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関連ページへのリンク  2006/05/22のブログ 三枝氏屋敷 女影氏館 中山氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合29
所在地
埼玉県日高市中鹿山前耕地
歴史と沿革

陣屋の主は
 「新編武蔵風土記稿」の高麗郡中鹿山村の項では、小名として「陣屋」の記述が記されているのみで、また正保年間(1644-1648)には旗本の飯田氏の知行所であったことも記されていますが、この陣屋との関係については特に記されてはいません。「寛政重修諸家譜」「武蔵田園簿」などによると甲斐国飯田出身の武田氏旧臣である飯田氏は天正10年(1582)に徳川家の家臣となります。3代清左衛門在久の時に中鹿山村全域の約156石(田60石、畑96石)を知行され全体で300石取りの旗本となっています。(「日高市史 中世資料編」より)したがって、寛永年間(1624-1644)江戸の武家屋敷が整備されるまでの間、父の2代昌在とともにこの地に陣屋を置いたことも推測されますが、その具体的な史料は見当たらないようです。
 また、戦国時代の中頃には「小田原衆所領役帳」によれば、「賀山」(鹿山)の地は勝沼(現在の青梅市)を本拠地とする他国衆である三田弾正少弼の所領とされていますので、三田氏の家臣筋の在地領主の館跡であった可能性も否定できないものと考えられますが残念ながら何分にも推測の域を出ません。

遺構名について
 遺構の名称については「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)の調査報告には掲載そのものがなく、「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)においては「陣屋跡」とされ、「日高町の歴史散歩(1989/日高町教育委員会)」では所在地名を冠して「中鹿山の陣屋跡」と記していますが、ここでは便宜上「中鹿山陣屋」としました。 

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■小畔川右岸の川原から比高3mほどの台地の先端部分に位置し、南側の丘陵地帯に続く部分を除き水田などの低地が広がり、周辺には神田屋敷、三枝氏屋敷、女影氏館、下鹿山の屋敷などが所在しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/22
訪城の記録

( 2006/05/22 )
遺構が...
 見通しの良い愛宕山の旗塚からは直線距離で700mほどなので、おそらくは北西方向の眼下に捉えられるはずと当たりをつけていたものの、さすがに岡の上からではよく場所が分からず仕舞いに。おまけに日高市の南高麗川公民館の隣という分かりやすい目印があるにも拘らず、いつものことながら道を少しばかり間違えて5分ほど付近をウロウロと徘徊。
 さて肝心の遺構はカーブを描いた長さ60mから70m、高さ2mから3mの大規模な土塁と空堀跡が所在しています。しかし、現在その直ぐ北側の隣接地で宅地造成が進行中。このため空堀跡に関してはは既に造成宅地の一部となってしまい風前の灯の感がありました。今後予想される住宅の建設により、以後この遺構の全容を目にすることは事実上不可能になるようです。周辺の道路形状から推定する限り、館跡の規模は現在宅地造成中の個所の周辺を含めて更にひとまわり大きかったようにも思われたのですが。

記念撮影
中鹿山陣屋 クリックで拡大します

 下の「2」の写真とは反対の公民館側の西側方向から撮影したもので折のついた空堀と土塁の状況が明確に窺われます。小畔川の細い支流のような用水路の流路にも繋がることから、そうした自然地形を利用したものと考えられます。住宅の完成後には多分そうした様子も目の当りにすることは難しくなると思われます。

( 2006/05/22 撮影 曇り )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
■1■陣屋跡の遺構 画像クリックで拡大
 手前の造成地とその向の屋敷林との間に総延長にして70mほどの折のついた土塁と堀跡が所在しています。本来の堀幅は上面で3間ほどの広さがあったものと思われます。- 北側から撮影 -
画像クリックで拡大します
■2■片側の部分が消失した堀跡 画像クリックで拡大
 堀跡の北側(写真の右側)が宅地の造成により消失しています。今のところでは未だある程度は堀跡であることが分かる状態ですが、そのうち住宅の建築が始まるとこの折のある空堀跡と土塁をこの方角から眺めることは極めて困難となるようです。現在でも既に堀底にはコンクリート製のU字溝が敷設されていますが、この辛うじて遺されている堀跡も他の事例などのように何れはコンクリート板で覆われた暗渠のような水路となってしまうのでしょうか。  - 東側から撮影 -
画像クリックで拡大します
■3■土塁跡 画像クリックで拡大
 堀底からの高さは低い所でも2m以上で、最も高いところでは高さ3mを超える規模を有していましたが、造成の始まる前に訪れるべきだったと今更のように後悔...それにしても堀底に降りて見上げる土塁はどっしりとした存在感を与えてくれます。
 今ならばまだ堀底に降りて遺構の様子を観察することができますが、住宅が完成すると明らかに不審者と看做される恐れがかなり濃厚かと危惧されます。
 - 西側から撮影 -
交通案内

・県道15号線の南側、日高市高麗川南公民館の南東隣
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」
高麗郡中鹿山村の小名として「陣屋」の記述が記されているのみです。また正保年間(1644-1647)には旗本飯田清右衛門の知行所であったことも記されていますが、陣屋との関係については特に記されてはいません。

「武蔵志」
「鹿山 上中下」と記されているのみで具体的記述はありません。

「入間郡誌」
「旗本の酒井伯耆守の陣屋である」との記述がありますが、残念ながら史料としての裏づけが示されてはいません。なお、酒井氏は元和2年(1616)蔵米取りから知行取りとなって秩父・入間の両郡に領地があったとされていますのでその可能性も考えられます。

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「日高町の歴史散歩(1989/日高町教育委員会)」
「日高市史 通史編」(2000/日高市)
「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)
「小田原衆所領役帳」(佐脇 栄智 校注 1998/東京堂出版)
「入間郡誌」(2003/千秋社)大正元年に出版されたものの復刻版

・2006/06/05 HPアップ
・2006/06/10 記述一部追加(「入間郡誌」関係)

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