城館跡の名称 |
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関連ページのリンク |
2005/09/08の日記 飯塚氏館 |
おすすめ評価 |
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯1 印象2 総合19 |
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所在地
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埼玉県大里郡花園町小前田字陣屋 |
歴史と沿革
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■藤田氏の一族小前田氏の館として、戦国時代には長谷部氏あるいは大森氏の館か
「花園村史」掲載されている猪俣党の系図によれば、藤田氏の祖とされる五郎政行の孫にあたる信国が小前田野三郎と称して小前田の地に居館を構えたとされています。その後戦国時代には藤田氏に属していましたが、藤田氏の後北条氏への降服後は鉢形城主北条氏邦に仕えたとしています。
江戸時代に作成された戦記物である「関八州古戦録」によると武田勝頼、織田信長が死去した天正10年の上野沼田倉内の森下三河守の城攻めに小前田越中守が活躍した旨の記載があり、また正竜寺旧記・鉢形之由来町田年譜では小前田越前守が天正18年の鉢形城の攻防で氏邦の奥方と光福丸を守護し脱出の際の交戦で討死したとされています。
また元亀元年(1570年)と同2年の「長谷部家文書」によれば、長谷部兵庫助らの10名から11名(馬上5名を含む)の「小前田衆」についての記録が残されています。この小前田衆は小前田の荒地を開拓した開発集団であると共に、後年において鉢形城の軍勢に組み入れられたことが明らかにされているようです。しかしこの小前田衆と先の小前田を名乗る2名(1名か)の人物との相互関係は明らかではないようです。
また、「花園村郷土史」によると、「文明年間には大森越前守が居城し関東管領上杉顕定に仕えた後、天文7年(1538年)に後北条氏に降り、天正18年(1590年)の秀吉の関東侵入時に鉢形城にて忠死、そのとき田口帯刀なるものがこの陣屋を守ったが木村常陸守、浅野弾正により忽ち焼き払われて討死した」(鉢形由来書=鉢形之由来町田年譜のことか)との記録を紹介しています。なお、永禄10年(1567年)の大森越前守らに宛てた小前田郷の開発に関する北条氏邦朱印状から大森越前守が小前田郷を宛行われていたことは傍証されます。
(2005/09/23記述追加)
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確認できる遺構
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堀跡? |
構造的特徴および
周辺の地理的特徴
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■荒川方向に向けて緩斜面を形成する荒川の北岸の台地上の国道140号線の北側の水田地帯に所在し、「花園村史」によれば南北に長い長方形で38,468uの広さを有し北東部に土塁の一部が残されているとの記述があります。
また、明治44年に編纂された「花園村郷土史」では「百間四面の堀形あるいは土塘の形趾あり」とされ、90年ほど前まではかなり明確な意向が存在していたことが窺がわれますが、用水路となっている堀跡と思われる部分を除いて近年の耕地整理と宅地化によりほぼ消滅しているようです。
(2005/09/23記述追加)
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参考資料、古文書、
記録
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「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「関八州古戦録 上、下」(槇島 昭武 原著 1991/教育社刊)
「後北条領国の地域的展開」(浅倉 直美 著 1997/岩田書院)
「花園村郷土史(花園町郷土史料第一集)」(原本は1911年/大里郡教育会刊行)
「花園村史」(1970/花園村)
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文化財指定
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無 |
訪城年月日
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2005/09/08 |