城館跡の名称 | ■■■城名 | |
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関連ページのリンク | 2005/09/15の日記 西別府館 | |
おすすめ評価 |
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埼玉県熊谷市東別府北郭777(東別府神社境内) | |
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■東別府氏の居城(居館) |
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土塁、空堀、小口 | |
周辺の地理的特徴 |
■城館の遺構の規模は堀跡の外側部分で東西南北におよそ1町(109メートル)程の長さですが、南東部の一部が後世の宅地化によって消滅しています。南側の東西にのびる細道の位置と形状などから、この部分に連郭形式の外郭や全体を囲む外堀などが存在した可能性も考えられますが、詳細は不明のようです。 |
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記録 |
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊) |
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1941年3月31日 埼玉県指定史跡 | |
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2005/09/15、2005/09/20 |
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( 2005/09/15 ) |
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記念撮影 |
別府城の西側の小口付近は、土塁、空堀ともに非常によく保存されています。小口付近はやや喰い違いとなっているようにも見えますし、通路が土塁と平行しているため写真の左側から横矢がかかるような工夫にも見えました。 ( 2005/09/20 撮影 曇 )
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訪城アルバム |
■@■( 2005/09/15 撮影 晴れ 画像クリックで拡大します 以下同様 )
東別府神社参道へと続く南側の公道よりの遠景。東別府神社の立派な石碑の脇に史跡別府城址の簡単な説明付きの標柱が設置されています。なお、同様の標柱は一番下の「25」の写真のように西側の小口の手前部分にも立てられています。 ■A■
南側の小口(正面部分)と思われる部分ですが、近代に車両通行のために間口が広げられたもののようです。なお、左側の土塁が10mほど前方に延びて左側から横矢がかかる構造が遺されています。 ■B■困惑する城館の名称 画像クリックで拡大します以下同様
南側の小口付近の石碑脇に設置されている現地解説版。 この城跡の名称にはいろいろと呼称があるようで困惑しましたが、まず、この解説版自体からして「別府城跡」「東別府家の館」「東別府城」と三通りの表現がされています。 次に目を通した幾つかの資料の範囲では、 「別府城」と表現するものは「熊谷市史通史編」266、276ページ、「埼玉の城址30選」152ページ。 「別府氏城」とするものは「新編埼玉県史通史編2」153ページ、 「東別府館」とするものは「武蔵の武士団」167ページ、 「別府氏館」とするもの「熊谷市史通史編」174ページ、「埼玉縣史」187ページとなっています。 なお、さらに加えて「埼玉縣史」および「新編埼玉県史通史編2」では東側の曹洞宗香林寺をもう一つの館跡としているために、その呼称の如何も含めて、別府氏関係の館跡は合計3か所となり更にややこしい状況となっています。何時の時点で「館跡」が「城址」となりその固有名詞の数量が増えてきたのでしょうか。その原因の一端はこの説明版の表記にあるような気もするのですが。 ■C■
東別府神社の南側にある一の鳥居と、「史蹟東別府館趾」(右側)と刻まれた石碑で、神社の参道はこの鳥居をくぐって右に折れます。石碑は西別府館に所在する石碑や安楽寺の別府氏の墓所に所在するものとほとんど同時期に建立されたもののようですが、リフォームをしていないこともありやや苔むして年月の経過を感じさせます。 ■D■画像クリックで拡大します以下同様
別府氏が守護神としたと思われる春日神社を勧請したと伝わる東別府神社社殿。以下時計の針とは逆周りにして、東側、北側、西側の順番で写真を配列してあります。 ■E■
南側の土塁の東よりの部分で内側はゲートボール場となっています。この辺りの土塁の高さは内側で1m前後で、また、この写真の通路部分は堀跡と思われます。 ■F■
小前田氏の館跡で農業用水に落ちていますので、今回はおそるおそる一歩ずつ足を踏み出して堀底から撮影した割には何の変哲もない夏草に覆われた空堀の写真となってしまいました。空堀は思いのほか深くて土塁の低いこの辺りでも底面から土塁の天辺までは4m前後はあります。 ■G■画像クリックで拡大します以下同様
現在は東側の土塁の中段部分に、ゲートボール場の排水のためと思われるU字溝がこのように埋設されていますが元来は犬走状の遺構であった模様です。 ■H■
東側の小口部分で西側の小口に比べると、現状では土塁が大分低くなっています。 ■I■
真正面から見た東側の小口部分、小口部分の土塁の傾斜はかなり緩やかに見えます。 ■J■
方形の城館跡の北東角部分付近の様子。 ■K■
北側の東よりの土塁と空堀。 ■L■
同上 ■M■
北側やや西よりの土塁と空堀の様子。 ■N■画像クリックで拡大します以下同様
北東の角部分で、たぶん土塁の高さでは最高地点です。堀底から土塁の頂点までは目測で約5メートルほどかと。当時は櫓台などとして利用されたのかもしれません。 ■O■
北側土塁の中間部分で右側が郭内。 この城館に籠城できる将兵の人数は さて、この城館跡が戦国時代において単郭の城館であったかどうかどうかについては分かりかねますが、郭内の広さは5000(約1500坪)平方メートルに満たない広さですので、このことから篭城できる収容人員の最大値はおそらく三百人ほどではないかと思われます。 まず、共用部分としての井戸・水場・炊事場、厠、武器庫、食料庫、馬屋、その他の倉庫、通路そして上級武士の居住部分などの占有部分を差し引くと、雑兵が寝泊りできるであろう掘立小屋が建てられる広さはおそらくせいぜい200坪前後となります。雑魚寝状態で雑兵である城兵1名当たり1坪の居住スペースが与えられたとして二百人が限度。このほかに一騎駆けの馬上小領主クラスの武士が数十名篭城したとしても三百名には足りません。もちろんどれだけの知行と郷村の人口を掌握していたのかによっても兵力としての動員力は変わってきます。 また、天正10年に成立したと伝えられる「成田家分限帳」によると、御家門として別府尾張守長吉の名が見えており、その貫高は永楽銭500貫文と記されています。佐脇栄智氏によれば後北条氏の軍役は概ね5貫文につき1名とされていますので、大変大まかな計算ですが500/5=100人となります。このことから別府氏は戦時には与力・同心衆を加えて多くとも200人程度の集団を編成する程度ではなかったかと思われますので、まさに等身大の城館の規模ではなかったかなどと勝手な想像をしています。 ( 「後北条氏と領国経営」(1997 佐脇栄智著/吉川弘文館)、「成田家分限帳」(鷲宮町史資料編四 1983/鷲宮町)をなど参照しました ) ■P■
Nの角部分を土塁上から撮影したもので、角部分が手前と比べて80センチほど盛り上がっていました。 ■Q■
Nの角部分の頂点から北側土塁の様子を撮影したもの。左側が空堀で、右側が郭内ですが郭内部分の土塁は大部斜面が緩くなっていました。 ■R■画像クリックで拡大します以下同様
西側土塁の小口から南側の部分の様子。なお、写真の東側には地域の集会所の建物が建てられています。 ■S■
西側の小口部分を小口の北側の土塁から撮影したものです。この逆の写真が下の「21」の写真となります。西側小口の内側には小さな児童公園もあり、ブランコと砂場などの遊具とベンチなどが設置されていました。 ■21■画像クリックで拡大します以下同様
西側の小口付近を南に向けて土塁の上部から撮影したもので、向って右側が空堀で左側が郭内。 ■22■
西側口を外側の通路部分から撮影したもの。 ■23■
空堀を渡ると短い距離ですが、西側の小口への道は土塁と平行にすすみやや上り坂となっています。 ■24■( 2005/09/20 撮影 曇 )
城跡西側の標柱と城跡遠景。ここまでご覧いただいた方お疲れ様でした (^^) |
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