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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/15の日記 東方城 別府城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合22
所在地
埼玉県熊谷市西別府
歴史と沿革

成田氏の一族の館の一つ
 「新編武蔵風土記稿」の西別府村の記述によれば「陣屋跡 村の中ほどにあり、別府氏の居住の地という、今は陸田かつ百姓の屋敷となれり」とだけ記されているにすぎません。「成田氏系図」「別府氏系図」「東別府氏系図」などによると、別府氏は12世紀の半ばごろに別府郷を開発した成田氏の一族でありも12世紀末あるいは13世紀のはじめに東西の別府氏に分かれました。西別府の館は別府行隆の二男と思われる初代西別府氏である次郎行助の居館と推定されるものの、残念ながら館についてはそれ以上のことは不明のようです。
 なお、東側に所在する安楽寺には九品仏堂(明治初期に廃仏毀釈のため廃寺)を再興したとされる南北朝の時代文和3年(1354年)に死去したとされる次郎行助から5代あとの別府甲斐守頼重(西別府氏)の墓所があります。西別府氏はこの頼重あるいはその2代後の宣重の代以降は系図の記載がなく、恐らくは14世紀半ばまたは15世紀の初頭頃に同族の東別府氏に併合されたものと思われます。また、この地域は深谷上杉氏の勢力と接する地点であり嫡流の成田氏あるいは古河公方勢力との関係で、上杉謙信の関東侵入の一時期を除いて後北条氏の支配が浸透するまでは断続的に軍事的な緊張関係が存在していたものと想定すると相互の城館の配置にやや疑問が発生します。

確認できる遺構
概ねなし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■別府氏から分かれた西別府氏は東別府氏に比べると恐らく早い時期に衰退した模様で、「新編武蔵風土記稿」が伝えているように館跡などの遺構も東別府氏のものと比べると現在はほとんど残されていません。西側約1キロメートルに所在する深谷上杉氏の勢力下にあったと考えられる東方城などと同様に妻沼低地を望む櫛引台地の北端に位置しています。また、東南東約1キロメートルには同族の東別府氏の城館跡があります。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 

文化財指定
訪城年月日
2005/09/15
訪城の記録

( 2005/09/15 )
畑の中に立派な石碑だけがポツンと
 東別府の遺構が「城」と呼ばれて、こちらがなぜ「館」と呼ばれるのかはよく分かりませんが、一応館跡と推定されている南側の畑の道路沿いに立派な石碑がぽつんと遺されています。北側の道路の変則的な曲がり方も曲輪跡との関連でやや気になるところです。他の印象としては北方の別所沼公園付近の湿地帯が天然の堀として機能していた可能性を伝えているという所でしょうか。
 また、館跡からは少々外れているようですが、北西の方角に所在する湯殿神社の辺りは古代の祭祀遺跡などもあるということで、鬱蒼とした樹木に囲まれたその景観はいかにも歴史的な趣を漂わせていました。

記念撮影

 約70年前の昭和11年3月に別府史跡保存会が建立したと裏側に刻まれている「史蹟 西別府舘址」の立派な石碑。最近礎石の部分を建て直した際にきれいにリフォームしたようです。ちょっと見ただけでは新品同様になっていましたので、建立の年月を見てやや意外な印象が。
 ( 2005/09/15 撮影 晴れ 微風 )
訪城アルバム
■@北側にある別所沼。暑さや水流の関係で藻が異常に繁殖したらしく沼の水面が全く見えませんでした。

■A館跡の北側部分。この木の下が別所沼になり、沼地との比高差は約4mほどの違いがあります。

■B天満天神宮の祠で、館跡の中心部分辺りからはおおむね丑寅の鬼門の方角に当たります。

■C現在は主に人工の還流水が流れている小河川の跡(堀跡)で、別所沼の低湿地とあわせて水堀のようなものが形成されていたのでしょうか。この元河川の流れは別所沼を通り北側を流れる福川に合流しやがて利根川に至ります。また、当時の様子は不明ですが現在は用水路としての掘削により東方城の北側を流れる小河川とも繋がっていることがわかりました。

■D湯殿神社の南側の参道入口とEの祭祀遺跡の標柱。

■E東側の堀跡の方から見た湯殿神社(正面)で、祠の左側にかつては湧水が湧く堀があり奈良時代には水神を祀る儀式が執り行われたと推定されています。(熊谷市指定史跡)

■E臨済宗安楽寺の別府甲斐守頼重とその夫人の墓所
(1936年3月11日埼玉県指定史跡)

■F上記Eの現地解説版。
交通アクセス

・JR高崎線籠原駅より徒歩25分 MapFan Web の案内図です  

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