城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HP雑記帳
参考資料等 リンク集 工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/20の日記  別府城 西別府館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合25
所在地
埼玉県熊谷市東別府中郭
歴史と沿革

別府氏の館跡であることは確かなようですが
  「新編武蔵風土記稿」東別府村の古城跡の記述によれば、「村の中ほどに今も土塁の跡が残り、規模は東西40間、南北30間ぐらいである。尾張守長清まで数代が居住したが、天正年間にその子顕清の時忍城に篭城して所領を失い廃城となった。」(要約のみ)と記されています。ただしこの記述についてはすく西側にある東別府神社が鎮座する字北郭の別府城について書かれたもので、こちらの東側の曹洞宗香林寺境内の「遺構」について記されたものではないようです。
 別府氏の出自については成田氏を祖とすることは系図などから明らかなようですが、いわゆる「武蔵七党系図」と「成田氏系図」「別府氏系図」「東別府氏系図」などでは大きく異なっており前者は横山党の流れを示しているのに対し、後者は藤原北家を源流としています。また別府氏の祖についても前者は横山経兼の弟が成田大夫として埼玉郡の成田周辺を領有し、その弟の曾孫義久が別府氏の祖となったとしているのに対し、後者は成田大夫助高の次男行隆が別府二郎と称して祖となったとしています。
 「成田氏系図」「別府氏系図」「東別府氏系図」また「関東下知状」などによると、別府氏は12世紀の半ばごろに別府郷を開発した成田氏の一族でありも12世紀末あるいは13世紀のはじめに東西の別府氏に分かれ、惣領の東別府氏は別府能行が初代となりました。東別府氏は系図などによると南北朝時代以降には白旗一揆の一員として登場するなど、天正18年(1590年)の秀吉の関東侵入まで成田氏の一族、別府氏の主流としてとして別府郷を中心に土地の領有を継続していたものとされています。なお、約1キロメートルほど西側に所在していた西別府館は別府行隆の二男と思われる次郎行助の居館と推定されるものの、残念ながら館についてはそれ以上のことは不明のようです。
 そして寺伝によれば香林寺は別府小太郎清重が父義重の菩提を弔うために建立したとされていますが、これらの二人の名前は「新編武蔵風土記稿」の記述のように「成田氏系図」などには現れていませんのでどこまでが史実かはっきりとはしていません。

確認できる遺構
土塁?空堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■別府城東側の南へ直進する堀跡や、現在も曹洞宗香林寺の西側に残されている堀跡状の遺構、現在では消滅している東西方向に伸びる土塁跡などからみて、関連する城館を形成していたとする意見もあるようです。( 下記の「中世北武蔵の城」179ページ )しかし、「新編埼玉県史 通史編2中世」などでは別の遺構として捉えています。こうしたことも呼称をめぐる混乱の一因となっているのかもしれません。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「熊谷市史通史編」(1984/熊谷市)
「埼玉縣史第3巻」(1933年/埼玉県)
「埼玉の城址30選―歴史ロマン」(2005/西野博道編著/埼玉新聞社刊)
「武蔵の武士団」(安田元久著 1984/有隣堂)   

文化財指定
訪城年月日
2005/09/20
訪城の記録

( 2005/09/20 )
ここでも名称に困惑
 前回の9月15日にも訪れてはいたのですが、単なる参考程度に下の写真を撮影しただけで境内や周囲の観察は殆どといってよいほど行っていませんでした。しかし、この場所の直ぐ西側に所在する遺構が良好に保存されている別府城のページを整理するに当たり、再度確認すべき問題がいくつも発生しましたので再訪せざるを得ませんでした。
名称の整理をしておくと
 別府城と同一の城館を形成していたという考え方と、それぞれ別々のものであるという考え方があるようですが、これもよく整理しておかないと訳が分からなくなるほど城館跡の固有名詞が入り乱れています。
 
 「別府城」と表現するものは「新編埼玉県史通史編2」153ページ。
 「別府氏城」とするものは「中世北武蔵の城」179ページ
 「東別府館」とするものは「埼玉の城址30選」152ページ。
 「別府氏館の東郭」とするもの「埼玉縣史」187ページとなっています。
 要するに、別府氏関係の館跡はとりあえず「西別府館」「別府城」とあわせて合計3か所存在しているわけで、この館跡の名称を具体的に正確に表現するとすれば「東別府字中郭に所在する曹洞宗香林寺境内の西側堀跡状遺構」ということになるのでしょうか。 
 
 さて肝心の遺構の方はというと、北西部分の水田の近くには明らかに堀跡と思われるようなマイナス80センチほどの窪地が南北に細長く館跡に沿って残されていました。しかし、これが戦国時代当時の堀跡の名残であるのかどうかはどうも確証が持てません。この直後から次第に雨模様になり始めました。

記念撮影

 
 この日は、時々日が陰るもののご覧の通りの上天気でした。しかし9月20日に訪れたときは今にも雨が降り出しそうな真っ黒な雨雲が南の空に迫ってきました。写真は香林寺の南側にある山門。 
( 2005/09/15 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■@■画像クリックで拡大します(以下同様)        ( 2005/09/20 撮影 曇のち雨 )
 曹洞宗香林寺の本堂。

■A■
 東西方向の土塁が所在していたと推定されている細道脇の畑と香林寺墓地。

■B■
 香林寺境内の北西の水田の中に残されている延長50m弱の堀跡状の窪み。「埼玉縣史第3巻」(1933年/埼玉県)所収の第11図の堀跡状の遺構とおよその位置・形状は一致しています。
 また、写真右側のブロック塀の脇にある地面の盛り上がりも、なんとなく土塁跡のようにも見えなくもないのですが...

■C■
 幅は写真手前の北側の部分が約5メートルぐらいと最も広く、南に行くほど次第に狭くなっています。

■D■画像クリックで拡大します
 香林寺の寺伝などの記されている解説版。
交通アクセス

・JR高崎線籠原駅より徒歩25分 MapFan Web の案内図です  

工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中