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城館跡の名称 ■■■城名
関連ページのリンク  2005/09/15の日記  西別府館 
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態8 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合33
所在地
埼玉県熊谷市東別府北郭777(東別府神社境内)
歴史と沿革

東別府氏の居城(居館)
 「新編武蔵風土記稿」東別府村の古城跡の記述によれば、「村の中ほどに今も土塁の跡が残り、規模は東西40間、南北30間ぐらいである。尾張守長清まで数代が居住したが、天正年間にその子顕清の時忍城に篭城して所領を失い廃城となった。」(要約のみ)と記されています。
 別府氏の出自については成田氏を祖とすることは系図などから明らかなようですが、いわゆる「武蔵七党系図」と「成田氏系図」「別府氏系図」「東別府氏系図」などでは大きく異なっており前者は横山党の流れを示しているのに対し、後者は藤原北家を源流としています。また別府氏の祖についても前者は横山経兼の弟が成田大夫として埼玉郡の成田周辺を領有し、その弟の曾孫義久が別府氏の祖となったとしているのに対し、後者は成田大夫助高の次男行隆が別府二郎と称して祖となったとしています。
 「成田氏系図」「別府氏系図」「東別府氏系図」また「関東下知状」などによると、別府氏は12世紀の半ばごろに別府郷を開発した成田氏の一族でありも12世紀末あるいは13世紀のはじめに東西の別府氏に分かれ、惣領の東別府氏は別府能行が初代となりました。東別府氏は系図などによると南北朝時代以降には白旗一揆の一員として登場するなど、天正18年(1590年)の秀吉の関東侵入まで成田氏の一族、別府氏の主流としてとして別府郷を中心に土地の領有を継続していたものとされています。なお、西別府の館は別府行隆の二男と思われる初代西別府氏である次郎行助の居館と推定されるものの、残念ながら館についてはそれ以上のことは不明のようです。
 なお、「別府」とはもう一つの国府(支所)の意味などもあり、その歴史的な経過の証として現在でも西別府には熊谷市役所の支所が所在し、熊谷市内には埼玉県の県民センター(支所・県庁の地方庁舎)が所在しています。

確認できる遺構
土塁、空堀、小口
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■城館の遺構の規模は堀跡の外側部分で東西南北におよそ1町(109メートル)程の長さですが、南東部の一部が後世の宅地化によって消滅しています。南側の東西にのびる細道の位置と形状などから、この部分に連郭形式の外郭や全体を囲む外堀などが存在した可能性も考えられますが、詳細は不明のようです。
 また、東側の南へ直進する堀跡や、現在も東側の香林寺の西側に残されている堀跡状の遺構、現在では消滅している東西方向に伸びる土塁跡などからみて、関連する城館を形成していたとする意見もあるようです。( 下記の「中世北武蔵の城」179ページ )しかし、「新編埼玉県史 通史編2中世」などでは別の遺構として捉えているようですが、こうしたことが下記のような呼称をめぐる混乱の一因となっているのかもしれません。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「熊谷市史通史編」(1984/熊谷市)
「埼玉縣史第3巻」(1933年/埼玉県)
「埼玉の城址30選―歴史ロマン」(2005/西野博道編著/埼玉新聞社刊)
「武蔵の武士団」(安田元久著 1984/有隣堂) 

文化財指定
1941年3月31日 埼玉県指定史跡
訪城年月日
2005/09/15、2005/09/20
訪城の記録

( 2005/09/15 )
正式な名称は一体...
 東別府神社の境内そのものが城跡となっていて、保存状態は事前の資料にあったようになかなかのものがあります。土塁・空堀共に北西の角付近が最も規模が大きく堀底から土塁の天辺までは4.5メートルから5メートル近くもあると思われます。また、空堀は南側がほぼ失われているものの、残りの三方については概ね完全に遺されています。もちろん土塁も四辺が3か所ほどの小口とともに内側の高さで1.5mから2.5mとはっきりとわかる状態で目にすることができます。ただし、これは恐らくは後北条氏の支配する戦国時代当時のものであり、鎌倉時代のいわゆる武士の館をそのものを意味するものではありませんが、 神社に関連する城館跡は概して保存状態がよいようで、また神社が少し好きになってしまいました。そういうことで、本日都合3回目の参拝を。なお郭内は南東側がゲートボール場、中央部と北側が東別府神社、西側が児童公園と地域の集会所となっていますが、城館跡としての景観にはそれほど違和感はありませんでした。
 ただし、この遺構についての名称が資料等によりそれぞれ異なり統一されていないこともあり、HPに纏めるにあたり非常に困惑してしまいました。( 写真説明のB参照 )

記念撮影

 
 別府城の西側の小口付近は、土塁、空堀ともに非常によく保存されています。小口付近はやや喰い違いとなっているようにも見えますし、通路が土塁と平行しているため写真の左側から横矢がかかるような工夫にも見えました。 
( 2005/09/20 撮影 曇 )
訪城アルバム
■@■( 2005/09/15 撮影 晴れ 画像クリックで拡大します 以下同様 )
 東別府神社参道へと続く南側の公道よりの遠景。東別府神社の立派な石碑の脇に史跡別府城址の簡単な説明付きの標柱が設置されています。なお、同様の標柱は一番下の「25」の写真のように西側の小口の手前部分にも立てられています。

■A■
 南側の小口(正面部分)と思われる部分ですが、近代に車両通行のために間口が広げられたもののようです。なお、左側の土塁が10mほど前方に延びて左側から横矢がかかる構造が遺されています。

■B■困惑する城館の名称 画像クリックで拡大します以下同様
 南側の小口付近の石碑脇に設置されている現地解説版。
 この城跡の名称にはいろいろと呼称があるようで困惑しましたが、まず、この解説版自体からして「別府城跡」「東別府家の館」「東別府城」と三通りの表現がされています。
 次に目を通した幾つかの資料の範囲では、
 「別府城」と表現するものは「熊谷市史通史編」266、276ページ、「埼玉の城址30選」152ページ。
 「別府氏城」とするものは「新編埼玉県史通史編2」153ページ、
 「東別府館」とするものは「武蔵の武士団」167ページ、
 「別府氏館」とするもの「熊谷市史通史編」174ページ、「埼玉縣史」187ページとなっています。
 なお、さらに加えて「埼玉縣史」および「新編埼玉県史通史編2」では東側の曹洞宗香林寺をもう一つの館跡としているために、その呼称の如何も含めて、別府氏関係の館跡は合計3か所となり更にややこしい状況となっています。何時の時点で「館跡」が「城址」となりその固有名詞の数量が増えてきたのでしょうか。その原因の一端はこの説明版の表記にあるような気もするのですが。

■C■
 東別府神社の南側にある一の鳥居と、「史蹟東別府館趾」(右側)と刻まれた石碑で、神社の参道はこの鳥居をくぐって右に折れます。石碑は西別府館に所在する石碑や安楽寺の別府氏の墓所に所在するものとほとんど同時期に建立されたもののようですが、リフォームをしていないこともありやや苔むして年月の経過を感じさせます。

■D■画像クリックで拡大します以下同様
 別府氏が守護神としたと思われる春日神社を勧請したと伝わる東別府神社社殿。以下時計の針とは逆周りにして、東側、北側、西側の順番で写真を配列してあります。

■E■
 南側の土塁の東よりの部分で内側はゲートボール場となっています。この辺りの土塁の高さは内側で1m前後で、また、この写真の通路部分は堀跡と思われます。

■F■
 小前田氏の館跡で農業用水に落ちていますので、今回はおそるおそる一歩ずつ足を踏み出して堀底から撮影した割には何の変哲もない夏草に覆われた空堀の写真となってしまいました。空堀は思いのほか深くて土塁の低いこの辺りでも底面から土塁の天辺までは4m前後はあります。

■G■画像クリックで拡大します以下同様
 現在は東側の土塁の中段部分に、ゲートボール場の排水のためと思われるU字溝がこのように埋設されていますが元来は犬走状の遺構であった模様です。

■H■
 東側の小口部分で西側の小口に比べると、現状では土塁が大分低くなっています。

■I■
 真正面から見た東側の小口部分、小口部分の土塁の傾斜はかなり緩やかに見えます。

■J■
 方形の城館跡の北東角部分付近の様子。

■K■
 北側の東よりの土塁と空堀。

■L■
 同上

■M■
 北側やや西よりの土塁と空堀の様子。

■N■画像クリックで拡大します以下同様
 北東の角部分で、たぶん土塁の高さでは最高地点です。堀底から土塁の頂点までは目測で約5メートルほどかと。当時は櫓台などとして利用されたのかもしれません。

■O■
 北側土塁の中間部分で右側が郭内。
この城館に籠城できる将兵の人数は
 さて、この城館跡が戦国時代において単郭の城館であったかどうかどうかについては分かりかねますが、郭内の広さは5000(約1500坪)平方メートルに満たない広さですので、このことから篭城できる収容人員の最大値はおそらく三百人ほどではないかと思われます。
 まず、共用部分としての井戸・水場・炊事場、厠、武器庫、食料庫、馬屋、その他の倉庫、通路そして上級武士の居住部分などの占有部分を差し引くと、雑兵が寝泊りできるであろう掘立小屋が建てられる広さはおそらくせいぜい200坪前後となります。雑魚寝状態で雑兵である城兵1名当たり1坪の居住スペースが与えられたとして二百人が限度。このほかに一騎駆けの馬上小領主クラスの武士が数十名篭城したとしても三百名には足りません。もちろんどれだけの知行と郷村の人口を掌握していたのかによっても兵力としての動員力は変わってきます。
 また、天正10年に成立したと伝えられる「成田家分限帳」によると、御家門として別府尾張守長吉の名が見えており、その貫高は永楽銭500貫文と記されています。佐脇栄智氏によれば後北条氏の軍役は概ね5貫文につき1名とされていますので、大変大まかな計算ですが500/5=100人となります。このことから別府氏は戦時には与力・同心衆を加えて多くとも200人程度の集団を編成する程度ではなかったかと思われますので、まさに等身大の城館の規模ではなかったかなどと勝手な想像をしています。
( 「後北条氏と領国経営」(1997 佐脇栄智著/吉川弘文館)、「成田家分限帳」(鷲宮町史資料編四 1983/鷲宮町)をなど参照しました ) 

■P■
 Nの角部分を土塁上から撮影したもので、角部分が手前と比べて80センチほど盛り上がっていました。

■Q■
 Nの角部分の頂点から北側土塁の様子を撮影したもの。左側が空堀で、右側が郭内ですが郭内部分の土塁は大部斜面が緩くなっていました。

■R■画像クリックで拡大します以下同様
 西側土塁の小口から南側の部分の様子。なお、写真の東側には地域の集会所の建物が建てられています。

■S■
 西側の小口部分を小口の北側の土塁から撮影したものです。この逆の写真が下の「21」の写真となります。西側小口の内側には小さな児童公園もあり、ブランコと砂場などの遊具とベンチなどが設置されていました。

■21■画像クリックで拡大します以下同様
 西側の小口付近を南に向けて土塁の上部から撮影したもので、向って右側が空堀で左側が郭内。

■22■
 西側口を外側の通路部分から撮影したもの。

■23■
 空堀を渡ると短い距離ですが、西側の小口への道は土塁と平行にすすみやや上り坂となっています。

■24■( 2005/09/20 撮影 曇 )
 城跡西側の標柱と城跡遠景。ここまでご覧いただいた方お疲れ様でした (^^)
交通アクセス

・JR高崎線籠原駅より徒歩25分 MapFan Web の案内図です  

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