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千葉県柏市の城館索引へ戻る  柳戸砦遠望 柳戸砦のバナー 柳戸砦空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/23のブログ 泉城 泉妙見山城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)柳戸字向台
歴史、人物、伝承

手賀城の支城か
 この地域に共通した典型的な舌状台地先端部の遺構ではなく、台地崖線と入り谷津地形を生かした単郭方形館(推定)であり、北方を意識した備えを有しているものの出桝土塁などが構築された形跡は認められないことから、城館の年代としては比較的古い時代であることも想定されます。
 その歴史的な経緯については、北東の手賀城が近いことから手賀城主である原氏の影響が考えられますが、その具体的な史料については見当たらないようです。(「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)などより)

確認可能な遺構
 二重土塁、空堀、郭、帯郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年12月23日 11時40分から12時35分
訪城の記録 記念撮影

 良好な方形遺構 ( 2010/08/19 記述 )
 六所神社東方に神社境内に付属している土塁とは明らかに様相の異なる城館関連の空堀、二重土塁(但し遺構の一部のみ)が確認されます。また土橋状地形、帯郭状地形が其々一か所ずつ認められます。城館としての形態は概ね単郭方形が想定されますが、遺構の南側部分は神社境内の整備、後世の宅地化、耕地化等により消滅しているためその全容については不明です。
 下の画像で見える部分は比較的見通しが良好な個所ですが、全体として目測ではその東西方向の延長距離は計測が不能。止むを得ず歩測を行いましたが、やたらに障害物が多いことも禍して、あくまでも推定で凡そ60m前後と大雑把な数値に止まるものです。
 なお東西の両端部ではそれぞれ南側に直角に折れ曲がっていますが、西側では20m足らず、東側でも30m足らずが残存するのみで、それより先の部分は痕跡を辿ることが困難となります。また城館の西側の防御ラインが東側に比べて弱体であるように思われますが、北側から回り込む手賀沼へと続く入り谷津を天然の防御ラインとしていたということも想定されます。
 無名に近い遺構ではありますが、保存状態そのものについては予想以上に良好という印象でした。

「柳戸砦」の空堀と二重土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
柳戸砦の空堀と二重土塁
( 2009/12/23 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

柳戸砦概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
六社神社
南西部の遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 六社神社参道
 土塁状の地形は六社神社を周囲にも確認できますが、神社普請の際に相応の地形改変が行われているように思われます。あくまでも城館遺構とはべつのものと考えるべきなのかもしれません。天照大御神、スサノオノミコト、イザナギノミコト、イザナミノミコト、ヒルコノミコト、ツキヨミノミコトの六祭神を祀る。
凸2 南西部の遺構
 確実に城館遺構として評価できそうなのは神社裏手辺りであり、この画像から東側へと伸びる土塁・空堀では無いかと考えられます。
 規模は堀幅約7m、深さは約1.5mほどを測ります。

北辺の空堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
北東部分の遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北辺の空堀跡
 東西方向に続く約50mから60mほどの北辺の空堀と二重土塁ですが、この画像の地点では土塁状の高まりが消失しかかっておりました。
凸4 北東部分の遺構
 空堀を横切る土橋状の地形ですが、ことによると後世の地形改変の可能性もありそうですが、一応崖線中段の帯郭状地形から続いています。

東側の部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
北東付近の切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 東側部分
 東辺の空堀と二重土塁ですが、この付近がの遺構が最も明瞭に遺されています。堀幅は約7m、深さは最大で約2mほどを測ります。
 このまま南側へとすすみますと、民家の宅地裏手へと続いてそのまま消滅してしまいます。
凸6 北東付近の切岸
 東辺部分には比高差にして5mから6mほどの人工的な切岸地形を確認できます。
 なお、この画像右側の掘削された地形については、当該城館を築造した際の堀跡という説もあるようですが、幅最小で30m、深さ約8mという大規模なものであることから、自然地形の台地狭隘部に手を加え活用したものと考えるべきかと思われます。

東側の帯郭状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
東方よりの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 東側の帯郭状地形
 城館の東側の斜面中段に刻まれている幅約4m、長さ約50mほどの帯郭状地形なのですが、無論後世のものであるのかも知れません。
凸8 東方よりの遠景
 遠景を撮影するために崖線下部の水路を迂回し約30分を要して撮影したものですが、叢生する樹木のために台地崖線地形の特徴が隠れてしまっています。
 現在道路の左側は埋め立てられていますが、元来は谷津田地形で往時は手賀沼の湖水に続いていた可能性も想定されます。。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
⇒下柳戸村については上野岩松氏との関係のあったこと、柳戸村の小金高城氏の領有等に関する論考がある。
■郷土史・歴史関係
「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)
⇒「城郭史」(31頁から42頁)の項は、旧沼南町に所在している中世城館に関する記述に詳しいが、残念ながら記述自体も新しくはなく縄張図等の参考図も付されてはいない。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料


■その他


・2010/08/19 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
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