千葉県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動

素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。

千葉県白井市の城館索引へ戻る  名内城遠景 名内城のバナー 名内城−粟島神社の土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/02/06のブログ 柳戸砦 高野館 泉城
所在地
 千葉県白井市名内字屋敷廻
歴史、人物、伝承

小金高城氏、手賀原氏の支城か
 手賀沼へと続く金山落の南岸の舌状台地上に所在していた城館で、時代背景は異なるものと思われますが、その対岸には柳戸砦、高野館、泉城などが指呼の間に所在しています。
 城域の南方には千葉家(高城氏)家臣伊藤左馬助守胤が永禄年間に勧請したと伝わる粟島神社が所在していることから、戦国時代の後期には小金高城氏との関係も想定されますがその詳細については不明です。
 また「東国戦記実録」の記述によりますと、「名内の台に陣」をとったとされる(手賀)原氏との関連も想定されますが、近代に編纂された軍記物という性格から考慮しますと、その史料としての信憑性には些か疑問の余地が残るものと考えられます。

確認可能な遺構
 土塁?、空堀?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年2月6日 12時45分から13時40分
訪城の記録 記念撮影

 推定地外の土塁状遺構 ( 2010/08/30 記述 )
 宅地化と耕地化などにより事実上は遺構の確認が困難です。城域の南方には屋敷構えに伴うと思われる土塁、神社の土塁などが散見されますが、 「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」に示されている城域推定地の範囲外となっていました。しかし粟島神社の土塁は神社の土塁とはいえ、台地続きの地形を隔絶する大手の構えに相応しく思えたのするのであります(笑) ほかに台地の土取り跡、耕作地造成と目される段築等も確認できますが城館に関連するものではなさそうです。
 肝心の城域中心部と目される宅地内に残る竹林内が気にかかるものの、余りの密生状態のため道路側からでは皆目視界が効きません。
 なお台地西側に所在する入り谷津の深田跡は現在も湿地帯のまま存在しておりました。このためものは試しと沈みそうな個所に試しに片足を踏み入れたところ忽ち凡そ10cmほど沈下し、要害に相応しい地形であることを身を以て実証することに成功いたしました。

土塁状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
名内城付近の土塁状地形 −画像A−
( 2010/02/06 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地での情報を基にして作成しました。

名内城周辺の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
台地東側の入谷津
粟島神社境内の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 台地東側の入谷津
 北側へ細くのびた舌状台地の東側には金山落しへと続く入谷津が深く湾入しています。ただしこの地点は粟島神社のさらに南方200m付近に所在する鳥見神社東側の地形ですので、城域の範囲外であるものと思われます。
凸2 粟島神社境内の土塁
 この神社の整備に伴う土塁かも知れませんが、その質感は大手口に相応しいように思えてしまうのです。尤も舌状台地の狭窄部はこの50mほど北側に相当しますので、城域に含むのには無理があるかもしれません。

旧家境の土塁と空堀状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
台地西側の崖線地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 旧家境の土塁と空堀
  「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」に記されている城域の推定地は、天台宗東光院より北側の台地先端部を示していると思われます。この個所も東光院より50mほど南側に相当します。
凸4 台地西側の崖線地形
 左側「3」の画像から続く崖線地形で、水田面からの比高差は最大で12mほどです。画像のように極めて峻険な形状を示し先ず直登は不能と思われ、このように崖線部を斜めに刻まれた道が残されておりました。

台地西側の入谷津 ⇒ 画像クリックで拡大します
雛壇状の耕作地
凸5 台地西側の入谷津
 城跡西側の入谷津の様子を北側から撮影したものです。以前は水田地帯の低湿地で、戦国時代頃には手賀沼の入江がのびていたいたことも想定され、現在でも場所によりある程度は沈下します。
凸6 雛壇状の耕作地
 おそらく城館遺構とは無関係で、後世の耕地整備により雛壇状を呈したものとと考えられますが、一応念のために撮影をしたものです(汗)

名内城遠望
集落内の石仏
凸7 名内城遠望
 西側入谷津の農道から舌状台地先端部付近を撮影したものです。台地としての比高差は10m前後とけっして大きくはありませんが、入谷津の深田が天然の水堀の役割を兼ねていたものと推定されます。
凸8 集落内の石仏
 「寛」の文字が読み取れる近世中期以降の建立と推定される舟形の地蔵菩薩像が、集落内の二差路の分岐に祀られていました。この地点が舌状台地の狭窄部に相当していることから、この付近を城域の南限として捉えたいところです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)

■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「白井のあゆみ」(2005/白井市郷土資料館)
「しろいの散歩みち」(白井町役場)
→「東国戦記実録」を引用し、「手賀合戦」が「天正7年(1579)4月6日に名内台の戦いを以て火ぶたが切られた」旨が記されるとともに、名内城について「砦のような出城」と推定をしている。

「白井の地名」(2005/白井市郷土資料館)
→名内城の存在と、粟島神社勧請の経緯に関する伝承が略述されている。

「白井の伝説と文化財」
→城跡南方の粟島神社は、「永禄年間(1558−1569)に名内村領主である千葉家(高城氏)家臣伊藤左馬助守胤が紀州加太粟島神社より勧請し建立した」との縁起が記されている。(「しろいの散歩みち」にも同様の記述あり)但し家臣筋である伊藤氏が高城氏の通字である「胤」の一字を拝領し諱の下の文字に加えるということは考えにくいことから、一部に誤伝を含む伝承である可能性想定される。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
 茨城県筑波郡足高村(現つくばみらい市)の小菅與四郎(こすげ よしろう)氏が、「東国戦記」と呼ばれていた常総の戦国時代について記された軍記物をベースにして、明治末期から大正末年にかけて補訂を行い大正末年に編集刊行したもの。
 底本とされる近世において流布していた「東国戦記」の原本(「写本」のみ現存)については、「国立国会図書館」では未所蔵ですが、「国立公文書館」および「東大史料編纂所」に写本(「異本」か)の一部などが現存するとのことです。ただしこれら現存する写本と同一のものを使用したのかについては定かではない模様です。従って、一般には史料としての信憑性には疑問の余地が多いものと考えられています。
→「手賀合戦」の項に臼井原氏と(手賀)原氏、高城氏の内紛の舞台として、(手賀)原氏側が防戦のため「名内の台に陣をとる」旨が記されています。

「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料


■その他


・2010/08/30 HPアップ
・2019/06/22 画像ズレ補正
トップ頁へ 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動