構造であったものを後に複郭とした可能性も指摘されていまが、この点に関しては主郭の主要部を形成している空堀・土塁の遺構規模自体が外郭のそれと比較して全体的に小規模であることもまたその特徴であるようにも思われました。
 また残念なことに周辺では樹木の土砂の採掘や伐採等を伴う人為的な地形改変が見受けられ、この藪に隠れた素晴らしい城郭遺構が果たして何時まで存在できるのかち不安を感せずにはいられませんでした。

( 2009/12/21 記述 )
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
高田山城外郭の空堀 −画像A−
( 2009/03/08 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、概念図については「中世城館報告書ほか」掲載の略測図等を基本としつつ、現地での印象などを加味して必要に応じて一部訂正を加えさせていただきました。

高田山城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
高田山城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
高田山城の主郭南側小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 高田山城遠景
 不可思議な堀跡状地形の多い鎌苅館南西部の水田地帯より撮影したものです。
 この後に向かった岩戸城は高田山城の台地の陰に隠れ、船戸城方面は多分画像の左端の台地付近に相当する筈なのですが、このように酷似した平坦な舌状台地が幾重にも重なり合っているためその正確なところは分かりかねたのでありました。
画像1-1⇒北東方向からの遠景(画像の中央部が高田山城)
画像1-2⇒結果的には、この辺りの崖を勢いに任せて小走りに這い上がるのが、主郭部への最短コースとなっていた北側の林道から撮影した崖線部分(比高差約10m弱)
画像1-3⇒東側の水田地帯からは藪も少なくなく比高差(比高差15m以上)と傾斜もあり、加えて麓には用水路も介在するため登攀と下降は避けたい水田地帯からの近景

凸2 主郭南側小口付近
 画像中央付近が土橋を伴う小口と推定され、その右側の土塁は横矢の構造で空堀方向に幾分張出し櫓台を兼ねていたようにも思われます。
 また主郭部は約60m四方ほどの方形を成し、西側にはやや小規模な折を伴う堀跡と土塁により防御されています。なお堀跡自体が相当埋没しているため、堀底からみた土塁の高さは小口西側の最も高いところでも約2.5m、浅いところでは僅かに約1.5m前後を測るにとどまります。
画像2-1⇒俯瞰した概念図を作成したために描くことができなかった主郭東側の帯郭
画像2-2⇒複雑な折を形成する主郭西側の空堀と土塁
画像2-3⇒明らかな曲線を描く主郭南西角の土塁
画像2-4⇒西側に比べると幾分見通しが良く空堀自体の堀幅も約6mとやや広く見える主郭南辺東部の空堀と土塁の様子


高田山城外郭の南側小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
南側外郭土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 外郭の南側小口付近
画像3-1⇒内郭部分のものと規模・構造の相違が明確となると考えられる外郭南小口東側の空堀
画像3-2⇒堀幅は目測では優に10m前後を測り、郭側の見かけ上の深さは5mから6mほどを測る外郭南辺東側の空堀
画像3-3⇒東側空堀底から撮影した外郭南小口の土橋
画像3-4⇒郭内から撮影した外郭南小口の土橋
画像3-5⇒外郭南小口付近から撮影した小口に対して横矢のかかる土塁と空堀

凸4 南側外郭土塁
 内郭部分と比べると遥かに構造規模が大きいということを痛感する非常に印象的な遺構です。
 仮に外郭と内郭を別の時期に築造したとすれば、未曾有の局面(後北条氏との対決或いは豊臣秀吉の関東侵攻など)に外郭の大普請を強行したようにも思われるのですが。
画像4-1⇒これ以上撮影地点を後退させると藪に遮られてしまう27mmの広角レンズでは収まりきれない大規模な外郭西側の出桝型土塁へと続く土塁の南側部分。


外郭の空堀と切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
高田山城外郭西側の出桝型土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 外郭の空堀と切岸
 画像の中央やや左上が巨大な出桝型土塁なのですが、光線の加減に加えてどうしても藪に視界を妨げられてしまうため質感が乏しくなるところがとても悲しく、この城郭の撮影に相応しい条件は恐らく「真冬の薄曇り+一脚+ASA800」なのかとも。
凸6 外郭西側の出桝型土塁
 件の出桝型土塁にを10枚以上撮影したものの大半は何れもただの藪の集合体にしか見えなかったという情けなさ。
 そうした中でその質感はともかくとして、どうにか形状の特徴を伝えていそうに思われたのが、唯一この画像なのでありました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)
「城郭と中世の東国」(千葉城郭研究会編/2005/高志書院)
⇒199頁から200頁にかけて、現存する「高田山城」の遺構について「縄張図」を含む記述が掲載されています。

■郷土史・歴史関係
「印旛村史」(1984/印旛村)
 下記の書籍については直接の記述はありませんが、この地域の戦国時代の歴史や伝承などを知る上で大変役立ちます。
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)、「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村)、「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「千葉県の歴史100話」(川名 登 編著/2005/国書刊行会)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)両書に「松虫陣場」・「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
「千葉県印旛郡誌上下巻」(1912刊/1971崙書房より復刻)、「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)、「常総内海の中世」(2007/千野原靖方/崙書房出版)

■史料

■その他

・2009/12/27 HPアップ
・2019/06/18 画像ズレ補正
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