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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/20の日記 東別府館 西別府館 別府城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合22
所在地
埼玉県熊谷市玉井稲荷木通1888付近
歴史と沿革

12世紀の中頃から12世紀末に活躍した玉井氏の館跡
 「新編武蔵風土記稿」の玉井村の条に、「玉井四郎陣屋跡」と記されているために玉井陣屋と呼ばれています。また同稿によれば、19世紀の初めにおいてもすでに農地となっていて館跡に繋がるような遺構は存在していなかった模様です。玉井氏は「成田氏系図」によれば成田氏の祖である助高の四男四郎助実が初代として記されています。
 なお同系図によれば、このとき長男太郎助広が成田氏を継承し、次郎行隆が別府氏を、三郎高長が奈良氏を称したとされ、保元物語では鎮西八郎為朝との戦いである白河夜討の条に源義朝の従兵としてこの三人の名が登場しますが、下記の「埼玉県史通史編1古代」では玉井四郎の実名を資重としています。
 また、元暦元年(1184年)平家物語の一ノ谷合戦において、源範頼の軍勢の中に玉井四郎資景(助重の誤りか)の名が現れ平通盛を討ったとされています。更に東鏡では同年玉井四郎資重が丹波の蓮華王院領を横領した旨の記述があり、文治元年(1185年)には玉井四郎助重が綸旨に背いたかどにより追放処分とされた記述もありますが、建久元年(1190年)の源頼朝入洛に際して後陣の三列縦隊の先頭から41番目の随兵として再び玉井四郎助重の名が見えます。また、承久の乱までは玉井氏の名が登場しますが、それ以降の消息については不明のようです。
 なお玉井氏はその後15世紀初めの上杉禅秀の乱に加わり事実上滅亡した模様です。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■北東に玉井神社南側に玉井寺が所在する東西方向約150m、南北方向やく200mの範囲が館跡とされているようですが、当時の遺構らしき存在を目にすることはできません。地理的には南を荒川、北を利根川に挟まれた西に櫛引台地を望む妻沼低地の西端に所在しています。
 また、北東方向に所在する東別府の城館までは慶長2年(1597年)に開削された奈良用水を挟んで僅か800メートルほどの距離にあります。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「熊谷市史通史編」(1984/熊谷市)   

文化財指定
無、ただし伝玉井四郎の墓については1954年11月3日熊谷市史跡指定。
訪城年月日
2005/09/20
訪城の記録

( 2005/09/20 )
お堂の中に井戸が鎮座
 雲行きが大分怪しくなり始めたためここはとりあえず撤退をとも考えましたが、どうせここまで来ているのならと向った先がこちらの場所。予め絶対一日ではまわることのできない分量の候補は常に用意しているのですが、この場所は単に東別府館から一番近くて、地図上でも道が分かりやすそうだったので決めただけのことです。しかし、途中で雨が激しくなり車から降りることもできず、今日に限って何故か傘の用意もしていないため、お寺の駐車場で雨が小止みになるのを暫く待つことに。館跡としての遺構は殆どといってもよいほど残されておらず、降り続く小雨の中をデシカメを濡らさぬように注意を払いながら、玉井寺の境内の玉井氏の墓所を見学することとなりました。

記念撮影
 黄色の矢印部分が玉井四郎の墓と伝えられているそうですが、その実名は不詳のようです。
 また左側の「玉の井」との額がかかる小堂はいかなる旱魃にも枯れることのない井戸として、「新編武蔵風土記稿」にも記されています。もっともお堂の中をのぞくと、どちらかといえば比較的新しい井戸ポンプが鎮座していました。 
( 2005/09/20 撮影 雨 )
訪城アルバム
■@■画像クリックで拡大します。以下同様
 玉井四郎の墓所の所在を示す標柱が玉井寺にむかう道路の角に建てられていますが、長年の風雨に晒されたために字が薄れてきてかなり読みづらく、内容を予め知っていれば読めるという状態で...(^^;

■A■
 そんなこともあり、墓所の直ぐそばには比較的新しいステンレス製の頑丈そうな解説版設置されていましたが、こちらの方もやや字が薄くなっているように思えました。

■B■
 玉井四郎の墓所の所在する新義真言宗玉井寺(ぎょくせいじ)本堂。「新編武蔵風土記稿」によればその墓所のあることから、玉井四郎助実が開基したという可能性を示唆していますがその詳細は不明のようです。
交通アクセス

・JR高崎線籠原駅より徒歩25分 MapFan Web の案内図です  

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