城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HP雑記帳
参考資料等 リンク集
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当あると思います。     もしお気づきの点がございましたらご教示ください。  
関連ページへのリンク  2006/05/のブログ 中鹿山陣屋 女影氏館 三枝氏屋敷
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合24
所在地
埼玉県日高市下鹿山字内村
歴史と沿革

代官の屋敷跡との伝承が
 「埼玉の中世城館跡」には掲載はありませんが、「日高市史 中世資料編」において「内村様」とよばれ、「諏訪神社のあたりに内村という代官の屋敷があった」という伝承が掲載されています。
 このことから近世初期の幕府直轄領時代の高麗陣屋支配に関わりのある施設とも考えられますが、内村姓の代官は該当者が見当たらず、かつ高麗陣屋(高麗本郷から栗坪へ移転)からの距離の近さを考えるとその可能性は低いように思われます。また、延享3年(1746)以降は御三卿のひとつである田安家の所領となりますが、この時代のものであるならばもう少し明確な資料なり、伝承の類が残存していても良さそうに思われます。そうなると戦国時代の末期に後北条氏に従属した小規模な在地領主の居館という可能性もありますが、いずれにしても資料不足でこれという決め手を欠きます。
 なお、「小田原衆所領役帳」によれば、戦国時代の中頃には「高麗郡賀山」(鹿山)」の地は勝沼(現在の青梅市)を本拠地とする他国衆である三田弾正少弼の所領とされていますので、このことから「中鹿山陣屋と同様に」三田氏の家臣筋にあたる一騎駆けのような階層の在地領主の館跡であった可能性も否定できないものと考えられますが残念ながら何分にも推測の域を出るものではありません。

確認できる遺構
土塁?、空堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南側からのびた台地の先端部分に所在し、南側を除いて周囲は水田などの低湿地が広がり、小規模ながらも天然の要害の趣を見せているとともに、この地には現在も小字として「内村」の地名が残されています。(「日高市史 中世資料編」より)

文化財指定
訪城年月日
2006/05/22
訪城の記録

( 2006/05/22 )
とりあえずは遺構のような地形が
 「日高市史」によれぱ、下鹿山の諏訪神社境内が屋敷跡とのこと。西側からアプローチしたものの曲がり角が余りにもに負かったので通り過ぎてしまい、南側から回りこんで東側の細い道路から神社の境内の手前で停車。この神社までのアプローチの道路は幅員3m程度の急カーブのある緩い坂道。また何処からどこまでが境内なのか漠然としているとに加えて、低湿地が周囲を取巻いているような地形なので駐車場所を確保するのに暫し苦慮することに。さほど長居が必要な所でもなさそうな雰囲気だったので、結局は鳥居の前の僅かばかりの空き地のような所に駐車することに。
 しかし、祠の左側の草叢の中の踏み跡を辿っていくと高さ60cmほどの土塁状の地形が出現し、その奥にはこれに並行してやや規模の大きな溝も存在。時代背景は不詳なもののそれほど新しいものとは思われない印象。
 こうして中世あるいは近世初期の館・屋敷跡に関連する土塁・空堀跡とは必ずも言い切れないものの、なんとなくそれに近いような地形に遭遇することに成功し予想外の成果に欣喜雀躍。

 このあと湿度がとても高く空気が重たく感じてきたので、自分の低下する一方の記憶力の限界も考慮して退城決定。帰宅途中になってやっと青空が広がり始め、涼風とともに湿度も低下して5月らしい幾分爽やかな陽気に。

記念撮影



 西側からアプローチしたものの、その曲がり角が余りにもに狭くて通り過ぎてしまい、南側から回りこんで再度東側の細い道路から神社の境内へ。この神社までのアプローチの道路は幅員3m程度の急カーブのある緩い坂道で何処となく歴史を感じさせる道路形状です。
 写真の右側には水田などの低湿地が広がり、水田面と境内との比高差は3m近くはありそうでした。

( 2006/05/22 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■諏訪神社の祠
  さてこの諏訪神社では賽銭を投ずるような設備が見当たらず、石鳥居と古い祠のみの小さな神社で境内地自体もかなり狭そうな様子。このため、多分遺構らしい形跡を見出すことはとてもなさそうに見えたのですが。またいたずら防止のためか、何故か本殿に園芸用ネットがすっぽりと覆いかぶさった状態。
 この神社の由来が分かれば手掛りの一つになるのですが、「新編武蔵風土記稿」などにも記されてはいないようで、「日高市史 中世資料編」においても「下鹿山地区に所在する社寺については中世にかかわる由緒が見当たらない」としています。
■2■神社裏手の堀跡状の溝
 祠の左側の草叢の中の踏み跡を辿っていくと、なにやら高さ60cmほどの連続した土の高まりの形跡が。その場所から更に奥へ西方へと進むと、これに並行して幅約5m、深さ1m前後の規模の大きな溝も存在。正確な規模については草木の繁殖のため全容を掴めませんが、少なくとも祠の裏手に30mほどは続いているような気配。時代背景は不詳なもののそれほど新しいものとは思われず。
■3■堀跡らしき地形
 諏訪神社の北側へと続いている様子の堀跡のような地形ですが、デジカメで撮影すると結果的には叢生する草木のためただの藪にしか見えないところが辛いのでありました。
交通案内

・県道川越-日高線の高麗川団地入口の交差点から南東約200mの地点に所在する諏訪神社境内。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」高麗郡下鹿山の項には館・屋敷に関連する記述はありません。
「武蔵志」「鹿山 上中下」との村名記載のみ。
「入間郡誌」村名と村の地理的な位置の記載のみ。

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「日高市史 通史編」(2000/日高市)
「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)
 

・2006/06/10 HPアップ

PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中