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城館跡の名称 ■■■城名
関連ページのリンク  2005/09/08の日記  飯塚氏館 小前田氏館 鉢形城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合21
所在地
埼玉県大里郡寄居町桜沢
歴史と沿革

館跡を国道のバイパスが縦断
 藤田氏初代五郎政行の三代後の藤田左衛門尉能兼(好兼)の子である三郎左衛門氏兼が榛沢郡桜沢に居を構え、その子宗氏が桜沢氏を称したとされています。なお、桜沢氏は宗教的な事蹟として明応7年(1498年)に「大般若経」、天文8年(1539年)に「金光明最勝王経」を書写・奉納したことが知られています。
 また桜沢は藤田氏の支配の後、後北条氏の時代には鉢形城の城下の村であり、北条氏邦が桜沢の八幡宮前に関所を設置して北側の守りを固めたとされています。

確認できる遺構
堀跡?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■荒川が北から東へと尾大きく蛇行する左岸北側の櫛引台地の河岸段丘上に位置し、北側と西側は上武山地の山々が間近に迫っています。東役1.8キロには小前田氏館、北1.8キロには飯塚氏館が所在します。また、館跡とされる場所を国道140号線(秩父街道)パイパスが縦断し、その面影はほとんどありません。
 また稲村担元氏の「北武開発豪族桜沢氏の研究」によれば北辺215m、東辺219m、南辺166m、西辺188mの方形で以前は四方に土塁をめぐらしていたとされています。(「寄居町史 通史編」より)

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「寄居町史普及版 寄居町の歴史」(寄居町教育委員会/1989編集発行)
「寄居町史 通史編」(寄居町教育委員会/1986編集発行) 

文化財指定
訪城年月日
2005/09/08、2005/09/15
訪城の記録

( 2005/09/08 )
水路はたぶん堀跡かと、しかし土塁は...
 南西部に所在する30年ほど以前の土塁跡の写真が掲載されている「寄居町史通史編」の情報が唯一の頼り。現地は荒川の北岸に位置し、遺構のど真ん中を国道140号線のバイパスが貫通しているというおよそ中世の館跡の名残を全く感じさせない周辺環境です。北側に僅かに残る水路がかつての堀跡を連想させてくれます。
 さて問題の土塁跡はおよその位置は合っていそうなのですが、周辺の住宅の位置関係が少し違うようにも思えてなんとも判断のしようが...しばしの間現地で思案したもののどちらとも確証が得られませんでした。

( 2005/09/15 )
水路の位置は確認、土塁跡はたぶん...
 やっぱり、前回の訪城では館跡と見当をつけた位置が100mほど西側にずれていたことを改めて確認しました。今回は事前に地番図と堀跡の水路の位置をしっかりと頭に叩き込んで、さらに現地では国道
140号線の歩道橋の上から全体の景観を確認したりしましたのでほぼ間違いなしと、珍しく強気に。
 さて遺構に関してはというと、堀跡の水路は北側と東側に残されていることが確認できたのでこちらの方はまず間違いなし。また、最大の懸案であった南西端に僅かに残るとされている土塁の位置とその有無についても、おそらくこれであろうと無理やり決め付けて目出度し目出度し?

記念撮影

 桜沢堀ノ内の所在地にはご覧のように国道140号線のバイパスが南東方向から北西方向にかけて縦断しており、とても中世の館跡が所在していたとは思えません。
 なお正面に見える山が八幡山と呼ばれるで山で頂上付近に戦国時代の砦(桜沢砦)があったと推定されています。
 
( 2005/09/15 撮影 晴れ時々曇 )
訪城アルバム
■@土塁跡かどうかと首をかしげる宅地内の不自然な地面の盛り上がりが...「寄居町史通史編」に掲載されている30年ほど以前と思われる古い写真比べると背景の山の位置は正にぴったりなのですが、館跡の位置からは100mほど西側にあります。おそらく無関係かと思われますが一応撮影させてもらいました。( 2005/09/08 撮影 晴 )

■Aこの30mほどの短い区間だけですが細い水路が残されておりいかにも堀跡らしいと思ったのですが、あとでよくよく資料などを確認してみると見当をつけていた場所がなんと実際には100メートルほど西側にずれていました。流れそのものは全く同じ水路なのですが、本来の堀跡は主として国道の反対側の方に存在していましたでした。( 2005/09/08 撮影 晴れ )

■B総選挙の時はポスターの掲示板が建てられていました幹線道路沿いの盛り土。@と同じ道路に面していて、館跡の遺構の位置からも西側にずれていますので、これはまず遺構とは関係なさそうな工事関係の残土かと。
( 2005/09/15 撮影 晴れ時々曇 以下同様)

■Cこれがとりあえず土塁跡の本命かと。手前の方には土木工事関係の資材などがあったりして雑然としていますが、位置としては館跡の南西の端の方にあたりますので最も可能性が強いような。

■D館跡とされる場所は国道の東側に偏っていて、この水路は北側を東西に流れていて、「寄居町史通史編」では堀跡の名残であろうと推定しています。

■E館跡の東側を南北に流れる水路は全体の半分ほどは暗渠となって道路の下に埋設されていますが、住宅の外れまで行くとこのように地表に露出しています。周辺には事故防止のために高さ1.2メートルほどのネットフェンスで囲まれていました。コンクリートで三方を囲まれてはいますが、水量も多くこの辺りがもっともよく堀跡らしい印象を与えてくれる部分です。なお、この水路は最終的には県道の下を横断して荒川に注いでいるようです。

■F国道140号線の歩道橋の上から眺めた桜沢堀ノ内の東側部分で南北に伸びる東側の直線状の堀跡がはっきりと見えます。
交通アクセス

・東武東上線玉淀駅または秩父鉄道桜沢駅より徒歩10分
MapFan Web の案内図です 

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