素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。
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2009/03/02のブログ 凸笠神城 凸荒野城山 凸中根城 凸門屋敷 | |
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千葉県印旛郡印旛村萩原字城ノ内 |
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土塁、腰廓、空堀、郭など |
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なし |
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2009年3月2日 11時20分から12時00分 |
( 2009/03/02 撮影 )
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林) ■郷土史・歴史関係 「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店) 「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村) ■郷土史・歴史関係 「東国戦記実録」(小菅與四郎1926初刊/1971影印版/崙書房) 茨城県筑波郡足高村(現つくばみらい市)の小菅與四郎(こすげ よしろう)氏が、「東国戦記」と呼ばれていた常総の戦国時代について記された軍記物をベースにして、明治末期から大正末年にかけて補訂を行い大正末年に編集刊行したもの。 底本とされる近世において流布していた「東国戦記」の原本(「写本」のみ現存)については、「国立国会図書館」では未所蔵ですが、「国立公文書館」および「東大史料編纂所」に写本(「異本」か)の一部などが現存するとのことです。ただしこれら現存する写本と同一のものを使用したのかについては定かではない模様です。 下記の「東国闘戦見聞私記」も同様ですが、試しに音読してみたところでは正に「講談調」そのものでありました。(「国立文学研究資料館の公式HP」「国立公文書館の公式HP」「伊奈町史−史料編1」等を参考) 「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社) 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ません。文体は些か異なりますが、その内容については上記の「東国戦記実録」と共通するものとなっています。 この部分については、その大半を下記「戦国軍記事典 群雄割拠編」より引用しました。 「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院) ■史料 ・岩波文庫版「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938//岩波書店)⇒1994年にリクエスト復刊された。 ⇒幕末の安政年間に完成をみた下総国布川(:現在の茨城県北相馬郡利根町)の医者である赤松宗旦の編纂による地誌。民俗学者として高名な柳田国男が校訂し解題を付したもので、巻末には簡易な索引が掲載されているものの、残念ながら余り詳細とはいえず実用性を欠く。また復刻版であることなどから、全体として印刷自体が些か不鮮明な印象が拭えない傾向にあることは否めない。 ・「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県) ⇒「利根川図志」を所収し、索引が掲載されていない、図版が更に縮小されているという部分を除けば、上記の「岩波文庫」版よりも印刷も鮮明で遥かに読みやすく、底本は第4巻末に短歌6首と俳句56句が掲載された題名が楷書体の「茶表紙」本によると記されている。 この「利根川」図誌」に引用された「常総軍記」巻20によると、「松虫の陣場」において栗林義長(あくまでも架空の人物)勢の襲来を待ち構える千葉勝胤(1470-1532)勢に萩原登弥太(「弥」の文字は旧字体、はぎわら とやだ)と名乗る人物が登場するが、近世に編纂された軍記物という性格上からその信憑性については疑問の余地が大きいものと考えられる。 (「利根川図誌」巻4より)
■その他なし ・2009/11/09 HPアップ
・2009/11/24 「利根川図誌」の項目を追加 ・2019/06/18 画像ズレ補正等 |