市町村別の城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 「ほっつきブログ」へリンク
参考資料等 リンク集
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 「城館遺構まがい」を集めたPAGEへリンク

アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
関連ページへのリンク  2007/01/22のブログ  2007/03/31のブログ りゅうがい山 小瀬戸城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象5 総合28
所在地
埼玉県飯能市坂石町分172
歴史、人物、伝承

岡部六弥太忠澄の後裔の館跡か
 南方の「りゅうがい山」と深いかかわりを有する戦国時代の頃の岡部氏に関係する館跡と推定されますが、今のところ「新編武蔵風土記稿」の記述以外には手がかりがありません。
凸関係する歴史上の人物
 「新編武蔵風土記稿」によれば、岡部六弥太忠澄が開いたとされる忠澄庵や忠澄の上屋敷とされる場所が同じ坂石町分に所在していたところから岡部氏との関わりが深いものと推定されます。
 岡部氏は武蔵七党猪俣党の流れを汲み、「武蔵七党系図」によれば猪俣忠謙の子忠綱が岡部の地に来住し岡部六大夫と称したことに始まるようです。「飯能市史」によればそうした岡部氏の一族が支配していたことを記していますが、おそらくは岡部氏関係の在地勢力が後北条氏の支配の下で地域支配の拠点としていたものと推定されます。また「飯能市史 通史編」によれば岡部氏の一族はその後足利尊氏に仕え、その後永享の乱に巻き込まれたのち扇谷上杉氏に仕えます。扇谷上杉氏滅亡後には後北条氏の松田氏に仕え、さらに後北条氏滅亡後には徳川家に仕えて関ヶ原の合戦、大阪の陣などで戦功を挙げ1500石の旗本として幕末まで続いたとされています。
 なお、天正18年の松山城の攻防の軍勢の配置を示したとされる「天正庚寅松山合戦図」において、古郡・柏崎・今泉方面の城方(後北条方)として岡部越中守忠直という名が見えますが飯能地域の岡部氏との関係は不明です。

確認可能な遺構
平場(郭)、切岸、腰郭?
地理的特徴

りゅうがい山中腹の約2千uの規模を有する削平地
 りゅうがい山の山頂から比高差にして100mほど下った地点で麓との比高差は70m前後の杉の植林に覆われた広い尾根筋上に所在しています。
 東西方向約40メートル、南北方向約50mほどの殆んど平坦な人工地形であることが明確な平場であり、南側の尾根筋つづきを除く三方の斜面には人工的な「切岸」がはっきりと存在しています。

文化財指定
訪城年月日
2007/01/20、01/22、03/31
訪城の記録 記念撮影

( 2007/01/20 )
デジカメの故障
 また、ニコンD70が先日の武州松山城以来不調続き。 本日飯能方面に出陣したものの、光線の加減もありシャッターが切れない状態が頻繁に発生。 このため、りゅうがい山と岡部屋敷双方の所在地と概ねのルートを確認しただけで敢え無く撤退することに。 致し方なく、故障したデジカメはとりあえず保証期間中だったので修理へ出したものの、最低1ヶ月はかかるとの事由のためやむを得ず代替機であるキャノンのEOSKissXを購入する羽目に。

( 2007/01/22 )
デジカメの操作にもたつく
 りゅうがい山の山頂からその北尾根中腹に所在するはずの「岡部屋敷」を目指すことに。 とはいっても明確な登山道などは見当たらず、方位磁石と現地の地形を十分に確かめて比高差100メートルほどの下降を開始。
獣道さえ見当たらない杉の植林された薄暗い北側の斜面を下降中に先ず1度ズッコケ。 途中から杉の植林のため視界が利かないものの、上方からの地形判断により些か方向が東側にずれていることが判明。 このため途中から西側へ50mほどトラバースして細い尾根上に僅かな人間の踏跡(獣道兼用か)に移動。 然し朝方までの雨のためたっぷりと湿った杉の木の根のため、ふたたび落ち葉の斜面にて自分の意思とは関係なく体がスライディング。
 こうなったら完全武装せざるを得ず、デジカメは背中のザックに収納し両手を完全にフリーに。 かつ、危険作業用の特殊手袋を装着し、その後の転倒の準備だけは怠りなく態勢を整えたため爾後怪我などは皆無。 その後さらに比高差で70mほど下降した時点で、上方からいかにもそれらしい「平場」を確認。 東西方向約40メートル、南北方向約50mほどの殆んど平坦に規模で南側の尾根筋を除く三方の斜面には人工的な「切岸」が明確に存在。
 南東部分の個所の平場がやや突出した形状でその個所に食い込む侵食谷の切れ込みが意外に深かったのが印象的。 さて此処から下るべき道が...ない。 北側には間近に国道299号線なども杉の植林の間から垣間見ることができるので、とりあえずは西側の杉の植林されたやや開けた緩斜面を下降。 しかしもこのまま下ると高さ20mほどのコンクリート製の崩落防止施設の上へと出てしまうはず。、このため尾根筋を東西に横切るような里道に突き当たった所から東へと進路変更。 あっという間に麓へと到着し、下りきった個所はなんと「中屋敷」と比定されている例の石垣のある畑なのでありました(笑) この場所から登れば「りゅうがい山」は別として、調査時間を含めても往復1時間前後と判明したのは正しく後の祭りなのでありました。

( 2007/03/31 )
予想よりも草の生育が遅く
 前回と同様にりゅうがい山経由での訪城。楕円形の平坦地は予想していたよりも草が少なく、とりあえず地形の特徴を掴むことは可能でありました。 前回は露出不足のためピンボケとなった祠と巨岩も今回はASAを切替えてしっかりと撮影。 さて麓の旧吾野小学校の広々とした跡地には、今や枝垂桜が満開にて「城逢人」管理人の史進殿とともに目の保養を。夜間のライトアップの設備も用意されるほどにそれは大変見事な枝ぶりなのでありました。

クリックで拡大します
岡部屋敷西側の切岸と括れた個所
( 2007/03/31 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大または別の画像へリンクします
画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸1 りゅうがい山岡部屋敷の遠景
 大きく蛇行を繰り返す高麗川左岸の国道299号線方向から眺望したもので、岡部屋敷のすぐ後方に標高354mのりゅうがい山が聳えているという位置関係をはっきりと掴むことができます。     ( 2007/01/20 撮影 )

凸2 りゅうがい山の方角 
( 2007/03/31 撮影 )
 岡部屋敷の所在する平坦地に降りる手前の尾根筋から南側に位置するりゅうがい山を見上げた構図で、本来は山頂から痩せ尾根が続いていたことが屋敷跡のトレンチ調査により明らかにされています。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸3 尾根筋から見下ろした岡部屋敷
 「2」の位置から反対側の北側に所在する岡部屋敷を撮影したもので、りゅうがい山から続く痩せ尾根を比高差にして100mほど下ると忽然としてこの平場が眼下に出現します。黄色いラインの部分が上記の「記念撮影」の画像に相当します。         
( 2007/03/31 撮影 )

凸4 南東側の湾曲部   
( 2007/01/22 撮影 )
 元来の東側の谷筋を生かし鋭い切岸が普請された深い括れた地形で、更に麓からこの谷筋を這い上がってくる場合には70mほどの比高差があります。


画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸5 西側の切岸      
( 2007/01/22 撮影 )
 東側の切岸は常緑樹の繁茂のため見辛くなっていますが、この西側の部分については絵に描いたような比高差5メートルほどの切岸の現存を目の当たりにできます。

凸6 大岩と石祠      
( 2007/03/31 撮影 )
 平場の東寄りには大岩が所在し、火除けの神であるおそらくは「愛宕社」と思われる石祠が所在しています。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸7 北西部分の切岸   
( 2007/01/22 撮影 )
 高さ3mから4mの規模を有する人工的な急斜面を呈しています。
凸8 腰郭状の地形     
( 2007/01/22 撮影 )
 北側の切岸部分の下段に所在する緩斜面上の地形で麓に向かって再び急斜面を形成しています。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸9 中屋敷( 2007/01/22 撮影 )
 岡部姓の方が近年まで居住されていたという中屋敷との地名が伝わる2千uほどの平坦地で、何とこの石垣沿いの個所を正面方向に進ませていただくと岡部屋敷へのルートに繋がっているのでありました。
凸10 坂石桜 その1    
( 2007/03/31 撮影 )
 麓の旧吾野小学校の跡地には、今や枝垂桜が満開にて暫し観賞を。ライトアップの設備も用意されるほどに見事な枝ぶりでありました。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸11 坂石桜 その2    
( 2007/03/31 撮影 )
 背後に写りこんでいるのも桜なのですが、桜全体で撮影すると画像が荒れることがしばしば。このため必ずアップで撮影する習慣がついてしまいました。
凸12 岡部屋敷とりゅうがい山
( 2007/01/20 撮影 )
 コンクリートの防護壁が中腹に見える岡部屋敷。右側に見えるのが標高354mの「りゅうがい山」ですが、撮影位置の関係のため100mもの比高差のあるようには見えない構図です。


交通案内

・旧吾野小学校跡地西側の標高約250mの裏山で比高差約70m
・白髭神社からは直線距離で南西約200m、徒歩約20分ほどの距離
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 秩父郡南村の項に、「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄が城跡なりと云 ...登ること十町ばかり 頂上平坦五六十坪 松杉及び雑木生茂れり 堀石垣等の形僅存せり 是より東の方谷を阻て 物見山と云える處あり 北の方へ下る事五六町ばかりの所に愛宕社の小祠あり 其下に四五百歩の平地あり是を中屋敷と云」と記され、「愛宕社」の記述部分以降ががこの平場部分に相当するものと思われますがあくまでも推測の域を出ません。
 また坂石村の項に「屋敷跡 一ヶ所忠澄の住いし上屋敷なりと云、千坪ばかり、今は畑となりぬ、茶碗などの類まま掘り出すことありと云」との記述がありますが、この「上屋敷」と前記の「中屋敷」の関係ならびに「岡部屋敷」との関係も寡聞にして一向に定かではありません。
■武蔵志 坂石村自体の記述が欠落しています。
■「秩父志」(大野満穂/著)の坂石村の項には「新編武蔵風土記稿」と同様に忠澄庵に関する記述はありますが、この岡部屋敷に直接関係するような記述はありません。
 

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)・「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市)
「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市)   

・2007/05/07 HPアップ

PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中