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素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。

千葉県印旛村の城館索引へ戻る  城ノ内城 城ノ内城 城ノ内城の腰郭
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 笠神城 荒野城山 中根城 門屋敷
所在地
 千葉県印旛郡印旛村萩原字城ノ内
歴史、人物、伝承

字城ノ内の地名
 この名称については「中世城館報告書」(県教委)から引用したもので、80m×200mの規模を有し「遺構が完存」する旨が記載され、「城ノ内」という字名が残る北側の低湿地の防御性を生かした舌状台地の北端部に所在しています。
 北方約2kmには笠神城、西方約2kmには竜腹寺、荒野城山、北西約1.2kmには中根城・中根遺跡(門屋敷)も所在し、戦国時代末期には千葉氏の流れを汲む原氏の勢力範囲と想定されることから、その庶流或いは在地土豪階層の城館であったものとも推定をされますが、その築城の経緯年代等の詳細については不明である模様です。
 「印旛村史」では、近世以降の旧村名(大字名)から「萩原城」として掲載され、その遺構の概要が略述されています。その内容は概ね現存する遺構と大差ないものとなっていますが、略測図などの縄張りが併載されていないために、この小規模な遺構の中で最も印象的な「コの字」型土塁の具体的説明部分については、現在の遺構状況とはある程度の齟齬(近年における地形の改変?)が生じているように思われました。また、「同史」にりますと、既に1970年代後半頃には南方(より正確には南西方向)の外郭部分については宅地化、耕地化が進行により遺構確認が困難であった旨も併記されています。
 また「萩原」の地については近世の「元禄郷帳」において776石と記されていることから、戦国期の生産高は谷津田耕作を中心にその半分未満ほどとであったものと想定をされます。

確認可能な遺構
 土塁、腰廓、空堀、郭など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 11時20分から12時00分
訪城の記録 記念撮影

 台地先端の城館遺構と紛らわしい堀切状地形
 城跡遺構が地元の方々の民家宅地に混在。 このため北側の土塁遺構を拝見するに当たり、まずは長屋門のあるお宅へのご挨拶が欠かせません。無論、より話を分かりやすくするために、 こちらの裏山に建立されている金比羅様の祠へお参りという説明を以て母屋脇からの道を通していただくこととさせていただきました。無論常日頃から神社・仏閣に限らず小祠、石仏、庚申塔、馬頭観音などの民間信仰には一応の関心もあることだけは紛れもない事実かと。
 さて麓から比高差にして12mほどの地点に所在する金毘羅様は、それがそのまま細長い腰郭乃至は帯廓状の人工的削平地形。そのさらに4mほど上方には、片仮名の「コの字」状の土塁並びに平場(郭)、空堀跡などの人工的地形がひとかたまりに纏まって存在しています。
 しかしその先(南側)からは、また別のお宅の敷地内へと続いている模様で、明確な中世城館関連遺構はおそらくは舌状台地北端部に集中しているものと推察を。従って、これ以上南側へと進むためには、それぞれ個別に説明・了承をいただきながら進まなければならないという状況でしたので、直ちにこれ以上の探索を断念して台地先端部分の確認作業のみに専念を。
 なお、この ほかには南西側の八坂神社境内・消防団車庫の個所から続く切通しとなった急傾斜の折を伴う坂道が、如何にも台地続きの部分から隔離するための、人工的地形である堀切の様にも見えるのでありました。ただ舌状台地の多いこの地域には、こうした地形は少なからず生活上の利便性から存在していることも事実であり、 こうした事情を勘案しますとそう一概には断定できかねる性質のものなのかも知れません。

( 2009/11/07 記述 )
「城ノ内城」の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
城ノ内城の「コの字」型土塁 −画像A−
( 2009/03/02 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、この概念図については「余湖くんのホームページ」掲載の概略図を大いに参考とさせていただきました。

>城ノ内城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
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凸1 遠景
 北側からの遠景で、麓との比高差は「印旛村史」によりますと15mほど、「中世城館報告書」では20mと記されています。
 なお樹木に視界を遮られて判然としませんが、麓からのおおよその目測では、その中間ぐらいの凡そ18mくらいというところでしょうか。
 
凸2 腰廓
 この画像の撮影地点である金毘羅宮石段の手前の削平地も小規模な腰廓地形を形成し、その互いの比高差は凡そ2.5mほどを測ります。

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凸3 空堀
 「コの字」型土塁と「画像4」の東側の郭との間の空堀の地形で、その深さは郭側では1m前後かと。
凸4 東側の郭
 「画像3」の空堀の底から撮影したもので、全体として画像左側(東側)に緩やかな傾斜が見られます。台地東側については、宅地化等によりかなり削平されている模様です。

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南側の堀切状?地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 腰廓乃至帯廓
 「画像2」の西側に広がる腰廓ですが、奥の方では次第に幅が狭まり帯廓状の地形に変わりやがて消滅してしまいます。
 この点について「印旛村史」では、この地形が「西へと回り堀まで続く」という旨が記されているものの、その「堀」についての具体的記述が見当たりません。このため消去法で考えると、「台地を二分し縦堀のように残っている」と記された「画像6」の地形を指しているようにも思えるのですが。
凸6 通称「切り通し坂」
 南西側の八坂神社境内・消防団車庫の個所から続く切通しとなった急傾斜の折(道路としては、崩れにくく登りやすい)を伴う坂道で、恰も台地と隔絶するための人工的地形(堀切)の様にも見えます。
 無論舌状台地の多いこの地域には、こうした地形は少なからず生活上の利便性から存在しているということも事実で、 こうした事情を勘案しますとそう一概には断定できかねる性質のものなのかも知れません。ただし仮に北東から南西方向にかけての遺構規模が200mであるとすると、概ねこの画像の地点に相当してしまいます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村)

■郷土史・歴史関係
「東国戦記実録」(小菅與四郎1926初刊/1971影印版/崙書房)
 茨城県筑波郡足高村(現つくばみらい市)の小菅與四郎(こすげ よしろう)氏が、「東国戦記」と呼ばれていた常総の戦国時代について記された軍記物をベースにして、明治末期から大正末年にかけて補訂を行い大正末年に編集刊行したもの。
 底本とされる近世において流布していた「東国戦記」の原本(「写本」のみ現存)については、「国立国会図書館」では未所蔵ですが、「国立公文書館」および「東大史料編纂所」に写本(「異本」か)の一部などが現存するとのことです。ただしこれら現存する写本と同一のものを使用したのかについては定かではない模様です。
 下記の「東国闘戦見聞私記」も同様ですが、試しに音読してみたところでは正に「講談調」そのものでありました。(「国立文学研究資料館の公式HP」「国立公文書館の公式HP」「伊奈町史−史料編1」等を参考)

「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社)
 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ません。文体は些か異なりますが、その内容については上記の「東国戦記実録」と共通するものとなっています。
 この部分については、その大半を下記「戦国軍記事典 群雄割拠編」より引用しました。

「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)

■史料
 ・岩波文庫版「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938//岩波書店)⇒1994年にリクエスト復刊された。
 ⇒幕末の安政年間に完成をみた下総国布川(:現在の茨城県北相馬郡利根町)の医者である赤松宗旦の編纂による地誌。民俗学者として高名な柳田国男が校訂し解題を付したもので、巻末には簡易な索引が掲載されているものの、残念ながら余り詳細とはいえず実用性を欠く。また復刻版であることなどから、全体として印刷自体が些か不鮮明な印象が拭えない傾向にあることは否めない。
「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県)
 ⇒「利根川図志」を所収し、索引が掲載されていない、図版が更に縮小されているという部分を除けば、上記の「岩波文庫」版よりも印刷も鮮明で遥かに読みやすく、底本は第4巻末に短歌6首と俳句56句が掲載された題名が楷書体の「茶表紙」本によると記されている。
 この「利根川」図誌」に引用された「常総軍記」巻20によると、「松虫の陣場」において栗林義長(あくまでも架空の人物)勢の襲来を待ち構える千葉勝胤(1470-1532)勢に萩原登弥太(「弥」の文字は旧字体、はぎわら とやだ)と名乗る人物が登場するが、近世に編纂された軍記物という性格上からその信憑性については疑問の余地が大きいものと考えられる。                                  
(「利根川図誌」巻4より)
■その他
なし

・2009/11/09 HPアップ
・2009/11/24 「利根川図誌」の項目を追加
・2019/06/18 画像ズレ補正等
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